第一節 理想郷 ④
ユリアは、目を開いた。
頭がボーっとする。身体も少し重い。身体を起こして周囲を見ると、そこは薄暗い室内だった。窓の外はすでに夜となっているようで、照明術式が施された手のひらに収まるくらいの丸い水晶が、華やかな台に乗せられて間接照明のように温かい色味の光を淡く放っている。ユリアは、目を凝らして部屋の調度品を確認する。見覚えがある。この部屋は、ヴァルブルク城にある客室のひとつだ。その寝台で寝ていたようだ。
それにしても、どうして自室ではなくこんなところで寝ていたのだろう。そういえば、どこかに行こうとしていたような気がする。しかし、何も思い出せない。
ユリアは、掛け布団をどかして寝台から降りる。服装は、いつの間にかネグリジェのような寝巻きに着替えさせられていた。もっと明かりを強くさせるために淡く光る水晶へと近づき、手をかざして照明術式を操作する。
「……? 手の甲に、傷があったような……」
かざした手の甲を見て、ふとそんな疑問が思い浮かんだ。さらに、実感のないあいまいな記憶とその疑問が脳裏に現れる。
何かを殴った気がする。だけど、なぜ? どこに殴らないといけないものがある? 何も思い出せない──。
「ユリア。目が覚めたかしら?」
扉を叩く音が聞こえ、開いた。そこには父と母の姿があった。
「あ……母上、父上……」
なぜだろう。何か違和感を感じてしまう。だが、ヴァルブルクの城に両親がいるのは当たり前のことだ。だが、このすっきりとしない感覚はなんだ──それでも、両親にこのことを素直に伝えても頭がおかしくなったのかと訝しがられてしまうだろう。よくわからない自分を悟られぬよう、ユリアは取り繕う。
「明日の戴冠式のための衣装と鎧を試着してきたらどうだ?」
そうだ。明日は戴冠式。
え? 戴冠式? 本当に?
いいや。何を疑問に思っているのだ。他でもない両親が言うことなのに。なぜ疑ってしまう──。
(……この『違和感』──というよりも……)
それは、喪失感だった。何も思い出せないのに、『何かを大切に想っていた感覚』だけが残っているという、言葉に言い表してもよく判らない不思議な感覚があった。これは、なんなのだろう。
「ユリア?」
母が首を傾げる。
なぜだろう。ここには母と父、そして自分しかいないはずなのに、『他の誰かに見られている』ような気がする。自分の居場所のはずなのに、妙に居心地悪い。
「い、いえ……なんだか急に緊張してきてしまって……」
ユリアは、不思議に思われないようにそれらしい返事をする。すると、ふたりは微笑ましく笑った。よかった。変には思われていないようだ。
「人生において、それ以上に大きな舞台はないだろうな。結婚式もそうだが、それはまた別だろうね。しかし、王たるものは緊張している姿など見せてはいけないぞ」
「はい。心得ております」
「よろしい。衣装と鎧は、衣装部屋に運ばせている。侍女たちとともに衣装部屋へ行きなさい」
父に促されて廊下に出ると、そこには女性用の上級使用人の制服を着た五人の侍女が待機していた。侍女たちは微笑みながら一礼し、ユリアを守るように囲みながら衣装部屋を目指す。城内を進み、使用人や衛兵たちと出会うと、皆は深々と一礼する。
その時も、ユリアは守られているというよりは監視されているように思ってしまった。疑念が消えない。この正体もわからない。気持ち悪い。
衣装部屋に到着し、ユリアたちは部屋の中に入った。そこには、濃紺色のマントに銀白色の鎧一式、そしてその鎧の下に着ているであろうドレスのようなシルエットの純白の薄手のコートに同色の長いズボン、インナーである黒い服が、魔術によって展示されているようにひとつひとつ浮かんでいた。
