常世の神
秦河勝は聖徳太子の従者であった。ある日、彼は百済法師の慧聡に言った。
「太子が薨りましてからもう何年経ったであろうか。我々はあの人こそ、国の柱とも思い、ゆくゆくは天皇の位を継ぐものと思っていたのだが。太子が世を去って後は疫病や飢饉や内戦が続けて起こり、世の中みんなが暗くなってしまったようだ。これからどうなるのであろうか」
慧聡は言った。
「災難はいつの世にもあるものですから、あまり気に病みすぎてもよくないでしょう。むしろこんな時こそ心を強くもって、災いに付け込んで人々を惑わそうとする者らに気をつけなければならないでしょうな」
河勝は言った。
「何か、心当たりがあるようですな。あの大生部多のことを考えているのでしょう」
「いかにも、そのことです。近頃は巫や祝たちが、世にときめく蘇我大臣に取り入ろうとしていますが、多はその中でも特に名が知れていますからな。蘇我氏も、馬子宿禰が生きておられた頃はまだ良かったのですが、近頃は権勢を笠に着た振る舞いをする者が目立ちますし……。ところで、今日は大生部多が市にやって来るそうですから、太秦殿も見に行ってみますか」
「いいでしょう」
かくして、秦河勝と慧聡が市場にやって来ると、大勢の人々が集まる中に、大生部多が小さな虫を入れた竹籠を持って、人々に告げていた。
「この虫は常世神の化身である。神々は八十万あると言えども、その中でもとりわけて、神の中の神と言うべきは、常世に坐す少御神である。世の中には、少御神を天神の末の子であり、小人の神にすぎないと思う者もあるが、真にはこの神こそ、とりわけ貴く、人々にもたらされる吉事と凶事を司っているのだ。
その神がこのような虫の姿に身をやつしているのはおかしなことに思われるかもしれぬが、これがいわゆる神の倒語というもので、いと大きく、貴いからこそ、このような姿に身をやつしているのである」
そこへ、一人の病人らしき人が声をかけて、
「大生部様、私の病のもとを占って下さい」
という。大生部多は
「よかろう」
と言うと、虫に木の葉を食べさせて、その食べた後を見て、言った。
「これはあなたの遠祖が祟っているようだな」
「どの祖でしょうか?私は祖の祭りは守っているつもりですが」
「待っておれ、今呼びだそうからな」
そう言って、しばし多は祈りの文句を唱えたあと、その声色が変わって、言った。
「……我は、汝の遠祖たる七束脛命であるぞ。汝が我を忘れておるゆえ、障りをなしているのだ」
「ははっ、しかし……私の祖にそのような方はおられなかったと思いますが……」
そこで、多はもとの声に戻って言った。
「……それこそが病の所以で、そなたが己の祖のことを知らずに、その祭りを怠ってきたからこそ、その祟りがいま起こってきているのだよ。だが恐れることはない。常世神に供物を捧げれば、我が常世神にとりなして、汝の祖を常世国に送ってあげよう。そうすればもはや祟りもなく、汝の身にも幸いがあるであろう」
「は、はい」
それでその人は布と絁を捧げ、大生部多が祈りを唱えてお祓いをしたあと去って行った。秦河勝はそれを見て、言った。
「大生部殿、なぜあなたにはあの人の祖が誰だか分かり、またその祖が常世国に至れるようにとりなすことができるのかな」
多は言った。
「おや、これは太秦殿、あなたにお越し頂けるとは光栄なことですな……。その問いに答えれば、常世神は常世国を司る神であり、この常世国とは死んだ者たちが行きつくべき国であるからです。ですから、常世神は死んだ者たちのことを皆知っており、常世神に仕える私もそれを教えられ、またとりなすことを許されているのです」
「ふむ……」
「どうですかな太秦殿。あなたも悩みがおありのようですから、占って行きませんか」
「しかし、私は仏教徒だが」
「なに、気にすることはありません。仏教でいう仏国土、道教でいう蓬莱なども、実はこの同じ常世国のことなのです。ただ教えによって呼び名が異なっているのです。ですから、あなたのためにも力になれるでしょう」
「そういうものかな……。まあ、それでは一つ占ってもらおうか」
そう言うと、多はまた虫で占って、しばし祈ってから言った。
「……これは、あなたの上祖である秦の始皇帝が、未だ常世国に入れないでいるためですな」
「どういうことかね」
