第六話 櫻井ナナミ
「あのう、櫻井さん」
「なんでしょう」
パソコンをカタカタやりながら、櫻井さんは顔を上げずに返事をよこす。
御剣重工本社ビルには、受付の横に、一階と二階を繋ぐ「大階段」と呼ばれるやたらと幅の広い階段がある。
そこを上ると採光の良い広いスペースがあり、スタイリッシュかつ実用的な椅子とテーブルが複数並べられている。
他社からの営業で特に機密性のないものに対しては、ここでやり取りする場合があるらしい。
俺たち二人は、今そこの一角で向かい合わせに座っている。
向かい合わせといっても、櫻井さんは全く目は合わせてくれないわけだが。
元々素っ気ない態度だったけど、ダンジョンでの一件以来、さらに冷たくなった気がする。
「また、退職の相談ですか?もう諦めた方がいいかと思いますが」
「……いえ、はい。それはもう諦めました」
退職願を会長に破り捨てられること三回、退職届が何故か手元から紛失すること三回。
そこまではまだ良かったが、退職代行を依頼した会社が突然解散する、直接依頼した弁護士が音信不通になる、労基に駆け込もうとすると必ず途中で警察に職質を受け、警察署で夜までのらりくらりと留め置かれる、などなど。
世界有数の権力者というものの本気を垣間見た俺は、これ以上の抵抗を断念せざるを得なかった。
下手をすれば、洗脳やロボトミー手術などの強行手段を取られかねない。ダンジョンで死ぬ前に、俺の人格が死ぬ。
「なので、自分がダンジョンに行かなくて済むように人を増やしていく方針でいきたいな、と」
探検者を雇って、俺はオフィスでふんぞり返って報告だけ受ける作戦。
これなら、俺は安全だ。もちろん、フォローはするよ?俺の自慢の目利きで。
「無駄な足掻きだと思いますが」
櫻井さんは冷たくそう言い放つと、パタリと手元のノートパソコンを閉じた。
「会長が望まれているのは、ダンジョンの謎を解き明かすこと、です。ダンジョンを探索するだけなら探検者を雇えば良いのでしょうが、そうではありませんから」
ようやく目を合わせてくれたと思ったら、その眼光が刺さる刺さる。くじけそうです、俺。
オープンスペースで険悪ムードなのが目立つようで、周りから変なものを見るような視線を感じる。
「あの……櫻井さん、何か怒ってますか?」
「いえ、別に」
声の冷気が更に強まった。これは間違いない、怒っている。女性慣れしていない俺だってこれくらいは分かるぞ。でも……理由がちょっと分からない。
そんな俺の困惑を見て取ったのか、櫻井さんは音もなく溜息を吐くと、すいっと視線を下に逸らした。
「……ダンジョンには」
「え?」
「ダンジョンには、沢山の宝が眠っています。手に入れることができれば、大きな名誉が得られるでしょうし、通常の生活を送っていては絶対に実現不可能な願望だって、叶えられるかもしれません」
「はぁ」
「だから、多くの人がダンジョンに行くことを望みます。ですが、ダンジョンに実際に潜って活躍できる人は一握りです」
「ギフトの有無ですね」
「それもあります。ですがその上で……やはり、才能というものがあるのです。ギフトがあったところで、使いこなせなければ、ダンジョンでの活躍は望めません。だから……」
そこで櫻井さんは一旦言葉を切った。
そして、先ほどまでの冷たい表情とは違う、どこか複雑な感情の入り混じったような顔で、俺を見た。
「だから、分からないのです。会長ほどのお方が認めるギフトを持ち、そして実際にそれを使いこなせた貴方が、なぜ探検者になるのを頑なに拒むのか」
「い、いやいやいや!そんなの買い被りですって!あんなのマグレですマグレ!」
「三十階級の黒霊獣は、マグレで倒せるような真獣ではありません」
「でも、本当に俺に才能なんて無いですって!才能を持つ人ってのは、ほら、小さい時からもう頭角を現して……」
