水底の涙・3-契約-
Jは一人地下へと続く階段を下りていく。
コンクリートの壁に囲われた暗い螺旋階段に無機質な靴音が響きわたり、地下で待つ人々に案に自身の訪れを伝えた。
―こんなところに地下室があったなんて…。
辺りをキョロキョロと見回すさまは誰が見ても“挙動不審”以外の何物でもないが、Jはそんなことに気付く訳もなく最下層に辿りつくまでの間その景色を堪能した。
同じ頃、地下最下層―。
二人はそこにいた。
会話はなく、至極真剣な面持ちでその時を待っている。Jが辿りつくその時を―。
「遅いね、彼」
腕組をしていた塁が困ったように笑いもう一人の相手へと話しかける。
「また、迷子にでもなってるんじゃねーの」
そうぶっきらぼうに言ってのけた相手―雪―は、視線を合わせるでもなく壁に寄りかかり眼を伏せた。塁の溜息が地下の冷たい空気に溶けて消える。
ここは『地下祭壇』―誓約を行い、彼らがその代償に“自由”を得る処。
彼らを生みだす処…。
「ここは変わらない…」
不意に雪が呟く。その言葉に塁は上を見上げた。
「…そうだね…」
どこか辛そうに眉を顰めると塁もそっと目を伏せる。何かに思いを馳せるように、二人はまた黙り込んだ―。
「お…お待たせしましたっ」
ようやくJが姿を現す。気のせいか息が切れているようだが…ふらふらと覚束ない足取りで階段を降り切り二人の待つ祭壇の前へとやってくる。
「おせーよ」
容赦のない雪の一言が降り注ぎ、いつもならフォローを入れてくれるはずの彼も黙ったまま…その様子にJは苦笑いを浮かべるしかない。
「すみません…」
仕方なく頭を下げ謝罪すると、雪はすぐに真面目な表情になった。
「誓約する。…来いっ」
顎でついて来るように促され、渋々Jは歩き出す。塁は先程から無表情で眼も合わせようとしない。その妙な空気にただならぬものと居心地の悪さを感じた。
「誓約…ってなんですか?」
唐突に尋ねてみる。端から答えが返ってくるとは思っていないが…。
「誓約ってのは、管理官が“自由”を得るために行う契約だ」
予想を反し前を歩く雪が言葉を返す。あまりにも素っ気なくて聞き逃してしまいそうな程簡潔だったが…。
「塁さんも言ってましたけど、“自由”を得るってどういうことですか?」
詳しく聞こうと更に言葉を続けると、不意に雪は足を止め振り返った。その眼がとても冷たいものを放っている事に気付いて、Jは思わず後ずさる…。
「俺ら管理官は何かをする際には必ず“中間管理者”の立ち会いの元“契約”を行う。それは“身体“を得るためであり、また”自由“を得るためでもある…」
「……?」
雪の口調は常とは違い、酷く冷めたものに思えた。まるでその続きを語るように先を歩いていた塁も立ち止まり、彼も暗い表情で言葉を発した。
「僕らは本来なら閻魔庁に留まるべき者ではないからね。たまに生身の身体を持ってここに来る人もいるけれど、その殆どは霊体だから…動くためには“肉体”が必要でしょう?」
二人はそれが当たり前だと言わんばかりに呟くと、眼も合わせずに歩き出す。それ以上は触れて欲しくないように思えた。
「……自由…」
“記憶管理官”とはもっと自由な者だと思っていた。
「記憶の海」を行き来して、カッコよく人の記憶を探して…漫画とかでよく見るような現世と霊界なんかを飛び回る…そんな風なものだと勘違いしていたのだ。
―俺、ちょとだけ羨ましいと思ってた…。
自由に生きている彼らが羨ましかった。辛いことなんて何もないような表情で、彼らの心は何者にも侵されない程強いのだろうと…。だから尚更前を歩く二人の表情に驚かされる。あんな冷たい表情を浮かべる事もあるのだと。
―二人は生きてるのかな…それとも死んでる?
