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ノスタルジア管理局  作者: 彩人
水底の涙
33/86

水底の涙・11


 水に沈み彼は水底から空を見上げる。

 ゆらゆらと揺らぐ水面に太陽が降り注ぎ眩しいくらいの光に目を細めた。


―綺麗だな…。


 澄んだ水はひんやりとして気持ちが良いのに、どうしてだろう…とても寂しくて、哀しみに満ちている気がした。何の音もなく、ただ流れる水に時折混じる哀しみの声。消え入るように小さくなる声を逃さない様に彼は深く深く潜った。


            *

「ココ…」


 暫く歩いて行くと水のせせらぎが聞こえてくる。

 胸のざわめきに引き寄せられるままに歩き、彼はその水面に自分の顔を映す。


「―っ」


 水面に移るは確かに自分の顔のはずなのに、その顔は悲愴に染まり今にも消えてしまいそうなほど脆い。この表情を彼は知っていた。


―どうしてっ…。


 本当に戻ってきてしまったのだと彼の本能が告げる。もう逃げる事は出来ない。後ろを振り返る事も…。だってココは…。


―俺が記憶を埋めた場所だから……。


 その瞬間、彼は暗い記憶の淵へと落ちて行った。


             *


「どうぞ」

「ここは?」


 彼女に連れられてきたのは個室の病室。

 全体的に“白”で整えられたその場所は、清潔というよりは物悲しく映る。色も温度もない室内はまるで死を待つ為にある部屋のような気がした。


―心細いだろうに。


 イチは不意に目を細める。自分ならこの部屋にいたいとは思わないだろう。光の指す昼間ならまだしも、一人きりで過ごす暗い夜の部屋は何とも孤独と寂しさに溢れ怖い事だろう…と。


「―っ」


 室内を見回して不意に目に着いたのは同じ白の無機質なベットに横たわる男の姿―それは写真でしか見た事のない彼“J”だった。

実際に顔を合わせた事はない。ただ上司(要さん)から手渡された資料と、彼ら(・・)から洩れ聞いた話。あとは神谷の最近の記憶を盗み聞けばそれだけでこの死んだように横たわる男が“J”であると判断が出来た。


「弟です」

「…弟?」

「もう一月くらいかしら…眠ったまま目覚めないの」


 彼女は哀しそうに呟くと、そっと眠る男の前髪を掻き上げ優しく頬を撫でる。優しく慈しむようなその表情にイチは言葉を失った。


―こんなに思われているのに…。


 何故彼は“迷子”になどなったのだろうか。

 愛され温もりを与えられていてもなお、その心は悲鳴を上げ彷徨うのか。もしそうなのだとしたら、それはとても“贅沢”に思えた。


―愛されずにいた者の痛みも知らずに…。


 愛す事も、愛される事も叶わなかった彼ら(・・)の思いも知らずに。

 チクリと痛む胸を抑え、イチはそれとなく彼女に話しかけた。


「どうして、目覚めないのですか?」

「……」


 彼女はそっと目を伏せるとただ首を横に振った。


「分かりません」

「…病気とかではないのですか?」

「病気は…確かに患っています」


 歯切れの悪い彼女の言葉を辛抱強く待つと、彼女は“でも”とその先を告げる。病気は治らないモノではない―と。


「それはどういうことですか?」

「…先天性の病気でした」


 戸惑うイチに彼女はまっすぐに見つめると、事の経緯を語り始めた。

 

 J―いや、彼の本名は“瀬名 淳一(せな じゅんいち)”。

 幼少の頃より素直で、明るく誰からでも好かれる少年だった。小学生からサッカーを始め、中学・高校とその青春時代をサッカーに費やし、将来を有望視されるほどの選手として育っていった。そんな楽しい毎日が続いた高校二年生の夏。それは突然にやってきた。


「―っつ」

「淳一!?」


 朝練に向かおうと立ち上がった瞬間、襲い来る痛み。彼は言葉もなくその場に倒れ、次に目覚めた時には白い壁に囲われた大学病院のベットの上。募る不安に、襲い来る痛み―それが、先天性の心臓の病気だと告げられた時、彼は一筋の涙を流したという。


