孤独の音《1-1》
憎い。哀しい。痛い。もう死にたい…。
冷たい夜風が頬を撫でる頃、彼は何処にも行けずに途方に暮れていた。
手には血のついた刃物が握られ、衣服は血と泥と汗でドロドロに汚れている。涙は不思議と出て来なかった。
「はぁはぁはぁ…っ」
乱れる呼吸をなんとか続け、精一杯空気を吸い込むと喉の奥で変な音がする。“ヒュッ”とその音と共に酸素が肺に入り込むと、その勢いに咳き込んだ。
「ゲホッ、ゴホッ…ハッ…うぅ…」
まるで獣か何かのように言葉にならない呻きを漏らし彼は人知れず逃げ込んだ森の中で座り込んだ。辺りは暗く、人通りはない。この辺りは有名な心霊スポットで、自殺の名所としても知られている。地元の人でも余程のモノ好きじゃない限り“夜”に来ようは思わないだろう…。今の自分には好都合な場所だった。
―ごめん…。
肩を激しく上下させ彼は息を吸う。
首にはあの男につけられた指の痕が今もくっきりと残っている。絞められた時のその感触まである。なんとも気持ちの悪いものだった。
ふと頭上を見上げれば、生い茂った木々の間からまん丸いお月さまが顔を覗かせていた。その月明りは、今の彼を際立たせる。
紅く染まったその顔までも――。
―後悔なんてしない…。
今更、そんなことをしてもどうにかなるものではない。このままあの男への憎しみを抱いて命尽きた方が、潔いように思えた。
―どうか…幸せに…。
ただ一つ願うのは、守りたかった人の幸せ。
それが叶うのならば、この命を、ちっぽけな自分という存在を、捨てた意味がある。少なくとも―無駄死―ではないと思えた。
―いいさっ、道連れでも…。
もう殆ど力の入らない手を見つめ、彼はそっと微笑む。それはいつもの彼と何ら違いの無い穏やかで優しい笑顔だった。
―もうすぐ、僕は死ぬだろう…。
そんなことを思いながら胸を上下させる。意識は次第に朦朧とし、眼も霞んでいく。それでも良かった。彼は全てに“満足”していた。それなのに―。
『死ぬのか…?』
不意に声が聞こえる。
誰か来たのかと重く沈んでいた意識を必死に浮上させ、彼はもう殆ど見えなくなってしまった眼を開いた。
―誰…?誰か…いるの。
月の光を雲が覆えば闇は一層その濃さを増し、森の闇に紛れるようにそれは揺らぎ姿を現した。長身に細身、けれども猫背の不思議な姿をした人―らしきモノ―が立っている。月の灯りもなく視力も殆ど失いかけたこの眼で、その表情が哀しそうなんてどうして思ったんだろうか…。
『死んでしまうのか…?』
闇の中、彼は再度問いかける。それは耳に聞こえる言葉では無かった。耳はとうに音を感じられなくなっている…だからこれは脳に直接響いているのだと思う。
―哀しい…の?
雲が流れ、月が姿を現す。その灯りは眼の前にいる彼の顔を浮かび上がらせた。黒い服に黒い髪、鼻から下の部分は黒い布で覆われ、僅かに覗く肌は青白いというよりは僅かに紫がかって見えた。考える事を止めていた脳を揺り起こすその紅い瞳に、彼は思わず問い返す。表情の見えないそのマスクの下で相手が息をのんだのが分かった。
―大丈夫…。
彼はもう一度呟いて、そっとその紅く染まった顔に笑みを浮かべる。いつしか苦しかった呼吸は落ち着き、あと何度呼吸が出来るだろうという処だ…。
不思議と辺りには静寂のみがあり、怖いとか痛いとかそういう感情もない。なんとなく誰かに看取って貰える事がくすぐったくて、彼はフッと眼を細めた。その時…。
「…いたのか――」
遠くの方から誰かが駆け寄ってくるのが見える。
言葉は分からなかったけれど、その誰かは自分のことを見ると怪訝そうに眉根を寄せた。なんとも綺麗な顔立ちをした―少年―だった。
―こんなところに…子供が…?
なんとも似合わない少年に彼は苦笑いを浮かべる…。そして、意識はそこで途絶えた――。
ようやく本編突入です。
塁の謎多き過去。
多分、暗い話になる…?かも知れません。
序章に引き続き、塁自身の回想的な感じでお送りします。