「それはこうです。始皇帝が仙人になろうとしていたことはあなたも知っておられるでしょう。しかし、そのやり方が不完全だったので、始皇帝は完き仙人にはなれずに、常世国の手前の境にとどまっているのです。そしてそこで、同じく仙人になり損ねた漢の武帝と争っているのです。あなたに悩みがあるのもその争いのためでしょう」
「ほう」
「あなたは朝廷で、漢の末裔である東漢氏と対立しておられるでしょう。それもこの争いのためで、二人の祖の争いが、この現世にまで影響しているのですよ。ですから、あなたも常世神に供物を捧げて、あなたの祖たる始皇帝をお助けなさいませ。そうすれば始皇帝も武帝に勝って常世国に入れ、あなたも東漢氏に勝って憂いを除くことができるでしょう。それこそ、親孝行なことでもあるし、あなたのためにもなることです」
「しかし、我々はすでに代々、祖の祭りを行ってきたのに、今さらそうしても祖を助けることはできないのではないかね」
「いや、それだからこそ、こうして私が常世神から遣わされてきているのですよ。あなたがこの場に居合わせたのも常世神のお導きでしょう」
「そうかな……。まあ、今は手持ちがないので捧げるものがないが、またいつか気が向いたら訪ねることにしよう」
そう言って、河勝はその場を去った。その後も、多は群れなす人々に、一人一人占いをしていた。
さて家に帰ってくると、慧聡が言った。
「どうでしたかな、大生部多は」
「そうですな。怪しいことを言っているようにも思えるが、また真にそうかも知れないとも思えてくる。しかし、あなたは信じてはいないのでしょうね」
「もちろん、信じてはいません。そもそも、始皇帝や漢の武帝の末裔は、まさか今この大和の国にいる者たちだけではありますまい。しかし、天下に数多あるその末裔たちが、みな一斉に災いにあったり幸いにあったりしてきたでしょうか?もしこうしたことが祖先のために子孫に及ぶのだとしたら、そうもなるでしょうが。
私の上祖である仲牟王も、一説では神になったと言われています。しかし仲牟王は高麗と百済の二つの国の祖ですが、今までこの二つの国が争いあってきた時に、仲牟王がそのどちらかに肩入れしていたというわけでもありますまい。それに、前に百済の王が殺されて、百済が滅びかけた時にも、彼がそれを助けたというわけでもありません。
そのような当てにならぬことを気に掛けるよりは、今この世に生きている我々自らが、自らのわずらいを除くことに努めるべきでしょう。来世のためには仏法によって、現世のためには、国の興亡する道によって」
「いかにも、その理は灼然ではあるが、しかし祖先を敬うことは人の務めでもあるから、大生部多のやっていることは一概に咎めがたいようにも思えます」
「それでは、もう少し偵察してみますか。明日、多は蘇我氏の邸宅に招かれているそうです。我々も蘇我氏とは古いよしみがありますから、共に邸宅に行って、詳しく彼のことを調べてみましょう」
「いいでしょう」
さて次の日になって、二人が蘇我氏の邸宅に向かうと、その途中で、蘇我蝦夷の子である蘇我入鹿が橋を渡っていくところが見えた。
その先には多くの巫や祝が待ち受けていて、入鹿が通ると、口々に「万歳」を叫び、「あなたに神からの良いお告げがあります」「聞いて下さい」「私のも聞いて下さい」と言う。
入鹿は立ち止まって、彼らに絹と稲を賜り、彼らの話を聞いていた。
河勝と慧聡はそこを遠回りして、先に蘇我氏の邸宅に着いた。
そこで蘇我蝦夷に会うと、慧聡は蝦夷に言った。
「我らも大生部殿の話を聞いてみたいので、あの小部屋を使わせてもらってもよろしいかな」
蝦夷は言った。
「いいでしょう。私としても、あなたの意見を聞きたかったのです」
そこで二人は奥の間に入りその壁を押すと、そこが隠し扉になっていて、さらに奥の部屋がある。二人がそこに隠れていると、大生部多がやってきて、蝦夷と語らうのが聞こえた。蝦夷が言う。
「やあ大生部殿。前に話してくれた、私の祖はどうなりましたかな」
多は言った。
「そのことでしたら、もう先代よりも前の方々は皆、常世国に入られました。これも大臣が真心こめて常世神に供物を捧げてこられたおかげです。ただ、大臣の父上はまだそこまでには至っておられませんが、この調子なら近いうちに常世国に入れるでしょう」
「そうかね。それでは、今日の供物としてこの絹と稲を捧げよう」
「良きかな良きかな。さすが大臣は親孝行ですな。あなたのような方こそ、国の柱となるべきでしょう」
「さて、どういう意味かな?我はすでにこの国を支えるような立場にあると思っているが、ここからさらに上を目指せというのでもあるまい」
