第五節 黄昏の弓矢 ①
第五節に入りました。
そして、いきなりの衝撃の事態に巻き込まれます。こんなことになるのは、誰も予想していなかったと思います。
ユリアが目を覚ましたのは、その翌日の昼頃のことだった。
彼女が重いまぶたを開けると、目の前には顔を覗き込むアイオーンの姿があった。
「……気分はどうだ?」
そう言いながら、アイオーンはユリアの頬を優しく撫でた。ユリアが目線を上下左右に見回す。どうやら、ここはローヴァイン邸の自室の寝台のようだ。
「悪くは、ないわ……」
「そうか……。あの時のきみは、もはや何も見たくも思い出したくもなかろうと勝手に思ってしまったゆえ……無理やり眠らせてしまった。すまない……」
「……いいえ。いいのよ。ありがとう」
ユリアは、ゆっくりと上半身を起き上がらせる。
「アシュリーとイヴェットは?」
「イヴェットは、すでにあちらの街へと帰っていった。アシュリーも実家に帰っている」
「そう……。何も説明できなかったから、きっと戸惑わせてしまったわよね……」
「そのことだが──イヴェットとアシュリーには、あれが何者なのかということだけは伝えた」
ユリアは黙り込むと、了承の意で頷く。
「前を向いて歩くためにも、いつかはしっかり過去と向き合って──みんなに過去をすべて話したいと思っているのに……今でも話すことを躊躇ってしまう……。声だけで、あんなにも取り乱してしまうなんて……自分でも思わなかったわ……」
「ゆっくりで良い……。きみの過去には……辛いことが多すぎる……」
しばらくの沈黙の後、アイオーンは拳を強く握りしめた。
「ユリアよ。今は……生きたくはないと、思っているか……?」
意味深な問いに、ユリアは首を左右に振った。
「……今は、生きてみたいと思う」
「そうか……。きみは変われている──強くなっている。過去を抱えて生きようとすることは、そう簡単ではない」
「強くなれているのかな……。けれど、もっと強く……なりたい……。虚勢をはらなくてもいいくらいに……」
ユリアは、哀愁を含ませた笑みを浮かべると、深くため息をついた。
「──アイオーン。ヴァルブルクのことだけれど、今のあなたの見解を聞かせてくれる?」
先ほどの弱々しい雰囲気はいずこかに消え去り、普段のしっかりとしたユリアに戻った。
「ヴァルブルクの街の違和感は、誰かが魔術で何らかの細工しているからではないかと思っている。あのような芸当ができる者が、我々以外にいることは実に疑わしいものだが……」
「そうね……。私も、あなたと同じような考えだわ。このまま放っておくことはできない……。なのに……、今の私は……」
幻影を見ただけで取り乱し、アイオーンたちに迷惑をかけてしまった。このような状態でヴァルブルクには行けない。ユリアは、自己嫌悪の念に囚われ、苦虫を噛み潰したような顔を片手で覆った。彼女のそんな姿に、アイオーンは頭を撫でる。
「……ヴァルブルクの調査は、わたしだけで行く。きみは、ここで待っていてほしい」
アイオーンが、ひとりで。自分は、役立たずだ──。
ユリアは言葉がうまく出てこず、悲しげにアイオーンを見た。
「責めているのではない。きみがトラウマを恐れることは、おかしなことでも間違っていることでもない」
「でも……アイオーンだって、私と同じくらい悲しいはずなのに……。私は、どうしてアイオーンのようにはなれないの……」
「わたしは、きみよりもとても長く生きている。ゆえに『慣れすぎて』しまっているだけだ。だからこそ、『あの悲しみ』も受け入れることができている」
受け入れているというよりは、どこか諦念しているような物悲しさを帯びた言葉をアイオーンは紡いだ。
──嘘だ。あなたは今も悲しんでいる。あなたも『仮面』をかぶっているくせに。
悔しそうにうつむくユリアを、アイオーンはまるで子どもをあやすかのように抱きしめた。
「今のきみには、精神的な休息が必要だ。しばらくは、好きなことをして休むといい」
「……わかったわ」
「わたしは、明日、再びヴァルブルクへ向かい、詳しく調査を行う。きみも研究所の仕事は休め。わたしが伝えておく。──よいな?」
「……ありがとう……お願い。そして……ごめんなさい……」
