水底の涙・10
水の中を漂うような、そんな感覚がある。
ふわふわと、ゆらゆらと、何処かへ誘うようなその揺らぎに彼は身を委ね眼を閉じた。
一方、雪はそこにいた。
水の音を追いかけ辿りついた先は病院裏手に位置する小川。丁度病院からも見える位置。
―条件は揃ってる。
水の辺で立ち止まると、何かを考えるように口に手を当て考える。あと一歩と言うところまで来ている気がするのに、肝心の記憶が見当たらない。焦る気持ちと苛立ちを滲ませながら乱暴に前髪を掻き上げる。
―くそっ…
自分に悪態を吐いて辺りを見回す。
生い茂る草木に緑の木漏れ日、そして流れるは―水の音。どことなく彼の良く知る“記憶の海”の景色と類似しているように思えた。それが余計に彼を落ち着かせない。
「…神谷?」
不意に声をかけられて、そこに彼―イチーが居た事に気付くと雪は伏せていた顔を上げ彼に向き直った。
「イチ、お前ならどうする?」
「……」
「失くしたいんだ。忘れたいというより、なかった事にしてしまいたい」
「…記憶を…か?」
イチの問いかけに雪は頷く。
忘れたかったんじゃない。最初から何もなかったように綺麗に消してしまいたかっただけ。短い時間だが、彼を見ていてそう思った。
忘れるなんて都合の良い事じゃなくて、記憶自体を削除したかった。そうすることで“自分”を守りたかったように思う。自我が壊れてしまう前に…。
―望んだのはこんな事じゃないはずだ。
そうだろう、J?
いつだって素直だった。
からかわれたって、馬鹿にされたっていつでも無邪気に笑って明るく振る舞っていた。不自然なほどの“前向き”さ。彼からはいつもそんな印象を受けた。
一人思案を廻らせれば木漏れ日の隙間を縫って差し込んだ日差しに、何かが反射して眩しいほどの光を放つ。
「んっ…」
「どうした?」
雪の様子に気が付いて彼もその光の元へと視線を向ける。そこには、やはりアレがあった。
「鍵…か?」
「…ああ」
「何を示す?」
普段は服の下に隠れているペンダントが、今はその手に載せられている。光る鍵には文字があり、反射して輝く光は何処かを指しているようにも見えた。
―偶然じゃ…ないよな。
もしもこれが何もない処を指していたのなら、ただの偶然に過ぎないと見過ごすのだろうが…光は謀ったように病院の窓を照らす。同じように反射した光がチカチカと眼に届く位にはっきりと。
その光に導かれる様に、軽く息を吐き出してから雪は足を踏み出そうと一歩前に出す。その刹那。
「俺が行く」
「イチ?」
肩に触れた手に驚いて振り返れば、そこにはイチの真剣な表情が待ち受けていた。何かを悟ったように視線を合わせ頷くと、雪も一瞬目を見開いてから頷き返す。彼が言わんとしている事を察して、“頼む”と呟けば微かに笑みを浮かべたイチは、音もなく病院の方へと姿を消した。
―来るのかっ…J。
一人その場に取り残され雪は空を見上げる。
手の平には道を示したペンダントが強く握られ、その心は複雑だった。
―また…俺を助けたのか…?
きつく唇を噛めばそこからは鉄に似たさびた味がする。これが“生きている”証拠なのか…そう自嘲気味に笑うと、完全に人気のいなくなった辺で彼は徐に上着を脱ぐ。上だけタンクトップにすると、軽く首を動かしてニヤリと笑みを刻んだ。
「さて…探しに行きますか…」
どうみても浅い小川に彼は入って行く。
冷たい水がじめじめとした外気と相まってとても気持ちが良い。久方ぶりの感触にくすぐったさを感じると、彼は水面を見つめその先にある場所に意識を集中させる。
「……」
耳に届く音は水のせせらぎだけ。
その音に導かれるように彼も瞳を閉じた。
*
気が付けば草の上に寝転んでいた。
ゆらゆらと水面だと感じていたものは、どうやら木漏れ日だったらしい。だるい身体を何とか起こすとその景色にぎょっとした。
―ここ、あそこじゃないよね!?
