第38話「Godspeed You.(君の旅路に神の祝福あれ)」
「ああ、授業のようになってしまったね。すまない、留学から帰ってきたばかりで学生気分が抜けていないんだよ。あ、次の人を呼んでください」
フェリクスは次の患者を呼ぶと、すぐにその診察に取り掛かった。クレアはその横顔を見ていると、自然と手伝わなければ、と思うのだった。
「あの、フェリクス先生、私も手伝って良いですか?」
「ん? ああ、もちろん助かるよ、まずは手を洗ってもらえるかな? で、手を拭いた後に、この霧吹きで手全体を湿らせて欲しい。
ああ、中身は気にしないで、蒸留した強い酒のようなものだから、すぐに蒸発して無くなる」
これは、そういえば昨日エレナ先生と話していたアルコール消毒か、と、これまたクレアにとっては前世で馴染み深いものだった。
「ああ、要は手を洗わないと、手のひらに付いてる悪いものが、患者さんに悪さをするんですね?」
「……驚いたな、この考えは中々理解してもらえないんだけど。留学先でも大論争になってたりしたんだよ?」
フェリクスは驚きつつも、嬉しそうな顔で笑っていた。
「あ! いえ! 村の薬師の人が言い伝えているのを聞いた事があるんです、それで」
「ああなるほど、地域ごとにそういう経験の蓄積があるんだろうね。中には最新の医療すらも及ばないものがあるって聞くよ、興味深い」
興味しんしんといった表情になるフェリクスに、自分に興味を持ってもらえるのは正直嬉しいけれど、あまり余計な事は話せないなぁと思い悩むクレアだった。
「やあロゼ、今日は一人なんだね?」
「今、二人になりましたけどね、アデル、リュドヴィック様にお茶をお願いね」
ロザリアが自宅での王太子妃教育を終えて、一息ついて東屋で休憩していると、リュドヴィックがやってきた。
多少疲れていたのでついトゲのある言葉が出てしまったが、今はむしろ来てくれて助かった。
「あの、ちょっとお願いというか、聞きたい事があるんです、クレアさんの事なんですけど」
「ん? クレア嬢がどうかしたのかい?」
そう言いながら当然のようにロザリアの隣に座ってくる。まぁ、アデルからも定期的にリュドヴィックの息抜きを、と言われているし、これくらいは良いだろう。
「ああ、いえ、クレアさん本人の事ではなくて、実は、クレアさんが思いを寄せている人が、まぁ、いまして。実は、フェリクス先生、なんですけど」
「ええ? フェリクス? 彼か、うーん」
意外な事に、リュドヴィックの反応は微妙だった。
「やっぱり、何かまずい点でも?」
「いや、そういうわけじゃないんだけどね?」
「クレア嬢、こちらの患者さんは少々厄介だ、開腹手術しても良いけど時間がかかり過ぎる。治癒魔法をお願いできるかな?」
「は、はい。ああ、ここに何か腫瘍……できものがありますね。こちらを消せば良いと思います」
「つくづく興味深いね。治癒魔法を使えても、普通はわけもわからず治癒させてしまうものなんだけど……。医学的な知識が結構あるみたいだけど、どこで覚えたの?」
「あ、あの、村の薬師さんの所に、面白がって入り浸ってた時があって、その、昔、病弱だったので、それで」
「へぇ、興味深いね、後で色々とお話を聞かせて欲しいな」
「えっ、えええ?」
クレアはさすがにガンの概念を知ってるのはまずいと思い、何とかごまかそうとしたが、さらにフェリクスは興味を示すのだった。
クレアはその後も手伝いを続けていると、淡々と患者の治療を続けるフェリクスにふと疑問を持った。
彼は王太子殿下の所でお世話になっていて、いずれ宮廷医師に迎えられる予定だとロザリアから聞いていたのではなかったか。
「あの、どうして、ここに来られたんですか?」
「ん? 救護院で医者が足りない、という話を聞いたものだからさ、どうして?」
フェリクスはにこりと笑いながら、さも当然だろう、と当たり前のように言ってきた。その顔に、クレアはまた胸の奥がまた締め付けられるような感覚を覚えた。
「あ、いえ、あの、宮廷医師に推薦されている、とか聞いたものですから」
「ああ、そういう話も来てるね、でも貴族だろうと農家の人だろうと、治療を待ってる患者には変わりが無い、
だったら、より多くの人を助けたいじゃないか。せっかく、人を助けられる技術を身に付けたんだから」
ああ、この人はこういう人なんだ、きっと、これからもこうして誰かを助けていくんだろう。前世の自分も、こういう人達に助けてもらった。そう思った瞬間、クレアの中で何かがストンと落ちた。
「クレア嬢、こちらの人は治癒魔法の方が良いだろう、お願いできる?」
「わかりました! あの、私の事は、クレア、で良いですよ?」
「え、でも、君は王太子殿下から家名をいただいた……」