「治りますか!?」


 呆けた彼の代りにその言葉を聞いたのは、三つ上の姉。普段はほんわかとして天然を地で行くような彼女が、うろたえる事もなく医師に詰め寄ると縋るような瞳でその答えを待った。


「大丈夫…今の医学でならそうそう命を落とす事はないでしょう」

「……っ、よか…たぁ」


 黙ったまま俯く弟の肩を抱き、彼女は安堵に言葉を詰まらせる。その場に崩れ落ちてしまいそうな衝動を抑え、彼に“大丈夫だって”と何度も繰り返す。たが、医学の進歩により高確率で助ける事が出来ると告げた医師は、同じ口で残酷な宣告をした。


「ただ、激しい運動は…」


 その言葉の続きは聞かなくても分かっている。

 彼の心に“絶望”と言う名の暗闇が広がった瞬間だった。



 窓の外を見ていた彼女が、不意に肩を震わす。


「あの子、人一倍優しいから」

「……」

「心配かけないようにって…いつも笑顔で振る舞ってた」


 “大丈夫”、“命が助かるだけでも有り難いと思ってる”

 笑顔と共に向けられたのはそんな言葉。時折一人きりの病室で俯いているのを見かける度に胸が締め付けられた。

 辛くないわけがない。

 本当は哀しいし、悔しいだろうに、彼はそれをひた隠しこの白い部屋で手術の日程を待つ日々を送った。


「異変に気が付いたのは、前日でした」

「異変?」


 イチの言葉に彼女は小さく相槌を打つ。

 手術が翌日に迫り、彼女がいつものように弟の病室を尋ねると彼は眠っていたという。気持ちがよさそうに、幸せそうに眠る顔を見ていると起こすのも忍びなくて、彼女はそのまま彼が起きるのを待っていた。

 やがて真上の辺りにいた太陽は傾き、部屋に薄暗い闇が来ても彼は眠ったまま。その様子を訝しがって声をかければ、案の定返事はない。それ以来、向けられていた笑顔が返ってくる事はなかった。


「本当に眠っているだけなんです」

「……?」

「何処にも異常はなくて、ただ本当に眠っているんです」


 一月も経てば人相も変わる。

 一通りの検査を受け、身体の何処にも異常は見つけられずに医師も頭を悩ませる。点滴での栄養は受けているものの、大分痩せ陽に焼けていた肌も今は嘘のように青白かった。そのまま原因も分からず彼は眠り続けているのだと言う。


―当の本人が身体を離れている以上“目覚める”ことはないだろう。


 彼が管理事務所を訪れてからどれ位が経つか。不意にそんなことを思いながら、今の状態があまり好ましくない事を悟る。身体を離れた魂は、その心は脆く傷付きやすい。その状態が一月近くも続いているというのは魂にかかる負荷も大きいはずだ。

 思案を巡らせていると彼女がぽつり呟く。


「ずっと」

「……」

「名前を呼び続けているんですけど…」


 微かに肩が震えその頬を雫が伝う。とても純粋で真っ直ぐな“思い”の涙。どうして、彼には届かなかったのだろう。誰よりも近くで、こんなに思ってくれている人がいるのに。


「大丈夫」

「―っ」


 躊躇いがちにイチは口を開く。確信なんてないし、根拠を聞かれれば黙るしかない。それでも。


―管理官として、人間として、“(カレ)”を連れ戻す。


 例えそこに待つものが痛みや苦しみだとしても、彼はこの思いを知るべきだ。目の前で涙を流す人の事を――知るべきだ。


 触れることはしない。

 自分は“管理官”で、他人だから。深く関わってはいけないから、せめて言葉を…。この言葉が少しでも貴方の心を安らげるように。

 イチは意思の強い眼差しを彼女に向けて微笑むと、静かに言葉を紡いだ。


「きっと、眼を覚まします」


 その一言に彼女が息をのんだのが分かった。

 根拠も何もない、気休めにしかならないような“他人(ひと)”からの言葉に彼女はフッと眼を細める。そして今度ははっきりと“ありがとう”と呟いた。


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