依頼
━モウ、コワクナイ━
あの時聞こえた「声」は何だったのだろう・・・?
何処かで聞いたことがあるような、懐かしい感覚。君は誰?
「J、ちょっと来い」
「は・・・はい」
管理局オフィス内で雪に声をかけられ、Jはコピー機から離れる。
管理局の一員と認められたものの、彼に出来る事は少ない。とりあえずのところ、荷物持ちに始まってコピー取りや書類整理、掃除に花の水変えまで・・いわゆる雑用係としての仕事を任命された。
勿論、Jに拒否権は渡されていない。断る理由もなかったが。
雪の席は管理局内一番奥、日当たりの良い処にある。隣の席には「綾瀬 雀」が座っているらしいが、彼は殆ど自席に落ち着いている事がなく、今日もそこは空席のまま主人が帰るのを待たされていた。
「ちょっと座れ」
「え・・・?」
雪はJが近づいてくるのを足音で確認すると、顔を見るでもなく指示だけを出す。その指示があまりにも端的で、Jは聞き取れずに聞き直してしまった。
「良いから、そこに座れ」
雪はJに聞き返され、今度はわざわざ雀のデスクの椅子を引き出し座るように促す。これなら間違える筈もない。Jは「失礼しま~す」と周りに雀がいないことを確認してから、席に着いた。
「何ですか?」
何となく慣れない位置に、Jは早く要件を済ませようと雪に詰め寄るが、当の本人はまたデスクに向かい何やら頭を抱えている。
「雪さん?」
「・・・・」
名前を呼んでも返事さえない。「座れ」と言ったからにはJの存在に気づいているであろうし・・・。もしこの距離で忘れられていたら、それはそれで悲しいを通り越して尊敬できると思う。そんなことを思いながら、Jはもう一度だけ名前を呼んでみる事にする。
「・・雪さ~ん?」
「・・・・・」
やはり返って来たのは沈黙で「駄目だこりゃあ」と、Jは気づかれないように溜息一つ吐く。あくまで気づかれないようにした、つもりだった・・・なのに。
「だぁ~~~」
「うわぁ!」
頭を抱えていた雪が・・・吠えた。
雪の雄叫びにも似た唸り声に、Jは椅子からひっくり返りそうになる。
「な・・何なんですか??」
とりあえず姿勢を直し、バクバクいう心臓に手を当てながらまたもや雪の顔を覗く。雪はそれに気づいたのか「キッ」と視線でJを黙らせ「うるせぇんだよ・・・」と聞こえるか、否かの声で唸った。
「ごちゃごちゃ、ごちゃごちゃ・・・少しは大人しく待てないのかよ?!・・えっ?!」
鋭いその視線に圧されJは椅子の上で縮こまってしまう。すぐにでも正座したい気分を抑え、シュンと項垂れると頭上から「そんなんじゃ立派な犬になれね~ぞ」と、冗談混じりの雪の声が聞こえた。
「・・・?」
すぐには理解できず、Jは雪の言葉を脳内で反復させる。
『そんなんじゃ立派な犬になれね~ぞ』
「そんなんじゃ立派な・・・犬ぅ?!」
やっと気付いたのかJは慌てて「雪さん!!」と、凄い剣幕で雪に詰め寄った。
「どーいうことですか、誰が『犬』なんです?!」
「んっ」
「・・・・・」
雪はそれでも平然とデスク上の書類に目を向け、指で「お前だよ」と返答する。Jは絶句した。
「・・・冗~談じゃないですよ!人の事呼んどいて、何なんですか、あなたは」
とうとう堪忍袋の緒も切れたのか、Jは「持ち場に戻ります!」と勢いよく席を立ちあがる。その時だった。
「おいっ、J」
雪が静かな声で名前を呼ぶ。歩きだそうと一歩を踏み出したものの、Jはその声に逆らえず渋々振り返った。
「座れ」
雪は予想以上に真剣な表情で、もう一度Jを椅子に促す。その眼に先程までの悪戯っぽさはなく、ようやく話を切り出すつもりになったらしい。Jも落ち着いて椅子に座り直した。
「何なんです」
雪の言葉に従ってしまったのが、ちょっと悔しいのかJは少し視線を外し呟いてみる。
雪はそんなJの態度を気にする風でもなく、先程まで自分が見ていた書類の束を彼に手渡した。
「これは?」
「ここの規則」
「・・・規則?ですか」
「ああ」
