アルビレオの邂逅 15
全力で走り辿り着いた家。───今は彼女と住む家。
彼女を。───ここでずっとずっと待っていた。
待っていた。───待っていた。
自分のところまで帰って来てくれることを信じ、待っていた。
努力しながら。───必死に、自分の路を歩みながら。
「───っみーさんッ!」
飛び込んだ室内。───キッチンで。
彼女が驚いたように振り返った。
「わっ───びっくり、した。……どうしたのともり、何かあった?」
「っ……」
「とも───んっ」
小さく上がった悲鳴を呑み込むように噛み付いて塞いだ。こんな身体でどうして世界中を旅出来たのか不思議なくらい小さくて華奢な身体を半ば抱き上げるようにして抱きしめてテーブルへと乗り上げる。腕の中で彼女が困惑したように戸惑うのがわかったが、それでものばした舌先はあたたかな彼女の舌と拒絶されることなく触れ合った。こちらがキスし易いように上を向かれ、呼吸を合わせ───受け入れられるように。
───受け入れられている?
わからない。
ただ───まあいいかと、流されているだけ?
「っ……」
「ん……んんっ、ん、……っは、とも、ぃ、まっ……くる、し……んんっ」
「っ───」
聞きたくない聞きたくない聞きたくない。───行かないで。
そうだ。───動けなくしよう。
だって言った。言ってくれた。───恋人になってくれると。
結婚を前提に共に居てくれると。
だから───だから。
どうしたって、もう、自分のものだ。
「───」
「んぅっ」
ぷはっ、と荒い息をひとつだけ置かせてまた重ねて。───どんどん力を失ってゆく小さな身体のシャツの裾から手を差し入れた。え、ここで? というようにやはりまた彼女が困惑したのがわかったがそれもまた同じように抵抗もされなくて───頭の中、で。
ぶちりと切れた音がした。
「───ッ、嫌なら、言えよ!」
荒い息をしながらくたりとしされるがままの彼女に向かって───吼えた。
「嫌なら言えよ! 嫌って言ってもやめねえし、絶対に逃がさねえけど───でも! 置いてくなら言えよ! ───絶対にさせねえから!」
「っ、はっ……」
「流されるくらいなら最初からやさしさなんて見せるな、夢になるくらいなら! 例えみーさんがどんな態度を取ろうと絶対に逃がさないし離さない、絶対にどこにも行かせない───!」
「はぁ、ふ……とも、り、」
「なんだよ!」
「ご、ごめ……な、なんのはな、し……?」
「何って───!」
腕の中で微か、びくりと彼女が身を震わせた。怯えたように細い指がシャツを力なく握って来て、……こんな時、でさえ。
怯えさせたのは自分なのに。
それでも自分を頼ってくれる、かけがえのないひと。
「───……」
呼吸が───一度、止まって。
深い深い眼と、……見つめ合った。
黒い眼の奥で輝き瞬く光。……全てを呑み込みそのまま映す眼。───それは。
自分を見つめていた。───自分だけを見つめていた。
「……航空、券」
「ぇ……」
「取った、でしょ。……どこに行く、の」
「……ぇ……」
思いもがけないことを問われたというように。
彼女が一度瞬いた。
「……ぁあ……ポイントの……」
「……ポイント?」
「うん。ポイントが、貯まって……今期間限定で、航空券と交換出来たから……」
───だから、
「父さんとお母さんとトウマに会いたいな、って……」
「……うん?」
「航空券、ペアチケットなんだけど……ともりが予定空けられそうなら使って二人で行ってもいいし、もし難しそうなら父さんとお母さんにあげてこっちに来て貰うのも出来るなって……差額の分は出すとしても、大分お得でしょう?」
「……お得だね」
「今期間限定で通常よりポイントが少なく交換出来るんだよ……出来るんだった、の。……その最終日が今日で、あわてて申請しに……ネット回線があんまり安定してなかったから、直接お店行った方が早いと思って急いで……」
「……」
「ともり、時間空けられる? 父さんたちのところ一緒に行かない? 逆でもいいけど」
