第四節 罪と生きる意味、そして──。 ③
「──もう、目を覚ましても問題ない」
どうして声が聞こえてくる?
ユリアは、意識を取り戻した。そこは、謁見の間ではなかった。どこかの部屋の一室で、なぜか鏡の前に立っていた。鏡には、やつれているが嬉しそうに微笑む自分の顔が写っている。
どうしてこんな場所にいるのだろうか。自分は死を選んだはずだ。それなのに月白色の剣で貫いたはずの身体には傷がなく、斬られた背中の痛みもなく、生きている。そして、ひとつおかしいことがある。身体が、勝手に動いている。よく考えてみれば、先ほどの声は自分のものではなかった。それに、今の自分は別に笑いたくない。自分の意志で動かそうとはしていないのに、なぜそのように笑う──?
「そこから言葉を発することはできるか?」
鏡の中のユリアの口が動き、自分の声でその言葉が聞こえた。この口調は、もしや──。
『あなた……アイオーン……?』
「そうだ。わたしだ」
アイオーンが、ユリアの身体を操っていた。
どうして? なぜ、アイオーンが私の身体を動かしているの? 何が起きているの?
あまりの唐突な出来事に、ユリアは次の言葉を思い浮かべることができなかった。
「きみは……あの時、死にかけていた」
『……謁見の間で、私は……』
「……錯乱し、己を責めるあまり自害したのだろう……? きみの身体に乗り移り、記憶を視た」
『私は……どうして、生きているの……?』
「わたしの血を得たことで、きみの身体は想像している以上の生命力を持っている。わたしも、母なる息吹が活発に活動する限り、外傷では簡単に死ぬことはない。……だが、それでも、きみは人間だ。あのままのでは死んでしまうところだった。あの泥の奇妙な力が働いていたのか、治癒術は効かなかった──ゆえに、きみを救うには、禁忌を犯すしかなかったのだ」
アイオーンが言った『泥の奇妙な力』というものは、テオドルスに斬られた際に背中の傷から入ってきたものだろうか。ユリアに実感はないが、何かが入ってくるとすればあの時くらいだろう。
いや。それよりも、聞き逃しできない言葉が聞こえてきた。
──禁忌を犯す……?
『……え……?』
「わたしの核には、魔力があるかぎり、この世の理を超えた修復力を発揮できる。ゆえに、君の身体の内にわたしの星霊の核を入れ、きみの身体を『器』とし、修復を試みた。それゆえ、きみの魂も消えずにすんだ。この状態は慣れぬであろうが……新たな『器』が見つかるまでは、このままでいさせてもらう。人間の女の身体的特徴については、きみの身体が生み出す魔力から情報を得ているゆえ、心配はいらない」
アイオーンが犯した禁忌は、ヴァルブルクが建国することになったきっかけだ。そして、ヒルデブラント王国をはじめとした周辺諸国が戦乱の世になる要因となった行為でもある。共存派が忌み嫌ってきた手段──アイオーンは、それをユリアに施した。
あれだけ、人や星霊に対して距離を取り、穏やかな最期を迎えることを望んでいたアイオーンが──? 私を生きながらえさせるために……?