今まで気にならなかった事が頭を廻りだす。
生身の肉体と霊体…触れられるのだから彼らは前者なのだろうか。そんな考えをしていた刹那、勢いよく何かにぶつかった…思わず顔を上げると、そこには“雪”の渋い顔がある。どうやらまたも彼にぶつかってしまったらしい…。
「お前の眼は飾りか?」
「…いえっ、その…すみません」
明らかに苦い笑いを浮かべる雪に、Jは平謝りで応戦すると彼の口から自然溜息が洩れた。
「…ついたぞ」
「えっ…?」
「“地下祭壇”だ」
言われて雪の奥を見ると、そこには先程までの薄暗い通路とは違い一際高い天井に空から差し込む光…一面に咲き乱れる花、そして綺麗な水路の先に“祭壇”と呼ばれるに相応しい場所がある。なんとも不思議な場所だった。
「…これが…地下?」
「…そう。そして“記憶の海”に繋がる重要な場所でもある」
先に辿りついていた塁が祭壇の前に立ち一本の柱に手を当てている。その表情は何とも哀し気に見えた。そっと彼の細い指が柱に書かれた文字をなぞる…。
「ここは“哀しい場所”であり、僕らの“揺り籠”で“棺”…」
雪も徐に足を進め花の咲き乱れる場所にある、なんともそぐわない石碑の前に立った。
「…ここは歴代の管理官の眠る場所。そして生贄になった彼らの眠る場所だ…」
二人の重い口ぶりにJは戸惑う。言葉は何も浮かんでこなくて、ただ二人の顔を交互に見ていた。
不意に雪視線がJへと向けられる。
「誓約を…」
その声に耳の奥で甲高い音が響く…まるで耳鳴りのように責め立て、鼓動を速める。あまり気持ちのいいものだとはいえない。
「…はい」
痛い耳を抑え、Jは頷く。その足は自然に雪の元へと向かっていた。
「手を出して」
頭上に注がれる声に顔を上げると、そこには塁の姿がある。彼は少しだけ眼を伏せ、それから二人の丁度真ん中に立った。
「手を」
二度目の催促にJは訳も分からず手を開いた。その手を雪が掴む…
「違う、こうだ」
「えっ…はい」
言うが早いか雪は自分の手と重ねるようにその手を前に出した。Jの手もされるがままに合わされる…白くて小さな雪の手に、その体温に、耳鳴りじゃなくて鼓動の高鳴りを意識せずにはいられない。
―…こんなの…不意打ち。
赤くなる顔を隠す術もなく、Jは伐が悪くて俯いた。
その頭上に降るは、二人の“誓約の言葉―”
「仲介のもと“記憶管理官・雪”と“彷徨える魂・J”が、ここに契約を交わす」
雪の言葉に反応して地面が光り、また何処かで“リィィン―”と鈴の音が聞こえた。
次いで塁がその力を解放する。仲介人としての能力を―。
「仲介人、“記憶管理局案内人・塁”。この言葉を持ちて、ここに許可を与え、誓約の印を刻む。“記憶管理官・雪”及び“彷徨える魂・J”の言葉を信じ、援け、見守り、導く事を誓う。違えることは罪なり。原罪をもちてその咎を与え、消滅をもちてその罪を贖う。ただ願わくは、彼らが望むべき結末を迎えいることを――」
塁の開かれた眼が薄紫色に輝く。
なんとも奇妙で、なんとも美しい光景だった。
―塁さん…眼が…。
思わず塁の姿に見とれていると、彼は不意に雪へと手を伸ばす。その手が雪の手と重なり滑るようにその手首を掴んだ。細く白い手首に塁の爪が食い込む。
「―っつ」
雪は短く息を詰めると、その爪が手首を辿るのを見守った。
見る見るうちに手首に、その爪が辿った後に赤い筋が浮き出ていく。鮮血で描かれたように紅いソレは不思議な模様を模ると、そっと雪の手首から離れて行った…。