「ああ、そんな話もありましたね。でも私は、ほんの1月前は地方の村で暮らしていた、ただの村娘のクレアですよ?」
クレアは意趣返しのように、先程のフェリクスの言葉を引用して見せた、その言葉に、フェリクスも困ったように笑うのだった。
「わかったよ、クレアさん。この人の傷口は割と広いけど、そんな深く無いんだ、あまり広範囲にせずに、傷の奥に集中して治すようにね」
「はい、では手をこちらにどうぞ」
「ええ!? リュドヴィック様、それ、本当、なんですか?」
リュドヴィックの言葉にロザリアもアデルも目を丸くする。
「まぁ、君だから話したけど、これはまだ内密にしておいて欲しい。ともかく、彼に婚約者はいないから、後はクレア嬢の努力次第という事にはなるんだから、良いじゃないか?」
「うーん、どこにもいろんな話があるんですね……」
「まあ、彼は見た目通りの誠実な人柄だし、問題ないだろう。我々があれこれ口を出す事じゃないよ、見守ってあげたらどう?」
「はぁ……」
「クレアさん!ちょっと押さえてて!」
「大丈夫ですよー、こういう時は魔力で腕力を強化して抑え、ます!安心して治療して下さい!」
麻酔の効きが悪いのか、暴れる患者をクレアは苦もなく抑えていた。
「いやー、本当助かるよ、クレアさんが居てくれてよかったなぁ」
年齢より幼く見えるフェリクスの無邪気な笑顔に、クレアの心の奥の何かは、どんどん大きくなっていった。
「ところでクレアさん、治癒魔法が使えるとはいえ、自分で言うのも何だけどどうしてここに来たの?」
「え、あー、何となく? 治癒魔法が使えるわけですし、あー、私、昔、身体が弱かったので、その時にいろんな人にお世話になったのでその恩返しというか」
「へぇ、感心だね。あ、そっち押さえてもらえる?」
「はい、あ、痛かったら言ってくださいね」
「あの、フェリクス先生、患者さんの皮膚を縫ってる針ですけど、どうして真っすぐなんですか?
こう、半円状の針にして、掬うように縫えばもっと楽で、綺麗に縫えますよ?」
「……クレアさん! その話、後で詳しく聞かせて! 今の今まで布を縫う延長でしか考えて無かった!
いや今からでもこの針を曲げられないかな? ああでも練習しないと無理なのか、いや本当に後で話し聞かせてね!? 絶対だよ!?」
『ああ、この人は、フェリクス先生は本当にこういう人なんだ……』
リュドヴィックも帰ってゆき、先程聞いたばかりの事と、クレアに対して色々と思いを巡らせていると、当のクレアが突然やってきた。
「お姉さま! 突然おしかけさせていただきました!」
そう言って笑うクレアは、いつも通りの笑顔だった。この笑顔を見ると何だか心が落ち着く、アデルも隣でほんの少し笑っているようだった。
「自分で言う? リュドヴィック様みたいになっちゃって、まぁ、元気なようで安心したわ」
「あ、ご心配をおかけしました。まぁ、昨日は確かに色々凹みましたけどねー、今日も、色々ありまして。気分を切り替えました」
クレアはそう言うと、席に着き、アデルの用意したお茶を飲み始めた。その様子に無理をしている印象はなく、今なら大丈夫かな?とロザリアは話す事にした。
「あー、その、フェリクス先生の事なんだけどね?」
「いえ良いんですお姉さま、大丈夫です。私、フェリクス先生の事、好きでいようと思います」
「え」
クレアの言葉に思わず固まってしまうロザリア。いや昨日の落ち込みは本当にどこへ行った。
「いえまぁ、今日色々ありましてー、結ばれなくても良いからー、好きなだけでも良い、かなー?というくらいには、気持ちの整理ができまして。
フェリクス先生の相手の人も、エレナ先生だし、素敵な人だから、仕方ないかなー、とも思いますし」
「あー、そう、なの、えっとね、フェリクス先生なんだけどね、大丈夫みたいよ? 婚約者、いないって」
「え」
ロザリアの言葉に、今度はクレアが固まる番だった。
「リュドヴィック様に聞いたのだけどね? ご家庭の事情が色々複雑で、幼い頃から長く外国へ留学されていたから、婚約は誰ともしていない、って。あっちで婚約するわけにはいかない立場なので、多分恋人もいないだろう、って言ってらしたわ」
「い、いやいや、エレナ先生は!? どう見てもいい雰囲気でしたよ!?」
「エレナ先生は、義理の姉なんですって、だから名字が違うの。あと留学仲間、フェリクス先生の。どう? 安心した?」
そう言って微笑むロザリアに、クレアはしばらく呆然としていたが、状況を理解したのか、真っ赤な顔で突然慌てふためき始めた。
「え、ええええええええ~~」
「さぁ、道は開かれたわ、あなたは、どうするのかしら? クレア・スプリングウインド?」
にこりと笑うロザリアの顔は、悪役令嬢らしく、物凄く悪い顔だった。
次回 第39話「気を付けよう、マッチ1本火事の元、って、そのマッチを見た事無いんですけどー」