ユリアは、衝撃のあまり何も言えなかった。
「……わたしは、きみの死が受け入れられなかった……。周囲からは、狂ったと言われたが……わたしは狂っていない……。やはり、こうして正解だった──きみの魂は、ここに存在している。わたしは、何も間違ってなどいない」
ユリアの身体を操るアイオーンは、歓びの顔を鏡に向けた。どこか恍惚とした笑みで、ユリアの手で、ユリアの頬を撫でる。
「……生きていてくれて、本当に良かった……もう死なせはしない。ずっと傍にいる」
『──私を、殺して……。魂を、消滅させて……』
ユリアの魂から届いてきた言葉は、アイオーンが一番望んでいないものだった。鏡に写った微笑みが絶望に染まり、そこに怒りに近い感情も含ませていく。
「──なぜだ」
『私は……家族と恩人を殺したのよ……!? 私は死神だった! いずれ、アイオーンにも災いが降りかかる……! 罪を償いたい──私は地獄に行くべきなのよッ……!』
「違う……! きみは、死神などではない──きみは誰も殺していない。三人を苦しみから救ったのだ」
『殺した……私が殺した──!』
「黙れッ!!」
『──っ!?』
雷が落ちたかのような大きな声とともに、ユリアの身体を操るアイオーンが、荒々しく鏡を拳で殴った。その衝撃で、鏡が真っ二つにひび割れる。鏡に写ったユリアは、顔を俯けて、鏡から手を降ろした。
今のアイオーンは、いつものアイオーンではない。それはユリアも同じであった。あの謁見の間で起こった出来事を経て、ふたりの心は交わることができなくなってしまった。交わるどころか、まったく別の方向へと向いてしまっている。
「……君の身体と魂は、私のものだ。誰にも奪わせない。私のものだ──。奪おうとする者は、誰であっても許しはしない」
アイオーンが発した言葉に、ユリアは心がぞわぞわとした。うまく言い表せないが、少なくとも、アイオーンはユリアの命に対する執着心を暴走させている。その想いは嫌かと問われれば、嫌ではない──だが、今のユリアは、自分のことが何よりも許せないでいる。
「──きみは、わたしの『光』だ……。そして、わたしが……きみの『光』になる」
『光……?』
アイオーンは、無垢な子どものような『希望』を続けて口にした。
「この言葉は、かつて予知能力を持った星霊のひとりが、わたしに対して言った予言だ。その予言を現実にするために、わたしは動いている」
予知能力によって詠まれた予言は、確実なものではない。未来の可能性のひとつにすぎず、そのように動かなければ予言の未来は失われる。
ユリアにもアイオーンにも、まだ互いに『光』となって前に進める未来があるということだろうか。少なくとも、アイオーンはそれを信じて動いているようだ。
「……あの泥は、わたしにもよく判らないものだった。もはや、異空間に送り込む方法しかとれなかった。泥によって変貌しまった者を元に戻する方法を探すことは、どれだけの時間がかかるのか──。だが、きっとその選択をしていれば、ヴァルブルクではさらに人が死んでいたはずだ……。きみは、大勢を助けるための最善の方法を選んだのだ」
ユリアも、そう思いたかった。
だが、苦しくとも戦う理由だった存在を、自分の手で三人も葬ってしまった。そして、錯乱した。やり遂げると宣言したはずの『予言の子』の役目を放り投げてしまった──。この事実が、ユリアの精神を抉り続けている。
アイオーンは、ユリアの心中を察したのか、彼女の意識をじょじょに遠のかせた。
「後のことは、すべてわたしがやっておく。わたしは、テオドルスときみの両親を死に追いやり、きみが心を壊すすきっかけを作った不信派の異形という存在を永遠に許さない。それらをすべて討伐しよう。彼らの仇は、わたしがとる。──ゆえに、きみはしばらく眠れ」
『……ねむ、る……?』
「生きてくれ……。それが、今のわたしの……唯一の願いだ──」
それ以降の出来事は、ユリアは知らない。
アイオーンによれば、不信派の異形の討伐は苦なく終えることができたとのことだ。人間の身体に星霊の核を埋め込むという行為は、星霊が生きながらえること以外にも、その人間が持っていた能力と星霊の力をかけ算したような力を得ることができる方法でもある。そして、ユリアには、生まれながらに持っていた魔力生成量の高さがずば抜けていた。そのおかげで、アイオーンは元の身体で発揮することができていた力とほとんど同等の力を振るえていたようだ。そのため、討伐が滞ることなく終えることができたらしい。国のことも、テオドルスの部下たちと協力して動かしていたようだ。皮肉にも、共存派が禁忌としていた行為が、戦いを早く終わらせることができた一因になった。