暫くして辺りに広がっていた光が完全に消えた事を確認すると、雪は合わせていた手をそっと離した。塁も溜息を一つ吐く…その表情には疲労の色が滲んでいるように思えた。
「これで何か変わったんですか?」
あまりにも場違いな質問かとも思うが、何も知らないままなのは釈然としない。どうせ怒られるのは分かっている。ならば、この際だから尋ねる事に決めた。
Jの言葉に雪が視線を向けると、暫く考えてから諦めにも似た溜息をつく。寄せられた眉根からは不機嫌さが窺えた。
「阿呆、そういう問題じゃないんだよ」
めんどくさそうに頭を掻いてから彼は傍にあった木に寄りかかる。その眼にはやはり暗いものが映っているように見えた。
「さっきも言ったけど、俺らはその全てが縛られ“自由”を持たない。これは自由を得るために行わなければならない“誓約”なんだよ」
「…よく…わかりません」
彼の言葉にJは困ったように首を傾げると、それを見た雪は徐に自分の腕を見せる…正確には“手首”を―。
―紅い…鎖?
その白い手首には痛々しい程の紅で描かれた鎖の姿があった。丁度塁が触れていた部分にだ。
「これが誓約の“印”―」
「印?」
「破れば、この鎖が手首の血管から身体の中に入り“魂”を蝕む。完全に蝕まれた“魂”は二度と復活はしない。事実上の―消滅―だ」
強調される“消滅”の言葉に、不意に背筋が冷たくなったのを感じる。何か冷たいものが背中を通り過ぎた。
「誓約を行わずに勝手に行動した際にも、同じように見えない“言葉”が発動する……僕らはここから逃れられない――」
不意に塁が口を挟む。その表情は何処か困ったような、寂しい様な色をしていた。
「酷いな、雪。僕は彼に“今は教えられない―”って言ったのに」
いつもと同じように微笑むのに、その笑顔に冷たいものを感じてJは少し身を震わせる。その様子に気づいて雪はハッと鼻先で笑って見せた。
「構わないだろ…どうせココにいる間の記憶は消される――」
「…そうだけど」
「それでも何か言うやつがいるなら俺のせいにして構わない」
「…そう言う事じゃなくて」
「じゃあ、何だよ」
「……」
―記憶が消される…??
二人のやりとりをどこか遠くに感じながらも、Jは雪の言葉に引っかからずにはいられない。どうして、記憶を消されなければならないのか――その事に憤りを覚えた。
「どうしてですかっ!?」
「あぁっ?」
「何で勝手に記憶を消すって!」
「……」
気付いた時には訳も分からずに雪に対して声を荒げていた。それでも彼は動じることなくまっすぐに見つめてくる。曇りのない瞳で。
「…っつ。なんで…」
最後の方は呟きになって吐息と共に零れた。聞こえない程小さな声に耳を傾ける者はいない。そうまでして記憶をなくした自分を気にかけてくれる必要は何処にもないのだ…。
その事実が余計に哀しかった。
―なんで…そんなっ
雪はただJの事を見つめ、塁は少し呆れたように溜息をつくと、そっと眼を閉じ首を振った。
不意に足音が近づいて、雪が肩に触れる。勢いよく顔を上げれば、そこには複雑な表情を浮かべて笑う彼の姿があった。
「お前はこんな処に縛られるな―」
その言葉に眼を見開く。
あの時、塁も同じ事を言った。
―縛られてはいけない…。
何がそんなに彼らを縛りつけているのか…。
それ以上、言葉は出て来なかった。後には聞きそびれた疑問が、Jの頭の中を廻った。
こうして、この賭けが始まりを迎えた―――。
契約と誓約を終え、二人の賭けは始まりを迎えた。
雪と塁を縛るモノとはっ!?
そしてJは賭けに勝つことが出来るのか…?