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例え、悲劇だとしても…巡り会えて良かった…架純。

愛の物語です。

お互いの存在だけが希望だった日々。

運命のなかで2人が何を思い、想ったのか…。

気に入っていただけたら嬉しいです。

冬の凍えた風の手のひらがそっと頬を撫でてゆく。


模型のような街並を一望出来る小高い丘の上の小さな公園。

眺める空の鮮やかな夕暮れ。

棚引く雲が茜に染まり何処かを目指して流れている。


僕と架純かすみは、それぞれジャンパーとハーフコートを羽織り、錆びたブランコに並んで座って遠い記憶を呼び起こすその光景を見つめていた。


襟元を立てた僕の隣でわずかに架純が体を揺らす。

きしんだ金属の響きが鳴って、山狭から聴こえる鳥の声と交じり合っていた。


3年前のこの街は、まだ今みたいに洗練された姿をしていなかった。

例えば薄汚れたアパートの壁の落書きや朽ちかけた古い家屋の板塀などが、人々の暮らしの残映のように存在していた。


出逢った時、僕は17歳で彼女は10歳。

安アパートの2階の隣同士。


僕の母親は繁華街の華やかな蝶だったけれど、酒瓶とろくでもない男無しでは、生き延びてゆくことの出来ない人だった。


僕は中学校を卒業すると建築現場で働き始めた。

勉強は好きだったし、本を読むことは大好きだった。

小説や詩の世界の美しい幻想がなければ僕は僕自身を支えていくことは、とても叶わなかったに違いない。


家を出ることも考えたけれど、本当は善良で繊細な母親を独り残してゆくことはためらわれた。

あの人はただ弱いだけなのだ。


架純が引越して来たのは厳冬の陽射しだけは穏やかな昼下がり。


たいして多くもない荷物を、2DKの部屋に母親と2人で運びこんでいる姿を見た時だった。


架純は、息を呑む程に目を奪われる少女だった。

痩せた体と地味な服装にもかかわらず、彼女はまるで街灯の照明に光り闇を降る雨の滴のように煌めいていた。


ただ、その整った容貌には表情というものが一切無かった。

かたくなに唇を引き結び、じっといつも何もない空間の一点をその大きな瞳は凝視している。


母親は派手な化粧と服装で、僕の母と同じ夜の世界の住人の匂いを醸し出していた。


罵倒を娘に浴びせながら、いきなり少女の頬を打った。

柔らかな肌を叩く乾いた音が鳴り響く。

彼女は泣き出すこともなく無言で、そのまま荷物の運搬を続けていた。


この少女の背負った境遇を、僕はアパートの錆びついた外階段を上がりながら理解させられていた。


「こんにちは」


そう挨拶する僕をうさん臭そうにひと睨みするだけで、母親は何も言わず娘へ意味のない叱咤を繰り返す行為を継続していた。


少女は真っ直ぐに正面を向いたまま段ボールに梱包された荷物を、運び入れる作業を続けていた。


この町のこのアパートでは見慣れた光景。


僕は自室のドアを開けて、その情景を遮断した。

ため息をひとつ吐いて靴を脱ぐ。

胸の奥で何かが重い澱みとなっていた。


その夜、人々の営みとは無関係に空の星々は、闇のなかいつもより鮮やかに瞬いていた。


僕はスーパーからの帰り道、外階段の踊り場で錆びた柵にもたれて、両膝を抱えて座りこんでいる架純を見つけた。


彼女の部屋からは母親と酔っ払った男のわい雑で賑やかな声が響いている。

少女は何も見ていなかった。

階段の柵に背中を預けて、白いトレーナーとジーパンだけの今の季節には寒過ぎる服装で、それだけは贅沢な澄んだ夜空の星の輝きを無表情なまま仰いでいた。


僕は既視感に囚われた。

遠い昔の自画像。

胸の奥にざわめいた痛みがはしる。


僕は踊り場で立ち止まると、手に持ったビニール袋から温かい缶コーヒーと菓子パンを取り出した。

少女は相変わらずの無表情で、関心なさそうに僕を眺めていた。


僕はしゃがみ込むとコーヒーとパンの袋を彼女に渡した。

無言で体を固くする少女に、


「食べなよ」


と声を掛ける。

彼女は何が起こったのか理解出来ない表情で僕を見ていた。


僕はそっと少女の手を取った。

それは小さく柔らかだった。

強く握ると壊れてしまいそうな手のひらに缶コーヒーを握らせた。


彼女の大きな瞳が僕を映している。

凍えた夜風のなか缶の熱は驚く程の温もりを僕たちに伝えていた。

菓子パンを膝元に置く。


「食べなよ」


もう一度そう言うと僕は静かに立ち上がった。

賑やかな嬌声が響き渡る。

他に何も出来ないであろう自分が哀しかった。


歩み去ろうとする僕の背中に、少女のか細い声が微かに追いかけて来た。


「……ありがとう」


僕は肩越しに彼女を眺めると微笑んだ。

少女の顔には相変わらず感情が無かった。

僕はポケットに手を突っ込みうつむいた。


部屋ではおそらく泥酔した僕の母が眠っている。

周囲にビールの空缶が何本もあの人の怨嗟の象徴みたいに転がっている。

それが僕の棲む世界。


僕はしばらくそのまま佇んでいた。

仰いだ星が嘘のように綺麗に瞬いていた。

僕は少女の瞳を見つめると優しく訊いた。


