第三章
中学三年の十二月。放課後になった教室から、塾だとかカラオケだとか言いながら人が流れて出ていく。
三月に受験を控えた私、日向葵はというと、同じく受験を控えたいつものメンバー(いつめん)とファミレス勉強会の予定が入っていた。勉強会といってもお店で筆記用具を広げたことは一回もなくて、小さなクイズ大会と、勉強とは別の大事な会議をしている。
ちらっと、友達と話してる一人の男の子を、ほんの一瞬だけ見てから流れに乗って教室を出た。下駄箱で靴を履き替えて早足で家に帰る。
玄関には靴がなかった。そういえばお父さんもお母さんも仕事で、お姉ちゃんは部活って言ってたな。マーチングバンドって何するんだろ?そういえば春に入部したって聞いたっきり、受験勉強で忙しくて聞けてない。無事合格したら聞こ。
自分の学習デスクに鞄を置いて制服から私服に着替える。防寒具を身につけて、英単語帳と貴重品だけ入れたトートバッグを持ってすぐ家を出た。自転車に跨って待ち合わせのファミレスへとペダルを漕ぐ。途中で同じ制服の人を見かけたけど、知ってる人は一人もいなかった。
お店の駐輪場に自転車を止めて窓から中を覗くと、ボックス席に座る亜樹と百合絵が見えた。亜樹の隣には智花も座ってる。いつものことながら一番家の遠い私が最後らしい。急いで中に入る。すぐには店員さんが来なかったので勝手に入らせてもらう。「ごめんお待たせ」と言いながら百合絵の隣に座って、ドリンクバーを注文した。飲み物を取りに行ってから、出題者が言った日本語の英訳を答えるクイズが始まった。しばらくして「糖分補給しよう」とメニューを広げる。デザートを四つ注文した。
注文をとった店員さんがテーブルを離れると、向かいに座る智花が身を乗り出した。
「で、いつ告白する(こくる)?」
亜樹も身を乗り出して頷く。
「ほんとそれ。もう今年終わるし、年明けたら卒業だよ?やばすぎ」
「あっという間だね〜」と百合絵がのんびり言うもんだから、亜樹が口を尖らせた。
「はあーあ。彼氏持ちは余裕で羨ましい」
「彼氏持ちも大変だからね?同じ高校に合格できないと終わりだからね?」
「いやいや、終わらないって。なんとかなるって」
「そうだといいなー…」
亜樹に言われてもなお不安そうな百合絵を「大丈夫だよ」と励ました。智花も続く。
「そうそう、心配しすぎ。成績だって同じぐらいなんでしょ?」
「そうなんだけどー...」
「模試もよかったって言ってたよね」と亜樹。
「そうなんだけどー、やっぱり不安になっちゃうんだって。受験日が近づけば近づくほど」
「あーわかる」と亜樹が共感した。「ちゃんと高校行けんの?って思う時ある」
「さすがに高校は行けないとやばいっしょ」と笑いながら言う智花につられて笑う。同じくつられた亜樹が半分笑いながら言った。
「そうなんだけどさ!けど、わかってても不安になる時があるんだって」
三人して笑う中、一人「私だけだめだったらどうしよう…」と百合絵が泣きそうな顔で言った。
「だーいじょうぶだって!違う学校になったって、会おうと思えばいつでも会えるんだから」と亜樹。
「そうそう、学年違くても頑張ってる人だっているんだから」と智花。
「私たちだって、みんな志望校は違うけど、高校に行ってもまた会えるのと一緒だよ」と私。
「みんな〜...ありがとう」と百合絵がさらに泣きそうな顔で言った。そんな百合絵を見てみんなして微笑む。
「それで、彼氏いない組はどうする?」と智花が話を戻した。亜樹が頬杖をついて唸ったとき、デザートが運ばれてきた。口々にお礼を言う。改めて亜樹が話し始めた。
「うーん難しいよね。智花は後輩だから受験は気にしなくていいけど」
「相手の受験はね。問題は自分」
「バレンタインも卒業式も受験前だしね」
「そう、だから悩んでるんだよねー。バレンタインチョコとか作る余裕あるのか...」
「ほんとそれ。絶対なさそうだよね。やっぱり卒業式?」
「卒業式かー...卒業式なら私は部活の送別会になるかな」
「えっいいじゃん。全然チャンスありそうじゃん」
「そう?やっぱり同じ学年の方があると思うけど」
「いやいや、そんなことないって。クラス違うと全然会わないし、もう呼び出すしかないと思ってるし」
「たしかにクラス違うと余計呼び出しといた方がいいかもね」
「でしょ?でも絶対そこでバレるから嫌なんだけどね」
「まあバレるよね。けどまあ、捕まえられなかったら元も子もないからしょうがない」
「ですよねー、もう割り切るしかないか」
うんうんと頷く亜樹を見てると智花がこっちを見た。