小さな声で申し訳なさそうにユリアが呟くと、アイオーンは彼女の額に口付けを落とした。
◆◆◆
翌日の明け方。アイオーンはヴァルブルクへと向かった。今度はエドガーの案内もなしに、ひとりで向かった。彼は、人間よりも頑丈に造られている『器』に入った星霊だ。あの長距離だろうと車より早く、目くらましの術を使えば誰にも怪しまれずに移動できる。
ユリアは、浮かない顔で朝食をとりながらテレビを見ていた。食事はサンドイッチだ。パンは食パンのように厚切りにされたもので、卵やハムなどの具がぎっしりと挟まっている。ユリアのためにアイオーンが作ったものであるため、大きさも大きく豪快だ。いつものユリアなら、それを味わいながらがっつくように食べるのだが、今日はいつになく無表情だ。目線は、バラエティ番組にチャンネルを変えたテレビのほうを向いているが、内容はまったく頭に入っていない。テレビの出演者たちが笑っているが、何が面白いのか解らないといった感じで見つめている。ヴァルブルクでの一件から、気持ちはほとんど復帰できていなかった。本人も、それは自覚していた。
何をすれば、元に戻れるだろうか。アイオーンからは好きなことをして休めと言われたが、何もやる気が起きない。ヴァルブルクに不穏なことが起きているというのに、何も役に立てそうにもない。あの地を治めていた一族のくせに、この体たらくは何だ。
──やはり兵器としても、王の子としても相応しくなかったからこそ、己が望んだものは何もかも手に入らなかったのだ。
『……ここで臨時ニュースです。速報が入りました。先ほど、ヒルデブラント王国騎士団の本部にて、突如、五十名ほどの侵入者が現れ、敷地内で暴れているとのことです。現在、騎士が応戦しておりますが、騎士団の本部には極力近づかないよう気をつけてください。繰り返します。臨時ニュースです──』
バラエティ番組の画面が、急にニュースアナウンサーのみの映像に切り替わり、衝撃の速報が読み上げられる。
「い、いったい……何が……!?」
ユリアは、サンドイッチから手を離し、椅子から勢いよく立ち上がった。
報道の詳細を聞くと、どうやら騎士団の本部で襲撃者たちとの戦闘が繰り広げられているらしい。襲撃者たちは、誰もが魔術師である可能性が高い。
しかし、なぜ騎士団の本部を襲撃したのだろうか。騎士に恨みを持つ人たちの犯行なのか。あそこには同じ敷地内に刑務所も併設されている。目的は、もしくはそちらか。どちらにせよ、襲撃者が刑務所に行って暴れ、犯罪人が収容されている部屋の鍵が開いたりすれば、事態はさらに混沌と化すだろう。
どうする──加勢に駆けつけるべきか?
しかし、ユリアは世間から秘匿されている。表に出て目立てば、王室やローヴァイン家とベイツ家に迷惑がかかる可能性も否めない。
(おじさん、総長、クレイグ、ラルス……!)
ユリアが『おじさん』と呼ぶのは、ラウレンティウスの父親だ。
四人は、本部にいる可能性がある。離れていても、おそらく召集命令が下されて本部に向かっている可能性がある。敵がどれほどの強さなのか不明だが、この四人は強い。ほかの騎士も戦い慣れているはずだ。
(……今は、みんなの力を信じて、待機していたほうがいい……)
焦燥感に苛まれながらも、ユリアは様子を見ることにした。状況が悪化するならば、その時はもう一度考えよう。
大丈夫。きっと、すぐに事態は収束するはずだ──。
「っ!?」
突如、屋敷のインターホンが鳴った。
鳴り終わったと思えば、また鳴った。また鳴る、鳴る、鳴る──。音を鳴らす間がどんどん短くなり、気が狂ったかように連続で鳴り続けている。
「こんな時に何なのよ──!?」
身近な人たちが緊急事態に陥っているため、冷静に考えることができない。そんな中での、インターホンを鳴らし続けるという子どもの悪戯のようなことをされれば、さすがのユリアも苛立ちを隠せなかった。
急いで玄関に向かい、荒々しく扉を開ける。
「はじめましテ」
インターホンのボタンの傍には誰もいなかったが、玄関の先にある庭の噴水の前には、ひとりの女性が微笑みながら佇んでいた。女性は、ユリアに敬意を表すように深くお辞儀をした。
