プロローグ 悪夢
「……あぁ、またここか」
ひどく疲れた声で、小さく呟く。
辺りに立ち込める鉄臭さと、どこかで燻っている煙の焦げた匂いで、目を開けているのも辛い。空にはエサにつられたように無数の鳥が飛び回り、遠くからは野良犬の呻き声も聞こえてくる。
何時見みても、胃と胸がムカムカする。初めてこれを見たときは、思わず吐いてしまったほどだ。
そんな絶望的な光景が目の前には広がっていた。
―― ここは戦場の後。死の世界。
辺りには無数の骸が横たわっており、どれもが光を失った深く暗い目で、遥か遠くを見つめているだけだ。
―― "地獄"と呼ぶに相応しい場所。そう思った。
暗く、重苦しい。立っているだけで息が詰まるような場所で、目に留まる不自然な光景があった。
そこには、いつも一人の少女が佇んでいた。
朧気に霧がかって、ハッキリと確かめることは出来ないが、両手で顔を覆いながら俯いている少女。
「……泣いている」そう感じる彼女の姿を見て、自分の心はいつもざわついていた。
この地獄の中で、最も見たくない姿だった。
何時からだろうか、彼女が泣いていると認識出来るようになったのは。そして心の底から嫌だと感じても、何も出来ない自分に腹が立つようになったのは。
肩を震わせ今にも崩れ落ちそうな少女に、声を掛けようと足を踏み出そうとした時、この地獄の世界は徐々に崩れ始める。
「……ここまでか」
少女の傍らに立つと同時、この悪夢は消失する。
地獄の光景から逃れる時、自分の心には安堵よりも未練のような気持ちが強く残っていた。
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俺は、大粒の汗を吹き出しながら目を覚ました。
辺りを見渡し、ここが高校の保健室だと気付く。
―― どうやら、またやってしまったらしい。
気を失って保健室に担ぎ込まれるのは、これで何度目だろう。
あの夢を見るようになって数ヶ月。
最近では、まるでどこかに引きずり込むかのように強制的に意識を奪って行く。
高校三年の春。楽しい学校生活のはずが、自分は酷く疲弊していた。
「……死ぬのかなぁ。俺」
「そんなの嫌です!!」
いきなりの大声に驚きながら、声の方へ顔を向けると、一人の女の子が泣き出しそうな顔でこちらを見つめている。
一年下の陸上部の後輩。
彼女が入部した年、新入生の指導係だった俺は親身に教えた甲斐もあり、後輩達からの信頼も厚かった。
そのなかでも、一番慕ってくれていたのが彼女だった。
「……ごめん、気付かなかった」
「いいえ、先輩が大変なのは分かっていますから。少し落ち着きましたか?」
「……あぁ、大分な。ありがとう」
自分の答えにも、彼女の顔から不安の色が消えることはない。
この数ヶ月で、自分は随分と窶れてしまった。精神が壊れる限界に来つつあるようだ。
取り繕うことも出来ず、思わず弱々しくなった返事に苦笑いしながら上体を起こして彼女の方へ体を向ける。
「大丈夫だ。体には何の異常もないって、病院でも」
「だから心配なんです! 原因が分からないってことですよね!?」
「本当に、大丈夫だって……」
「私、このまま先輩が、どこかに居なくなっちゃうじゃないかって……」
その予感は、おそらく正しいと思う。
確かめるように目の前にいる少女に尋ねる。
「なぁ、俺が分かるか?」
「え? いきなりどうしたんですか? 先輩?」
「……あぁ、ごめん。何でもないんだ。悪いな、変なこと聞いて」
困惑した表情を浮かべる彼女の様子を見て、自分の心はさらに抉られる。
「……さぁ、もう部活に戻れ。大会が近いんだろ」
「先輩は?」
「俺は、……病院に行ってから帰るよ」
「そう、ですか。分かりました。ちゃんと診てもらってくださいね」
「分かっているよ。じゃぁ、皆によろしくな」
失礼します。と、彼女は保健室を出ていった。その間、彼女に名前で呼ばれることは一度も無かった。
去年の終わりに、顔を真っ赤にして名前で呼んでくるようになった後輩。それを見ていた部活の連中に散々からかわれたものだった。
彼女だけではない、クラスメイトや部活の仲間に至るまで、名前を呼ばれた覚えがない。
夢に引き込まれる頻度に呼応して、この世界から自分の存在が虚ろになっているようだった。
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ベッドから起き上がり、保健室を後にする。
疲労が限界にきているのか、足取りがやけに重い。目覚めたはずなのに、視界がぼやけているように感じる。
やっとの思いで校門を出たとき、ある違和感に気付く。それが何なのかは、すぐに分かった。
―― そこには、誰もいなかった。
放課後の正門。下校する生徒はおろか、普段は人通りの多い学校前の道にも全く人がいない。
静まり返った世界が広がっていた。
「どう、なってる?」
静寂の中で、突然聞いたことのない声が、耳に聞こえてきた。
「……の、……な、ぇぁ? あ、の、なあぇは?」
「……は? な、名前?」
どうやら自分の名前を尋ねているように聞こえる声に、思わず息を飲む。
その声は、まるで助けを求めているように、懸命に訴えかけてきているようだった。
「……あなたの……なまえ、は?」
再度、ハッキリと聞こえた質問に、俺は力いっぱいに答えた。
「ヒサヤ! 俺の名前は、ヒサヤだ!!」
思った以上に大きな声になったが、気にする余裕は無い。
ここで声が届かなければ、自分の存在そのものが消えてしまう予感がした。
「……ヒ、サヤ?」
声が返され、届いたと、思った次の瞬間、まるで夢の終わりと同じように世界が崩れていく。
ここには、もう戻れないのだろうと漠然と感じながら、自分の体は闇に溶け込んでいった。
この時、俺はこの世界から消失した。