思いついたのは―記憶の海―あそこに良く似た景色が目前に広がりJの頭は混乱する。見覚えのある場所。それが“海”に良く似た場所だからなのか、それとも失った記憶に関係するものなのかは定かじゃない。それでも、彼はここをよく知っていた。
―何で…俺。
また少し鼓動が速くなる。
周囲を見渡せば見えるのは草木だけ。時折風に揺れた葉の隙間から見える太陽に目を細めれば、その向こうに見える建物にJの背筋は凍りついた。
「―っ」
思わず息をのむ。
チカチカと目の前が点滅しては消えていく光景を何度となく見つめながら、彼はのそっと立ち上がった。その足取りは軽いものではない。それでも、行く先は決まっていた―。
*
ほぼ同時刻―。
イチは病院の中を歩いていた。
光が示した方向におおよその見当をつけると、不審者にならない程度に周りに気を配りながら進む。生身の自分にとって人の視線は気を配る対象ではない。妙な行動を起こさない限りは他人は他人同士、詮索もなく距離を置いて付きあって行く事が出来る。それを知っているからだ。
―確か、この奥は…。
病棟が変わる渡り廊下を歩きながらふと先程の場所に目をやる。何の変哲もない庭の外れに流れる水は驚くほどに澄んでいて、とても眼を引いた。
「……」
思わずその場に佇んでいれば不意に人の気配がして振り向く。
―…誰だ…。
見覚えのあるその顔に、イチは止まっていた思考を揺り起こす。真っ直ぐな瞳に長く綺麗に切り揃えられた黒髪が上品に揺れ、その人は心配そうな表情で見つめている。その刹那、視線が交わされた。
「あの…どうかしましたか?」
「……」
「具合でも…?」
同じく黒目がちな瞳が揺れ、彼女は尋ねる。
その姿に彼と同じ面影を載せて…。
―J…か。
眼を細め自分よりも少し年上であろう女性を見る。
顔容から、その造形に至るまで男女の違いはあろうともどことなく似ている。彼女の纏う雰囲気で確信を持つと、イチは不意に女性に手を伸ばした。
「えっ…あのっ」
困惑する女性に触れると、強い耳鳴りと共に鈍い痛みが走る。
その痛みをやり過ごしイチは意識を眼の前の女性へと集中させた。
―……けて…。
次第に聞こえてくる声。まるで水の波紋のように繰り返し響き、それは徐々に音を増す。
―たすけてっ……お願いっ。
触れた肌から伝わる気持ち、神谷が言っていた声とは彼女の事かも知れないと瞬時に悟る。そっと離れて彼女を見れば、その瞳に困惑の色を浮かべ警戒したように身を固くしていた。
―当たり前…か。
突然の行動は不審以外の何物でもないだろう。それでも、今出来る事をやらなければいけない。それは一人の管理官として、そして迷える者を救うために…。
「不躾な真似をしてすみません。頬が濡れていたもので」
「えっ…?」
「泣いていたでしょう?」
イチの言葉に彼女は押し黙る。
気恥ずかしそうに自分の頬を両手で包みこみ俯くと、その素直さ故か小さく“ありがとう”と呟いて曖昧な微笑みを向けてきた。その笑顔にイチも目を細めて笑顔を返すと、一呼吸おいてから確信へと迫る―Jについてだ。
「涙の訳を聞いても?」
「えっ…でも」
「誰かに話した方が気持ちが楽になりますよ」
出来得るだけ親身に、それでいて押しつけがましくならない様に距離を心得て話す。“地上探索型管理官”となってから身に付けた世渡り術だと言っても過言ではない。必要なのは“他人”という位置と、“適度な距離”そこに少しの安心が加われば殆どの人は事情を話してくれた。まるで悪徳商売にでも手を染めている気分だが、相手の負担にならない行為は悪いものではないだろう。
「…そう…ね」
不安げな瞳が揺れ、彼女は“聞いてくれる?”と寂し気に笑みを浮かべた。
あ~…予定通りに終わらない^^;
”記憶の海”と数を合わせようと思ったのに次-終章-にはなりそうもありません;;
でも、大分確信に迫ってます☆
そして、イチが口説いてます(笑)←完全に不審者だよ…イチ。