「葵は?やっぱりしないの?」
そう聞かれた私はうーんと唸った。想像してみる。校門前で泣いたり写真を撮る人たちから少し離れた場所。男の子と向かい合う自分。「好きです、付き合ってください」と言って頭を下げる。何回想像しても現実味のないその光景に一つ頷きながら答えた。
「うん、しない。見てるだけで充分だし」
「頭いいし拝むとご利益ありそうだよね」と亜樹が茶化した。「私も拝もうかな」と百合絵が悪ノリする。
「拝んではないから!」
「本当にそれでいいの?」と智花が真剣な顔で聞いてきた。
「いいの。邪魔しちゃ悪いし」
「まあたしかに、自分にとっても相手にとってもベストなタイミングがいいよね」
うーんと四人で唸る。その後も会議は止まらない。クリスマスを一緒に過ごしたい。卒業式でボタンが欲しい。駄目だったときにダメージが一番少ないのがいい。理想と現実を行ったり来たりしながら時間は過ぎていって、いつも通り結論の出ないまま解散した。
「また明日」と言ってペダルを漕ぎ始めた私は、はーっと長い息を吐いた。
告白かあ。みんなにはしないって言ったものの、やっぱりまだ迷ってる自分がいる。少女漫画みたいに好きな人と仲良かったらいいかもしれないけど、遠くから見ることしかできない私にはハードルが高すぎる。もちろん仲良くなくても、呼び出したり手紙を机とかに入れたりするパターンもあるけど、そんな勇気もない。まともに話したのなんて去年の体育祭ぐらいだし。奇跡的に三年でも同じクラスになれたのに、この一年何もできなかった。できなかった、というよりは、しようとしなかった、の方が正しいかもしれない。彼はだいたい誰かと一緒で、特に同じ陸上部の人と男女関係なく話してるところをよく見かける。楽しそうな彼を見れるのは嬉しいけど、一緒にいる女の子が羨ましくて嫉妬して、その度に自分って器小さいなと凹んだ。彼に想いを寄せてるらしいっていう噂もいろいろあって、一年のとき同じクラスだった子とか陸上部の後輩とか。去年なんか、何の関係もない年下の子からバレンタインチョコをもらったらしい。それを聞いたときにはもう、見るからにモテそうだとは思ってたけど、なんかもう次元が違うような気がして諦めようか悩んで…。
ううん、暗いのはやめ!帰ったらもう少し勉強しよう。きっと彼も頑張ってる。そう意気込むとペダルを踏み込んだ。
結局、前のファミレス会議から何も変わらないまま終業式を迎えた。今日は午前中で学校が終わるから、帰りにいつものメンバー(いつめん)でご飯を食べにいくことになっていた。ホームルームが終わってクラスメートと「じゃあねーまた来年」「よいお年をー」なんて挨拶をしながら教室を出た。キョロキョロ見回してもみんないない。寒い廊下の端っこで震えながら待つ。最初に亜樹が来た。声のボリュームを落としながら「聞いて聞いて!」と言うので耳を傾ける。
「今日はもう無理だと思ってたのにさっき会ってさ!」
「え!やったじゃん」
「そう!また来年って言ったら、まだクリスマス終わってねーぞ、って!笑った顔がもうやばすぎて!」
「えー何それやばい!」
二人で小さく盛り上がってると「どうしたの?」と声をかけられた。智花と百合絵だ。すぐに亜樹が「聞いて聞いて!」と報告する。「やったじゃん!」と、智花と百合絵が一緒に喜ぶ。ひとしきりキャッキャと騒いだところで下駄箱へ歩き出した。人はそんなに多くなかった。「何食べよー」「お腹空いたー」なんて言いながら階段を降りる。下駄箱が見えてきたとき「あ、雨降ってる」と先頭を歩く百合絵が言った。そのすぐ後ろにいた智花も外を見て「ほんとだ。折りたたみ持っててよかったー」と言って鞄から傘を取り出した。「置き傘しててよかったー」と言う亜樹の隣で百合絵が「私もー」と同意する。
私も折りたたみ持ってきてよかったーと思いながら鞄に手を突っ込んだ。けど、お目当の感触がない。バッと鞄を大きく開けて中を覗いても傘はなかった。
「ごめん、傘忘れたかも。ちょっと見てくる」
隣にいた智花にそう伝えると「待ってるね」と言ってくれた。「ありがと」と言い残して、廊下の端を出来るだけ早足で歩く。三年の教室がある階までくると、ほとんど人がいなかった。小走りになって教室に近付く。教室のドアは閉まってるように見えた。ドアの前で一回立ち止まって、開いてますように、と祈りながらそっと引っ張る。ガラガラと開くドアにほっとして顔を上げると、窓際の席に座ってる人と目が合った。ドキッとした。
明智くん!?えっ何で?