周囲の者たちは、ユリアを『器』にしたアイオーンをどのような目で見ていたのだろう。魂を守るためとはいえ、正気のようで正気ではない気配を漂わせていたはずだ。それは、ユリアも同じだった。
『──アイオーン……ひとつだけ、お願いがあるの……』
ある時、アイオーンがユリアの魂にかけた眠りの封印を解いた。不信派の異形の討伐が終わったことを伝えるためだった。眠ってからどれだけの月日が経ったのかはわからない。だが、それよりも、ユリアには願いがあった。それを伝えるなら今しかない。
「なんだ……?」
『……私のことを──『予言の子』のことを、この世の記憶から消し去ってほしい……』
「……それは、きみのことを歴史に残すなという意味か?」
『……この世から、私のことを消してくれたら、生きていけるかもしれない……。私のことは、この世から消し去ってほしい……』
この時のユリアにとっては、『予言の子』という肩書きは精神的な重圧の象徴であり、さらに両親と恩人を殺したことを思い出す言葉にもなってしまった。そして、役目を放り投げてしまった。だから、もう聞きたくはなかった。功績だけでなく、存在を消されてしまっても構わなかった。アイオーンのおかげで、もう生き残った星霊たちは殺される不安もなく、安心して穏やかに最期を迎えられるだろう。『淡い色味の金髪と空色の目を持つヴァルブルク王と王妃の娘が、世を暁へと導く』という予言は、確かに果たされた。──それが本人でなくとも。
「……きみが、そうすることで生きられるというならば──ヴァルブルクの歴史を捻じ曲げよう」
歴史を変えることなど、さすがのアイオーンにも無理ではないかと思っていたが、どうやら不可能ではないらしい。アイオーンは、指先ひとつで自分の記憶や知っている情報を与えることができる。ならば、逆に消すこともできるのではないかと推測していたが、それは正解だったようだ。
『……出来るの……? 『予言の子』のことだけでなく、ヴァルブルクの歴史そのものをなんて……』
「各地の母なる息吹を利用すれば、ほとんどの人や星霊の記憶から記憶を忘却、あるいは改ざんすることはできるはずだ。時間はかかるであろうが──本当に、それを望むのか……?」
『……お願い』
「……わかった。きみが生きられるというのなら──」
ユリアは、生きる選択肢を選んだわけではない。アイオーンが強く望むから、選んだだけだ。空虚な心は、ただ見たくないものを遠ざける願いしか抱けなかった。
こうして、世の中の人々から、ユリアが『予言の子』だという事実は消えてしまった。
また、どれほどかの時が流れた。
ユリアは、再び目を覚ました。そこは、どこかの宮殿の一室らしきところだった。調度品の装飾は、ヴァルブルクのものとよく似ているが、外の風景は見たことのない場所だった。ふと、久しぶりに自分の意志で自分の身体を動かせることに気がつく。アイオーンが、急に身体の主導権を自分に譲るなんて、いったいどうしたのだろう。アイオーンから何の言葉も伝わってこない──現状を不思議に思っていると、部屋に誰かが入ってきた。どことなく母の面影がある顔をした初老の男性だった。豪奢な服装であるため、地位の高い人だろうか。
「……あなたは……?」
「はじめまして、ユリア・ジークリンデ。私は、君の伯父にあたるヒルデブラントの国王だ。……今、ユリアが『予言の子』だということを覚えているのは、私たち王家の一部だけだ」
伯父。ヒルデブラント王。どうりで母に似た顔つきだと思った。ユリアは、会釈をして「はじめまして」と簡単に挨拶をすます。
「あの……なぜ、伯父上は覚えているのですか……? ヒルデブラントの王族は、そういう力をお持ちなのですか……?」
「いいや。ヒルデブラント王家は、普通の人間だ。だが、アイオーンからいろいろと頼まれてね。だから、記憶を持ったまま協力しているのだ。──あの日の出来事ことも、アイオーンから教えてもらっている」
あの日の出来事──ユリアが自害した日のことか。
何を言われるのかと身構えたが、ヒルデブラント王はそのことには触れず、話を続けた。
「……まあ、それはともかく。君の歴史に関することだが、おそらく君が英雄であることは後世に残される可能性がある。記憶をあやふやにすることはできているが、君の存在を完全に消すことはできなかったらしい。──アイオーンが、君が頑張った功績がこの世に残ってほしいと願ってしまったようでね。しかし、私も少しは残っていてほしいと思う。なぜなら、君は、間違いなく英雄だと思っているからだ」