手渡された書類をぱらぱらと捲ってみるが、言葉が難しくすぐには理解できそうにない。どうしたものかと目の前にいる人の顔を覗き込むが、雪は頬ずえをついたまま固まってしまっていた。
(後で辞書でも引くか・・・)
仕方なく諦めると「これだけですか?」と要件が済んだのかを確認する。その言葉に気づいて「いや」と視線を合わせると、
「何か、変化がなかったか?」
「変化?」
急に何の事を言っているのか分からず、Jは戸惑う。
「昨日、覚悟を決めたろ」
昨日、雪と塁に連れられ「管理事務所」を訪れたJは、要という『最高責任者』の元で『記憶探し』をする覚悟を決めた。確かにそうだ。でも、その事と雪の言う「変化」と何の関わりがあるのだろう。
Jの気持ちを知ってか知らずか、雪は「まあいい」と呟いたあとデスクへと向き直った。
「・・・?」
雪が何を言おうとしていたのかは分からなかったが、その様子から、それ以上話をする気が見られなかったので、Jは「戻ります」と雪に一礼して席を立つ。その後ろで「嘘はつくなよ」と雪の悲しそうな声が聞こえた。いや、聞こえた気がした。
「・・・・」
何となくもやもやした気分でJは持ち場である「コピー機」前まで戻ってくる。
「おかえり」
と、そこには塁が立っていた。
「塁さん」
「ごめんね。ちょっと借りてるよ」
塁はコピー機を指差しながら、申し訳なさそうに微笑んでいる。Jはこの人物が意外とお気に入りだった。塁は見た目こそ女性の様だが、本当は芯の強い優しい男だと雪が呟いていたのを聞いたことがある。その通りなのだろうと思う。
(塁さんって、なんで髪の毛伸ばしてるんだろ)
塁は前髪を目の上あたりで切りそろえ、耳の下にかかる位に段カット、後は真っ直ぐに肩甲骨まである髪をおろしている。いわゆる「お姫様カット」だと言っていい。背丈も160後半で、外を歩けばよく女性に間違われる事があるという。
「J?どうかした?」
「塁さん・・・」
Jの呟きに、塁は「うん?」と不思議そうな表情を浮かべた。
「あの」
「よっ!!」
言葉を発そうとした途端、背後から元気よく声がかけられる。こんな風に表れるのは知っている中で一人しかない。綾瀬 雀。こいつだ。
「雀さん、急に出て来ないでください」
話の出鼻を挫かれ、Jはその怒りの矛先を雀に向けた。振り向いた先にいたのは変わりなく飄々とした顔の雀で、その視線はJを捉える事なく塁へと向けられていく。
「塁、急ぎの仕事なんだけど・・・手、空く?」
「今?・・本当に急だね」
二人の会話の中に、すでにJの存在はない。Jはその場に取り残されてしまう。尚も会話は続く。
「キツネは?」
「あいつは今、無理」
「イチは?・・・・と言いたい処だけど、彼も今は動けないと思うよ」
「どちらにしろ今回はイチじゃ駄目だな」
「そうなの?・・・僕もこれから用事があるからなぁ」
仕事の折り合いがつかないのか、二人はJの知らない人物の名前を出し合っては肯定と否定を繰り返す。そして最後に塁が出した名前は、やはりというか・・・「雪」だった。
「雪・・・か。雪なら申し分ないな」
塁の一言に雀は解決策を見出し、「あんがとな」と軽く挨拶を交わすとすぐさま雪の元へ行こうとする。その背中を塁が呼びとめた。
「待って、雀」
雀が振り向く。Jも塁の顔を見た。
「何?・・塁」
予想外の塁の声に訝しげな雀は、塁の言葉を待つ。塁は少し考える仕種をしてから「思うんだけど・・・」と口を開く。その眼はいつの間にか雀からJへと向けられていた。
「J、君も一緒に行ってほしい」
「はあ?」
「俺ですか??」
塁の言葉に雀とJは顔を見合わせて疑問符を浮かべる。その意図が分からなかった。
「何でよりによってJ?!」
「いや、その言われようも何ですけど・・・・でも何で俺?」
二人は思い思いに発言する。塁は少し困ったような顔をしてから「行けば分かるよ」と悪戯っぽく微笑んだ。その塁の微笑みに二人はそれ以上何も言えなくて、ただ塁の顔を見つめていた。