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部屋は薄暗かった。
「先生」
小さな声が部屋の奥から聞こえきた。
「香さん……なの?」
サツキは部屋の奥へと足を踏み入れる。眼が暗さに慣れていなく、目の前に薄いベールを張られたように物の輪郭しか見えなかった。
「ドアを閉めて!母さんが来る」
前よりも大きくはっきりした声がした。
サツキははっとなってドアを閉める。閉める瞬間、ドアの隙間に慶子の顔が見えた。まるで鬼のような形相だった。
ドン、ドン、ドン
激しくドアが叩かれる。サツキは必死でドアを押さえた。
「鍵を!先生、早く鍵を掛けて!!」
背後の声に促されサツキはサムターンを回す。ガチリとロックのかかる音。
ドアノブがガチャガチャと音を立てるがロックのために開くことはなかった。
ほうっと息をつきサツキはドアにもたれ掛かるようにうずくまった。
「開けて!開けて!
香に近づいては駄目。話をしちゃ駄目です。
先生、直ぐに開けて出てきてください」
ドアを叩きながら慶子の声が聞こえてきた。ドア一枚隔てただけで、しかも、大声で叫んでいるのに慶子の声は小さく、くぐもっていた。
(この部屋、防音構造になっているのかしら)
サツキはぼんやりと思った。
「先生、先生!助けて」
香の声にサツキは我に返る。ようやく目がなれてきたので、部屋の全容が分かった。
部屋の奥に大きなベットがあった。そこに香がいた。両手を万歳した格好で顔だけサツキの方に向けていた。
ベットに近づいてみて何で香がそんな格好になっているのかが分かった。香の両手はベットの端にくくりつけられていたのだ。
「酷い」
サツキは慌てて駆け寄ると香のいましめを解き始める。
「一体、何があったの?」
サツキは香に問いながら結び目と格闘する。中々ほどけない。見かねた香が言った。
「先生、机にハサミがあるからそれでロープを切って」
香の視線の先におしゃれな机があった。教科書や可愛らしい小物がきちんと置かれている、いかにも年頃の女の子の机然としていた。
「右の一番上の引き出しに入ってるから」
香に言われるままに引き出しを開けると黒光りする大きなハサミがあった。布裁ちハサミ、ラシャバサミと呼ばれるものだ。
サツキはハサミを取るとベットに戻る。
「ねぇ、香さん。
一体全体、どうしてこんな目にあっているの?
何があったの?」
ハサミの刃でロープをごしごし擦りながら、サツキはもう一度同じ質問をした。
「それは……」
香は目をそらし言い淀む。
ブツンとロープが切れた。サツキは直ぐにもう一本目に取りかかる。そちらも直ぐに切れた。
香は手首を擦りながら上半身を起こした。そして、咽び泣き始めた。サツキはかける言葉が見つからずベットの片隅に座り、黙って香の背中をさすった。
そんなことを10分もしたろうか、ようやく落ち着いた香がボソリと呟いた。
「お母さん……
おかしくなっちゃったんです」
「おかしくなった?」
「ううん、違う。もうあれはお母さんじゃない」
香の激しい言葉にサツキは耳を疑う。
「そんな、酷いことを言っては駄目ですよ。お母様の方にも何か事情があるのではないのかしら」
こんな言葉が出てくる香の身に何が起きたか想像もできなかったが、とりあえずサツキは通り一辺の慰めの言葉を言う。しかし、香は激しく首を横に振った。
「違うの先生。先生はわかっていない。
お母さんは文字通り、お母さんではなくなってしまったの。だって、お母さんは悪魔に取りつかれてしまったんだもの」
「えっ?」
想像もしていなかった単語が飛び出して、サツキの思考が止まる。
「アクマって、悪い魔って書く、悪魔のこと?」
「ええ、その悪魔よ」
香の涙で潤んだ瞳が暗闇の中でギラリと光を放った。サツキはごくりと唾を飲み込む。しかし、やはり信じられる話ではない。
「悪魔って……何を馬鹿な」
「私だって馬鹿なことって思ってる。
でも、事実なのよ。先生!」
否定しようとするサツキを香は真剣な顔で見る。
「先生!私の話を聞いて。
それから私の話が本当かどうか判断してほしいの」
「話?」
「そう。私の体験した話よ。聞いてもらえる?」
サツキは良いとも悪いとも言わなかった。だが、香は無言を肯定と受けとると、喋り始めた。
「発端は父が海外出張のお土産に買ってきた人形なの……
2018/07/10 初稿