予想外の展開に頭が真っ白になる。さっきまで寒さに震えていたのが嘘みたいに顔が熱くなる。こちらを見ていた明智くんが、ペンを握る手を軽く上げた。
「...よう」
「あ、傘、忘れちゃって」
そうだ、自分は傘を取りにきたんだった。教室に一歩入って後ろ手でドアを閉める。自分の席に向かう。他には誰もいなかった。ドキドキが止まらない。むしろどんどん速くなってる気がする。落ち着けーと言い聞かせながら進む。あれ、歩き方合ってる?なんて不安になるくらいぎこちない手足を懸命に動かす。一番手前の列の前から三番目の机に辿り着く。机の中を覗き込む。あった。寒さとは別の原因で震える手で、折りたたみ傘を引っ張り出す。顔を上げると、明智くんは机に向かって何か書いていた。
どうしよう。
話しかけてみる?けど勉強してるんじゃないかな。話しかけたら迷惑かもしれない。このまま黙って出ていった方が良いかもしれない。けど、でも、こんなチャンスもう絶対ない。話すなら今しかない。このまま黙ってても不自然に思われる。悩んでる時間はない。がんばれ私!
なけなしの勇気を振り絞って声をかけた。
「何、してるの?」
「勉強」
明智くんの返事は素っ気なかった。あまりの素っ気なさに話しかけたことを後悔する。邪魔だと思われたかもしれない。嫌われたかもしれない。でも話しかけたからには何か返さないと変だよね。
「そっか…さすがだね」
明智くんは何も言わなかった。息苦しい。何で話しかけちゃったんだろう。やっぱり迷惑だったよね。邪魔だよね。もう帰ろう。
歩き出そうとしたその時。
「別に。ガリ勉で面白くないだろ」
どこか自嘲するような声に固まってしまった。なんで?私、地雷踏んだ?何て返すのが正解?今何て言われた?ガリ勉?面白くない?そんなことーー
「そんなことない!そんなこと、思ってない!私はっ…!」
私は知ってる。格好よくて、頭良くて、運動もできて。けど球技は苦手で、笑われたって一所懸命で。勉強だって、今みたいに人知れず頑張った結果なのに、全然偉そうにしないし。優しくて、全然話したことない私のこと、気にかけてくれたこともあった。
知ってる。だって、だからずっとーー。
その先を言葉にしようと勇気を振り絞る。けど、これっぽっちも出てこなかった。それでも何とか。せめて。あなたはすごくて眩しい人だってこと、伝えたい。
「ガリ勉ってつまり、勉強に一所懸命な人ってことだよね?何かに一所懸命になれるってすごいことだと思う」
いつもみたいに笑ってほしい。初めて話したとき、私を笑わせてくれたみたいに。私もあなたを笑顔にしたい。
伝わったかな?と不安になったとき、はっとした。私、何一人で盛り上がっちゃってるんだろう。急いでドアに向かいながら捲したてるように言った。
「だから勉強頑張ってね。ごめんね邪魔しちゃって」
ガラガラピシャン!と音を立てて教室を出て、パタパタと下駄箱に向かった。全身の熱を、ドキドキ鳴る鼓動を、ごまかすように走り続けた。冷たい風を切る。下駄箱に着いて息を整えてると、遠くから亜樹の声がした。
「そんな急がなくてよかったのにー」
声の方に顔を向ける。みんなが近づいてきてくれてた。一番近くにいた智花が眉をひそめる。
「大丈夫?顔真っ赤だよ」
「智花...どうしよう...」
「うん?」
「教室に明智くんが...。私...」
智花が驚いた顔をして後ろを見た。そこにいた亜樹と百合絵が顔を見合わせる。そして口々に言った。
「ちょ、ちょっと待って!いったん落ち着こう」
「そうだね、まずはお店に行こう。葵、歩けそう?」
「うん、大丈夫。ごめん」
「何も謝ることなんてないよ。けど、じっくり聞かせてもらうからね!」
百合絵の言葉に、亜樹も智花も「覚悟してね」と言わんばかりの顔で頷いた。顔が引きつるのがわかった。「お、お手柔らかに、お願いします…」と茶化す。靴を履き替えると四人揃って外へ出た。「寒いねー」と言いながら次々と傘が咲く。ずっと握っていた折りたたみ傘を差そうとして、その前に「ありがとね」と一回撫でた。この子がチャンスをくれたような気がしたからだ。傘を広げてみんなで歩き出した。冷たい空気が心地よかった。