「……名前は?」


少女はまるでお守りみたいに小さな缶コーヒーを両手で抱えていた。

無言で僕を映している瞳にほのかに光が宿ったような気がした。


「……君の名前は?」


僕は柔らかな口調で再び訊いた。

沈黙が外階段の踊り場で鳴っていた。


「架純……」


少女が小さな声で答えた。

声音は微かで震えていたけど、温もりがこもっている。

彼女の手のひらのなかで缶コーヒーが街灯の照明を受けて光っていた。


それが、僕と架純のわずか数ヶ月足らずの交流の始まりだった。




光のなかで鳥達の声がしていた。


冬の陽射しに僕はゆっくりと目を覚ます。

体が揺れていた。

うらぶれた室内の調度品が視界を埋めている。

陽光が凍てついた空気のなか柔らかく、枕元に降り注いでいた。


毎朝、起床する度に今日一日を生きる為の理由を探していた。

何処にも行けない僕と僕の心は貪るように本を読む。


ページをめくると飛び込んで来る小説や詩の世界。

言葉の風は心地良く頬を撫でてゆき胸の奥に眠っている想いだけが、自由に青く澄み渡った空を翔けている。


それがなければ僕は多分、生き続けて来ることは出来なかっただろう。


仕事を終えて帰宅すると、いつも外階段の踊り場に架純は座り込んで僕を待っていた。

白いトレーナーとブルージーンズ。

僕の貸した小さな体には大き過ぎるジャンパーが、まるでロングコートのように彼女を覆っている。


膝を抱えて柵にもたれて、長い袖をもて遊びながら少女は放課後の長い時間を過ごしていた。

彼女の母親は滅多に部屋には居なかった。


夕暮れが安アパートをゆっくり包む頃、僕の足音を聴くと架純は立ち上がる。

相変わらずその相貌は表情にとぼしかったが、それでも嬉しいそうに微笑みの破片が浮かんでいた。


僕はいつも最初に彼女の髪をくしゃくしゃに撫でる。


「お腹減いただろう。御飯食べに行こう」


僕が笑顔でそう言うと架純は大きな瞳で、じっと僕を見つめながら両方の長い袖を胸元でひらひらと振ってみせた。


食事を済ませると2人で丘の上の小さな公園に向かう。

冬の凍えた風が頬を掠める。

呼気は白く霞んでいた。

街並を緩やかに勾配している長い坂道を登ってゆく。


閑静な住宅街には灯が点り、作業着のポケットに手を突っ込みうつむき歩く僕の直ぐ後を、大きなジャンパーの裾を小鳥の羽のように翻しながら、架純が追いかけて来る。


彼女が付いて来やすい様に僕はゆっくりと歩を進める。

時折、立ち止まると架純も足を休めて僕を見上げる。


紅潮した頬に真摯に僕を見つめる眼差し。

少しだけ微笑んだみたいな口元。

僕の手のひらが彼女のショートヘアをくしゃくしゃにする。

再び僕が歩き出すと背中を小さくシューズの足音がぱたぱたと追って来た。


丘の下からは街並が一望出来た。


整然と、あるいは無秩序に家屋が建ち並び、まるで玩具の模型みたいだった。

小さな公園は幾つかの木製のベンチと遊具はブランコとジャングルジムしかない。

何本かの樹木が囲むように立っていた。


ブランコに並んで腰を掛けると、錆びた金属のきしむ音が微かに響いた。


静かだった。

街を眺めながら僕と架純はゆっくりと体を揺らす。

ブランコが鳴って風のなか樹々のわずかに残った葉の音がした。

軽やかな沈黙に星たちが瞬いた光を零し始める。


「寒くない?」


僕が微笑してそう訊くと、架純はまた胸元でジャンパーの袖をひらひらと振る。


僕たちは吸い込まれそうな永遠の夜の断片と、狭小な街の灯を視界に納めながら、冬の星々に包まれて長い時間を過ごしていた。



「お母さんは弱い人なんだ……」


架純が缶コーヒーを両手で抱えながらつぶやく。

僕は黙って星夜を眺めている。


「私を罵倒しないと立っていられない人なの……」


何度目かの公園で過ごす夜。

今日の僕たちは朽ちかけた木製のベンチに並んで座っている。


「……でも、優しい時もあるんだよ。この前も私が眠っていたら枕元に座って、布団の上からぽんぽんて撫でてくれたの」


僕は静かに呼気を見つめていた。

白く霞みながら、やがて夜にかき消されてゆく。


「撫でてくれたんだ……」


架純は微かな声でそう言うと、真っ直ぐに前を向いて沈黙した。


僕の脳裏に自分の母親の姿が浮かぶ。

空の深い闇にひとつだけ眩しい程に煌めく星があった。

名前も知らない星。


隣で架純が僕を見つめていた。

黒い艶やかな髪。

あどけない唇。

大きな憂いを帯びた瞳。


僕はそっと彼女の肩に手を掛けて、優しく抱き寄せた。

小さな体の温もりが僕のなかの何かを静かに鎮めてくれる。


僕は黙って瞬く光を見つめていた。

架純が無言で頭を僕の肩にもたれかけさせる。


そのまま、僕たちはまるで2匹の猫がそうするみたいに、お互いの体温を寄せ合って長く凍える夜に佇んでいた。




(後編に続く)

後編に続きます。

ここまで読んでいただきありがとうございました。また良かったら後編も読んでいただけたら嬉しく思います。

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