「……行く」
「うん、わかった。……で、ごめん、どうして怒ってるのかがわからない……ちゃんと反省したいので教えてください……」
「いや……ごめんなさい、本当……俺が悪い……」
魂からの溜息を吐いて。───崩れ落ちるように彼女の首筋に顔を埋めた。
「ふゃ」
「……ごめんなさい……」
「く、くすぐった……ふ、え? ごめん、本当……どうしたの?」
「……みーさんがまた流されたのかと思った」
「え? ああ……うん、まあ、それもあるけ……ど。……でもともりだし、ともりがよろこぶなら……わたしだってともりをよろこばせたいし……や、まあ、恥ずかしさはあるけどでもまあ……ともりだし……」
ともりだから。……流されてくれる。
ともりだから。……受け入れてくれる。
「………………」
彼女は全く揺らいでいないのに───どうして自分はひとり、激情に駆られていたのだろう。
「……また」
「え?」
「また離れ離れになるのかと、……思った」
「え?」
ぎょっとしたように彼女が身を硬くした。
「な、なんで? ともりどこかに行くの?」
「……ううん」
「ほ、ほんとう? どこにも行かない? や、行ってもいいんだよ。行ってもいいんだけど───」
深い深い、眼が。
「───わたしも一緒に、連れて行ってくれる?」
何度でも何度でも、彼女が自分を呼ぶ。
「───うん、わかった」
左手の薬指。───まだ何も嵌っていないその華奢な指。
ちゅ、と口付けると彼女がうれしそうにはにかんだ。
「ごめん。ごめんね。───罪滅ぼし、させて」
「え? ……ごめん、まだよくわかってないんだけど……」
「うん。───ごめんね、疑った。みーさんがどこかにひとりで行っちゃうのかと思った」
「───」
眼を見開かれて。───それから。
長い睫毛が───震える。
「……うん」
「ごめんね」
「ううん」
ふるり。……子供のように、首を横に振って。
「散々待って貰ってたんだから。そういう風に思われても仕方な───」
「違う、ごめん、俺が勝手にパニックになっただけ。ごめん。ごめんなさい」
「そう思わせたのはわたし、だよ。……積み重ねの行い」
彼女が小さく微笑った。……幸せそうなその笑顔。
「でもね。───ともりがいいって、言ってくれたでしょ? ともりと一緒にいていいって───言ってくれたでしょ?」
だからね、と、弾むように。
「不安にさせて、ごめんなさい。───でも、これから先離してあげられない」
指先が───髪を梳いて。
「わたしから逃げる時間は二年以上あったんだから。───今更もう、離してなんかあげない」
───かけがえのないひとが紡いでくれる、これ以上ない告白。
あの時の邂逅は、あの邂逅は───漸く、ここまで来れた。
「───うん」
左手の薬指に唇を付けたまま。───微笑む。
「うん。───俺も逃して、あげない」
「うん。識ってる」
「識ってるのを識ってる」
「それも識ってる」
───ふは、と微笑い合って。
───想いは、自然と重なった。
「ん……」
ふわりと眼を閉じた彼女が───あたたかい暗闇の向こうで、心地良さそうに微か声を上げる。
「……ん……」
腕の中でふわりと力を抜く、……世界で唯一のひと。
「───」
「ふぁっ……」
シャツに滑り込ませた手を進めると彼女が驚いたように声を上げた。少しあわてたように、
「あ、あれ? なしの流れじゃ?」
「いやどう考えてもありの流れだよ」
「まじか……」
「まじです」
「そっかあ……」
「気持ちいいぐらい豪快な流されっぷりだけど、俺以外には絶対駄目だからね。俺のだから」
「はあい、分かってる」
「ん、いい子」
触れ合って愛しみ合って。───前とは違った形で。
それでももう、不安はない。───失う恐怖など、もうどこにも。
だから残る路はひとつだ。幸せを選ぶ選ぶ路はたったひとつだ。
「みーさん」
「ふ、ぁ」
「愛してる。───あと少しだけ、待ってて」
ね、と自分だけが赦される距離で微笑うと同じ様に彼女も微笑った。