「いえ、別に深い意味はありませんが……。とにかく、あなたが縁あってこのように我と巡り会い、常世神に通じて生前から功徳を積んでおられるからには、父上と共にあなたも常世国に行けることでしょう。我にはすでに、あなたもあなたの父上も常世国に居るさまが見えるようです。そこは楽しく美しいところで、花は咲き鳥は歌い、酒も肉もいくらでも飲み食いできて……」
「何だと?」
蝦夷は言った。
「汝は常世国は仏国土と同じところだと言っていたが、仏国土で酒や肉を飲み食いするなどとはおかしな話だな」
多は言った。
「あ、いや。今のは言葉のあやです。つまりはそれくらい楽しいところだということですよ。道教の蓬莱にも同じような話があるじゃないですか。例えですよ、例え……」
「そうかね?まあ良い。ともかく、汝も神に仕える身であるからには、その誠を尽くして、これからも働いてもらいたいものだな」
「分かっております」
そう言って、蝦夷が退出すると、次に東漢嶋がやって来た。東漢氏は蘇我氏に仕えているので、同じ邸宅に住んでいるのである。嶋は言った。
「大生部殿。私の病はいまだ良くなりませんが、前に話してくれた私の祖はどうなっているのですか」
多は言った。
「それでは占ってあげよう。供物を供えなされ」
そこで嶋が布と絁を捧げると、多は占って、言った。
「前よりは力を得られたようですが、まだ満ち足りてはいませんな。しかし、この調子で続けていけば、近いうちに始皇帝を破れるでしょう」
(始皇帝を破る?どういうことだ?)
と、心に思う河勝。嶋は言った。
「実に、そうでしょうか?」
「そうですとも。前にも言いましたが、あなたの遠祖である漢の武帝は、仙人を目指していたもののやり方が不完全だったので、未だ常世国の手前の境にいて、そこで同じく仙人に成り損ねた始皇帝と争っているのです。あなたが朝廷で、始皇帝の子孫である秦氏と対立しているのもそのためです。つまり、二人の祖の争いが、現世にまで影響しているのですよ。
しかし、あなたがこの調子で常世神に仕えて、あなたの遠祖たる武帝をお助けなされば、武帝も始皇帝に勝って常世国に入れ、あなたも秦氏に勝って憂いを除くことができるでしょう。それこそ、親孝行なことでもあるし、あなたのためにもなる……」
河勝はこれを聞いて怒り心頭、
「何を言うかっ!!」
というと、隠し部屋から飛び出した。そして驚く大生部多を掴んで引き立たせ、言った。
「多!お前は、我にも同じことを言ったではないか?我の祖である始皇帝を助ければ、武帝にも勝ち、東漢氏にも勝つことができると。あれは何だったのだ?お前はどちらの味方なのだ?」
「あ、いや。あれは言葉のあやです。私はただ、あなた方をお助けしたいと思っているだけで……」
「黙れ!もうお前のいいわけなど聞きたくないわ。来い!」
そうして河勝は多を蘇我氏の邸宅の外に引き出すと、そこに集まっていた巫や祝、その他の人々もこれに注目する。河勝は彼らに言った。
「皆の者、こいつは妖言して人々を惑わした罪で、今から杖刑にする。これよりは、このような者に騙されてはならぬぞ!」
そう言うと、河勝は多を引き倒して、持っていた杖で何度も打ち叩く。そこへ慧聡が、虫の入った竹籠を持ってやって来て、言った。
「太秦殿、もうその辺りでよいでしょう。刑罰を加えるなら私にするのではなく、公にするべきです」
「それはそうですが……。まあ、それならここまでにして、この虫を取り上げておきましょう」
そう言って、河勝はその竹籠をもらい受ける。多は言った。
「あっ、それは……、や、やめろ!まさかその虫を殺すつもりじゃないだろうな!?それは常世神の化身だぞ!その虫を殺したりしたら、どんな祟りがあるかわからないぞ!」
「もちろん、殺したりはしない。不殺生戒に反するからな」
河勝はそう言うと、その虫をそっと取り出して、近くの木の上に丁寧に置いた。それから振り返って、言う。
「だが、神の名を騙って人々を惑わし、また欺いて、利を収めるような者は、誰だろうと罪を科すであろうし、神もまたこれに罪を科すであろう。そのことをよく覚えておけよ!」
さてこうした出来事があったので、時の人々はこれを見て、秦河勝について歌を作って詠んだ。
“太秦は 神とも神と 聞こえくる
常世の神を 打ち懲ますも”
(太秦は、神の中の神といわれる常世の神を、打ち懲らされることよ)