水底の涙・8
閑静な住宅街の路地を進みながら、雪は事のあらましを掻い摘んで説明してくれた。
「前回の依頼中に“海”で気になる声を聞いた」
「声?」
歩く横顔に視線だけ向けると、雪は微かに頷く。その眼は前だけを見ている。
じめじめとした空気を少しだけ涼しく感じさせる木々が風に揺れていた。
「“海”であいつとはぐれた時、あいつは捕まってた」
「……」
「無論、記憶を食われたりはしていない。でも」
「…なんだ?」
歩く速度は緩めずに、けれども急に視線を落とした彼がその眉根を僅かに寄せる。イチは気になるものの、話の先を急かさずにただ隣を歩いた。また少し沈黙が続き、それから雪が徐に口を開く。何かに納得したように…。
「声が聞こえたんだ」
「……」
「そう…あれは、俺らの声じゃない。Jのでも、あいつのでもないんだ」
曖昧なその言葉は自分に再確認しているように見え、イチは結論が出るのを待つ。
いつしか足は止まっていた。
―待つ事には慣れてる。
少しだけ眼を伏せ、地面を見る。
揺れる葉が灰色の空から光を受けては微かな影を作り出している。まるで、自分のようだとイチは自嘲した。
―不安定で消えそうな影…。
この魂は、心や記憶は、半分は現世にもう半分は今は失き友人の元にあるのだと思う。しかも自らが望んだ結果だ。それでも―。
「イチっ!?」
「…?」
不意に名前を呼ばれ我に返る。
眼の前には彼の不安気に揺れる瞳があり、何故か近距離で顔を覗きこまれている…。あと数センチで唇が触れるほど近くに。
「…なんだ?」
「“なんだ?”じゃねぇよ……急に呆けたのはお前だろ!?」
その言葉に漸く自分の状況を理解すると、彼の頭をそっと押しやって距離をとる。どうにも顔を覗きこまれるのは苦手だ。雪は迷惑そうにその手を払うと仏頂面でそっぽを向く…機嫌は余り良くないと言える。
「それで?」
「…あっ?」
「続きはどうした?」
自分から話を止めておいて、彼は尋ねられた事に怪訝そうな表情をする。なんというか…。
―軽い奴。
心の中で小さく悪態をつくとイチは軽く息をついた。その事に更に気分を害したのか雪が険悪な表情で腕を組むと仕方なしと言った感じに口を開く。
「声だよ」
「誰の?」
「…それが分かれば、こんなとこにいないだろ」
「…」
仕返しのように意地悪く口の端を上げる雪にイチは徐に嫌そうな顔で対抗する。どっちもどっちと言った二人だが、こんな風に子供じみたやり取りをする事は珍しい。だから尚更そのけじめの付け方を知らずに惑う。
「…悪い」
「…?」
「調子に乗った」
「……いや」
静かに言葉を交わすと、二人は何事もなかったように歩きだす。
視線は合わせずに俯いたままで…。
「何となくだけど…あれは“J”の事を呼ぶ声だった気がするんだ」
「…? 確証はないのか?」
イチの言葉に雪はただ頷く。確信がないから、不確かな事を言う事は出来ない。それが彼の考えている事だろう。
「ただ“タスケテ…”と呟いていた」
「タスケテ…か」
不意に雪が冗談っぽく明るい口調になったかと思えば、彼はとんでもない事を言う。
「あいつに触れれば分かる事もあるかと企んではみたものの、結局ダメだった」
「お前でもか?」
「ああ」
「…」
とんだ企みを持って動いたものだと半ば呆れたが、それがとても彼らしく思えた。彼の“能力”を持ってしても分からなかった記憶。それはとても不自然で、曖昧なモノの様な気がする。
歩き続け、木々の隙間から病院らしき建物が見えてくると、雪が立ち止まりふと眼を伏せた。何かに耳を澄ませる―。
「水だ…」
微かに流れる水のせせらぎの音に彼は意識を傾ける。他の何にも気を取られない様にじっと動かずに、まるで息をする事さえ躊躇うように。
「川か…?」
「多分」
イチの呟きに相槌を打つと、言うが早いか彼は音のする方へと駈け出す。仕方なくイチもその背中を追って駈け出した。
事態は収束へと向かおうとしていた――。
水の音がする方へと走り出した雪。
Jの記憶とは??
物語は佳境へと移ります。