マントの表地の色は、一見、黒色に見えるが光が当たれば深みのある重厚な濃紺色であることが確認できる。裏地は対の色として深紅色だ。そして、表地の縁には金糸と真紅の糸、裏地ににも金糸と濃紺の糸が差し色としてささやかに縁取りされている。さらに、金糸で植物を象ったような流麗な文様が施されている。裏表ともに、ふたつの差し色と文様が合わさっているため、マントには重厚感と華やかさがある。くわえて、首元には濃い金色の飾り紐が彩りを与えており、見る者を惹きつける。
銀白の鎧は、肩当て、胸当てと、式典用に玉座へと座りやすいように工夫された意匠重視の腰当て、膝あて、脛当て、鉄靴、肘の近くまでを覆う五本の指が動かしやすい籠手がある。それらはどれにも華やかな文様があり、鎧という厳つさのなかに柔らかさが演出されている。
鎧の下に着るドレスのようなシルエットの純白のコートの下部の前面は、歩きやすいように開いているが、後ろはドレスのように裾が広がっている。裾の縁や布端には、マントに施された刺繍と同じく金糸で縫われた優雅な植物文様がある。コートも同色のズボンも、肌触りは滑らかで気持ちが良さそうだ。そのコートのインナーは、首元までを覆うハイネック型の黒い服が見える。その首元にも金糸の刺繍がささやかに縫われている。このヴァルブルク王国は、星霊と共存することを強調するために、そして不信派との戦いの拠点として興された国だ。そのため、戴冠式の際には鎧を身に着けることが慣例となっていた。
侍女たちは、服と鎧を魔術によってユリアに着せてゆく。着替えが完了すると、ひとりの侍女が魔術で姿鏡のようなものを作り、ユリアの全身を映す。いつもの自分とは違う姿に、ユリアは心に昂りを感じた。しかし、明日は王位を継ぐ戴冠式──落ち着きのない子どものような姿は見せたくない。父にも王たるものはどういうものかを説かれたばかりだ。ユリアは澄ました顔を取り繕う。この時のユリアには、先ほどまで抱いていた喪失感がすっかりと消えてしまっていた。『何か』によってその感覚を消されてしまったかのように。
「……鎧は軽く、衣装も動きやすい。式典用だが、これでも問題なく戦えそうな気がする。職人は良い仕事をしてくれた」
「それはよろしゅうございました」
ユリアのために誂えられた鎧や服は、すべての寸法に狂いはなかった。どこの仕立て屋と鍛治屋が作ったのだったか。報酬はもう受け取っているだろうが、戴冠式が終わってからでも、その働きを追加の報酬で称えなければ。
「それでは、最後に御髪を整えさせていただきます」
続けて、侍女がユリアの後ろに椅子を持ってきた。ユリアが椅子に座ると、侍女たちはユリアの淡い色味の長い金髪を櫛でといていく。短めに切っている横髪を控えめな量だけ垂らし、それ以外の長い髪は左右ともに編み込んで、上品にしっかりと巻き上げる髪型だ。垂らしていた横髪は、軽く巻き毛にして華やかさが加えられた。
「お疲れ様でございます。とても凛々しく麗しいお姿でございます」
「此度は祝典ではないため、御髪は控えめな形にさせていただきましたが、何かご要望等はございますか?」
侍女の質問に、ユリアは少し困ったように微笑みながら首を振り、椅子から立ち上がる。
「髪型についてはよくわからないから、これでいい。皆、ご苦労だった。この格好を父上と母上、それとテオドルスにも見せにいきたい。すまないが、ここで少し待っていてほしい」
「かしこまりました。ここでお待ちしております」
ひとりの侍女がそう言うと、侍女たちは扉のそばで一列に並び、一番扉側にいた侍女が扉を開いた。そして、ユリアに深くお辞儀をする。
侍女たちに送り出されたユリアは、照明術式が施されたたくさんの照明器具が照らす廊下を歩いていく。目指す部屋は両親の自室だ。