自分が『英雄』であることが、少しだけ歴史に残る。それをアイオーンが願ったから──。だから、アイオーンは、ユリアに呼びかけず、肉体の主導権のみを渡したのだろうか。そのことを後ろめたく思ってしまっているのかもしれない。
「……『予言の子』という言葉が残らなければ、構いません……」
『……すまない……。わたし自身のことは、後世の歴史に必要ないとして消しているというのに……』
アイオーンが、ようやく言葉を発してくれた。心の中で、ユリアは「いいのよ。ありがとう」と感謝した。『予言の子』だけでなく、アイオーンという星霊の存在も消した理由は、アイオーン自身も歴史に残されることを好ましく思わなかったのだろう。今まで力を奪おうとする輩から、己の血肉や核を狙われ続けていたのだから。
「今の世の中では、アイオーンの『器』をつくる術を探すことは難しい。各地の大規模な母なる息吹も弱まっている。だから、君が平穏に生きられ、なおかつアイオーンの『器』を作れる時代が来るまで、ふたりとも長い眠りにつかないかという話をしていたんだ。ひとつの身体に、ふたつの魂があることは、互いにいろいろと不便だろう」
「……未来では、魔力などほとんどないのにですか……?」
「ある星霊が残した未来の予言には、今からおよそ千年ほど後の時代に、高度な文明が築かれるとのことだ。その時代ならば、可能性があるのではないかとみている」
「予言……」
そんなにも遠くの未来を視た星霊がいたとは知らなかった。しかし、その予言は確実ではない。
「予言は、数ある未来のひとつにすぎないが、それでも的中率は高い。アイオーンは、その予言を信じるようだ。私も、その予言を信じることにした。……それに、この時代でないほうが、君も生きやすいのではないかね……?」
その言葉に、ユリアは小さく頷いた。
確かに、この時代ではないどこかで生きたほうがまだ気は楽だった。魔力も薄まり、千年ほど経てば文化もまた違っていることだろう。ヴァルブルクを思わせるものが少なければ、苦しい気持ちから逃れられる。その点でも、この話は有り難いものだった。
「私を含めたヒルデブラント王家の一部は、アイオーンと血の盟約を交わした。血筋が途絶えない限り、王家は君とアイオーンを助け、ふたりを世間から秘匿する──。これは、王家の一部以外の人間には言えない魔術の縛りがある。私たちは、君たちを支えよう。君たちは、この世を守ってくれたのだから」
そう言うと、ヒルデブラント王はユリアの頭を撫でた。
「……私の姪よ。君は罪人ではない。これまでずっと頑張ってくれた英雄だ。君は、称えられるべき人なのだよ」
ユリアは、無言で顔を俯かせた。王は、優しく言葉を紡ぎ続ける。
「皆のために、よくここまで頑張ってくれた。本当にありがとう。そして、すまなかった……。こちらのことは、もう何も心配するな。アイオーンの忘却術で曖昧になった人々の記憶については、私たちが当たり障りのないように調整していくつもりだ。──だから、君はたくさん休みなさい。そして、生きてゆきなさい。生きたいと思える未来を探してゆきなさい。……伯父である私が願うことは、それだけだ」
ユリアは、王を見て、何も言わずに深くお辞儀をした。伯父と関わることは、もう無いのだろう。それでも、もう少し早く会っていたかったと思える人だった。
ここまでしてくれて、ここまで言ってくれるのなら──私は、生きなければならない。誰かの想いに縋らなければ、生きる理由を見つけられなくなっていた。
後日、伯父の使いの者から手紙が届いた。ふたりが眠る場所が決まり、待ち合わせ場所と時間が書かれていた。場所は、ヒルデブラント王家の離宮。そこの小聖堂の力には、小さな母なる息吹があるという。母なる息吹は、千年後でも魔力を噴き出している可能性が高い。魔力で眠り続けるなら、ここが一番最適だろうとのことで、王家が提供してくれた。
──魔力がかぎりなく薄まった時代……。その時代の人からみたら、私たちは怪物か兵器のような存在でしょうね……。
──それでも……誰かとは、きっと仲良くなれる。わたしときみ、そしてテオドルスがそうなれたように。
──……そうだといい……。
こうして、ふたりはこの時代の舞台から降り、幕を下ろした。
そして、およそ千年後に、再び幕は上がったのだった。ユリアとアイオーンは、ラウレンティウスたちと出会う。戦う必要のない時代で穏やかに生き、現代の色鮮やかさを知り、彼らと深く関わりあうことで心の活力を得て、今に至る。
これが、英雄たちの本当の『姿』である。