――そこで、俺の頭にある人物が浮かんだ。
俺が高校生の時。探検者ニュースを毎日深夜まで漁るように見ていたころだ。
それは、【氷剣姫】と呼ばれていた、当時中学生の少女。
父親から譲られたという剣を手に、ダンジョンデビューからたったの一年で二級探検者にまで到達した、まさに天才だった。
こんな少女でも頑張ってるんだ、と俺が探検者の養成所に通う決心をつける後押しをしてくれた人であり……そして、俺が探検者を諦める理由となった人だ。絶望的な差を、痛感して。
「そう、櫻井さんも知ってるんじゃないですか?【氷剣姫】っていう、天才少女!ああいうのが、才能ある人っていうんですよ!そういえば、最近名前を聞かないけど……」
その時俺は、櫻井さんが身体をこわばらせたことに気づいたが、その理由までは思い至らなかった。次の、自分の言葉を聞くまでは。
「あれ、名前ド忘れしちゃったな。えと、名前は確か……そうそう!櫻井、ナナ……ミ……」
櫻井ナナミ。
目の前にいる女性と、同じ名前。
櫻井さんは、俯いたまま、動かなかった。
「……え?櫻井さんって……も、もしかして」
「昔の話です」
きっぱりとした、冷たい口調。
櫻井さんが……【氷剣姫】?
かつての推しだったアイドルに、道でバッタリ会ったかのような高揚感が全身を巡り……
そして、疑問が急浮上する。
【氷剣姫】が……なんで、今は秘書をやっているんだろう?
そりゃぁ、あの会長の秘書だし、待遇はすごく良いんだろうけど……でも、さっきの口ぶり。櫻井さんは、ダンジョンを特別視していた。なんで、探検者を辞めたんだろう。
そう言えば確か、櫻井さんは二級探検者だと言っていた。もしそうなら、中学生の時からずっと、そのままだということか?当時は、特級探検者すら射程内だと言われていたのに。
あの時から間も無く辞めてしまったんだろうか?
そんな俺の心中を読み取ったかのように、櫻井さんはゆっくりと口を開いてこう言った。
「簡単な話です。私はギフトはありましたが、才能がなかった。それだけです」
「え?いや、そんなまさか。あの天才少女が、才能がないなんて」
「……高校生になったころからでしょうか。身体が、思ったように動かなくなってきてしまったのです。剣を振る腕に、足がついていかない。逆に、踏み込みに、剣が間に合わない」
櫻井さんは、淡々と言葉を続けた。
「結局、私は才能が無かった。会長に拾っていただき、探検者とは別の役割を与えられなければ、私は今頃、ダンジョンで命を落としていたでしょう」
何も言葉が出てこない。
周囲の期待と、現実の狭間で、苦しんでいた櫻井さんの姿が、目に浮かぶようだった。
「私はもう、探検者には戻れない。未練がないわけではないです。でも、これも運命。……そう納得していたはずですが……貴方を見て、少し羨ましくなったのかもしれません」
それから櫻井さんは、「ふぅ」と、今度は声を出して溜息を吐いた後、ゆっくりと立ち上がった。
「余計な話をしてしまいました。では、明日までに先ほどメールでお送りした書類に記入しておいてください。それから――」
「櫻井さん」
唐突な俺の言葉に、櫻井さんは少し驚いたような顔をして言葉を切った。
……櫻井さんの真装具は、黒梟獣の剣。そうだ、確かに【氷剣姫】が持っていたのは、その剣だった。
だと、するならば。
櫻井さんは、きっと気づいていない。
――もし櫻井さんが、ダンジョンへの想いをスッパリと断ち切って、第二の人生を過ごしているのなら、俺がとやかく言うことじゃない。
だけど、櫻井さんは、未練があると言った。
だったら、俺は伝えなきゃならない。
――その剣が。
父親から譲られたというその剣が、櫻井さんの――大きな足枷となっていたということを。
「これから少し、お時間ありますか?」