両親の自室の扉の脇には、ふたりの守衛兵がいた。守衛兵はユリアに一礼し、ひとりが扉を軽く叩いた。
「失礼いたします。ユリア・ジークリンデ様がお見えでございます」
「通しなさい」
父の声が聞こえた。守衛兵が扉を開けると、部屋には父と母が椅子に座って歓談していた姿があった。両親は、娘の立派な姿に感嘆のため息を漏らす。
「父上、母上。いかがでしょうか?」
ユリアが部屋に入ると、守衛兵が扉を閉めた。すると、ユリアは上機嫌に全身を見せるためにその場をくるりと回った。
「よく似合っているじゃないか」
「ええ。素敵よ」
両親からも褒められ、ユリアは満面の笑みを浮かべる。
「ありがとうございます。ところで、テオドルスはどこにいるのでしょうか? あの人にも見てもらいたいのですが」
「テオドルスは、戴冠式の準備で忙しくしている。今日は邪魔をしないほうがいい」
「明日になれば見てくれるのですから、その時までお待ちなさい」
「……わかりました」
ユリアは残念そうに眉を顰めた。すると、父がユリアへと何かを持ってきた。
「そう残念そうにするな。代わりに、明日お前に継承する王冠でも見せてあげよう」
父の手には、美しい透かし彫りの技法を用いられた黄金に輝く冠があった。これがヴァルブルク王国の王位継承の証だ。黄金の王冠には、さまざまな色の宝石が散りばめられており、繊細な美術品にも見える。父に差し出され、ユリアは触れようと手を伸ばした。
──触れるな。
脳裏に、誰かの声が聞こえた。男の声だ。なんだか父の声に似ていた。だが、差し出してきた本人がそんなことを言うはずがない。それでもたしかに聞こえた。その声の言うとおりにしたわけではないが、声に内心驚いたユリアは王冠に触れる前に手を止める。
「どうした?」
触れるなという声が聞こえたからだろうか。これだけ美しい王冠だというのに、なぜか『恐ろしい』気持ちが滲み出てきた。
「いいえ。なんだか、今はこれに触れるのが畏れ多い気がしてしまって……。明日、しっかりと気持ちを引き締めた状態で王冠に触れようと思います」
笑顔でユリアはそう言った。しかし、裏側では奇妙な感覚を抱く。
何か変だ。そういえば、他にも何かの感覚を抱いていたような──。ああ、そうだ。思い出した。喪失感だ。鎧を着るまで抱いていたあの感覚。あれだけ深く悲しい感覚だったのに、どうして今に至るまでまで見失っていたのか。
「父上、母上。明日は早いので、今日はもう眠ろうかと思います。鎧を外して衣装も脱がなければなりませんし」
「そうだな。そうしなさい」
「また明日ね」
「はい。おやすみなさい」
ひとまずは自然な流れで退室することができた。怪しまれていないことにユリアは心のなかでホッとし、部屋を出る。そして守衛兵の一礼を横目に、足早にその場を後にした。
王冠が『恐ろしい』。理由もわからないのに、あれをかぶるのはなんだか怖い。だが、こんな気持ちで戴冠式を迎えるなど誰にもいえない。
その時、また声が聞こえた。
──戴冠式を、しては──。
しかし、今度の声は聞き取りにくかった。先ほどとは違って女性のような高めの声だ。
「……誰なの……?」
声をかけても反応はない。周囲を見渡しても誰もいない。ということは、あの声は耳から聞こえてきたわけではなく、脳内で響いていたようだ。それ以降、声は聞こえなくなった。
本当に、自分は戴冠式などしていいものなのだろうか。祖国もあり、両親がいて、副王である幼馴染とともに国を治める王となる──これの何かが『違う』気がしてならない。だが、そんなことは誰にも打ち明けられるはずもない。ユリアは、晴れない気持ちを抱きながら衣装部屋へと戻っていった。