敵意を感じない笑みだが、状況的にあやしすぎる。玄関を開けた瞬間にインターホンは鳴り止んだが、まさか他に誰かいるのだろうか。──しかし、気配はない。
「……どちら様? インターホンを連続で鳴らし続けるなんて礼儀知らずにもほどがあるわ」
「突然ノ訪問、お許しくださイ」
それにしても、発音がどこかたどたどしい。どことなく言葉に感情を込めていないような、機械が人の声を発しているようにも感じる。
「あなた様ガ、ユリア・ジークリンデ様デございますネ?」
ユリア・ジークリンデ──ユリアの正式な名前だが、それを知るのは限られた人だけだ。
この女は誰だ。まったく知らない。なぜ、訪ねてきた。誰から聞いたのか、それともどこからか情報が漏れたのか。
「……どこかでお会いしたかしら? あなたにその名前を名乗った覚えはないのだけれど」
ユリアは目つきを鋭くし、警戒の睨みをぶつけた。しかし、女性は、ユリアの感情など無関心に笑みを浮かべ続けている。
「ユリア・ジークリンデ様。お迎えニあがりましタ」
会話が成り立たないうえ、一方的に要件を突き付けてくる。それでも、この女性は微笑んでいる。ここまでくると不気味だ。
不審な女性を警戒しながら、ユリアは彼女に近づこうと片足を前に動かした──その瞬間の出来事だった。
「っ!?」
肩に強い痛みが走った。瞬く間に、身体の感覚が失い、力が抜けていく。膝の関節が力なく折れ曲がり、ユリアは座り込むように倒れていった。それらと同時に、体内にある魔力も急速に失っていっている。立ち上がるどころか、口すらうまく動かせない。
──これは『魔術師殺し』の毒。
ユリアは、そう直感した。先ほど感じた肩の痛みは、毒が塗られた何かが刺されたからだ。矢だろうか。確かめたいが、もう指先すらぴくりとも動かせない。
「おお──! これが『魔術師殺し』の毒の効果か。素晴らしい……!」
ユリアの背後から、歓喜する男性の声が聞こえた。
「こ、この人……死んじゃった……です、か……?」
同じ場所から、怯えている少女の声も聞こえる。
「死んでいない。身体が麻痺を起こしているだけだ。麻痺が治まったとしても、魔力消失効果を持った成分は消えないから、簡単には逃げることができない。──おい、ホムンクルス。この女を運べ」
「了解しましタ」
「お前は肩に刺さった矢を回収しろ」
「は……はい……」
噴水の前に佇んでいた女性は、ホムンクルスだった。ユリアは、抱きあげられると、肩から何かが外された。少女が持っているのは、殺傷力がほとんどなさそうな小さくて細い矢だった。小型のボウガン用の矢だろうか。深く肉に食い込まないように、矢じりには特殊な留め具が付いている。魔術師に気づかれないよう毒を与えるために用意したのだろう。
「セオドアさん……。この人に、何の用があるんでしょうか……」
少女が呟く。ここで、ユリアは少女と男の全貌を見た。ふたりとも、フードが付いたローブを深く羽織っている。相手がフードを深くかぶっていることと、ユリア自身の身体が麻痺していることもあってか視覚はぼやけてしまっており、ふたりの顔は見えにくい。しかし、ふたりのローブは、どちらも上質そうで滑らかそうな生地だ。気配がまったくなかった。もしや、このローブは、ヒルデブラントヒツジモドキの毛から織られたものではないか──。
「さあな。あの男について特に興味はない。報酬が良かったから受けただけだ」
ホムンクルスに横抱きで抱えられたユリアが、少女と男を睨む。しかし、顔色が悪く、迫力はない。
「おー、怖い怖い。まあ、安心しろ。殺しはしない。セオドアという若い男が、あんたをご所望だったからこうしただけだ。あの男、顔だけは良いって言われてるから、そこだけは安心しな」
男は悪びれることなくそう言うと、懐から注射器を取り出し、針をユリアの腕に刺した。すると、ユリアは急激に眠気に襲われた。
「よし、車に乗り込め。早くここから離れるぞ。誰かに見られたら面倒だ」
この者たちが、ヴァルブルクに侵入した? 何のために、私を攫う? セオドア──?
ユリアは、静かにまぶたを下ろした。
またまた謎が増えて、ユリアは攫われてしまいました……。
次回は、いくつかの謎が明かされます。




