ヘリオスの心音 4
部屋に恐る恐る戻った時、鼻を濃い煙草の臭いが突いて思わず噎せ返りそうになった。必死で堪えて、……足音を立てず、部屋の隅まで行き蹲る。……ベッドルームからはテレビの音がして、もう『お父さん』と『お母さん』が起きていることを知らせていた。……×××がいなかったことに気付いていないようだった。ほっとする。
ぼんやりと、感覚を殺すように蹲ったまま虚空を見つめて―――『お父さん』と『お母さん』がぼそぼそとした声で言い争っているのが聞こえた。思わず耳を傾ける。
「……話が違うじゃねえか」『お父さん』の声だった。
「このモーテルに来ればいいんだろ? どうすんだよ、金は」
「……だって、来ないんだから仕方ないでしょう?」『お母さん』の声。
「あたしだってここですっぱり終わると思ってたんだから。……金は、払わなくていいじゃない。こっちだってここまでの旅費で赤字なんだから」
「じゃーどーすんだよ、ここの宿泊費は」
「んなもん払わなきゃいいでしょ」
「あー? ……まあ、そうか」
ぼそぼそとした声。……漂って来る、煙草の臭い。
「……」
すん、と、サイズの大きいだぶだぶの服の襟元を口許まで引っ張り上げた。……ほんの僅か、香ったような……ミルクと甘いクッキー、石鹸とあたたかな匂い。……でもその匂いは夢のように一瞬で消えてなくなって。
「……」
それでも何故か、アラン、と呼んだミユキのやさしい声と、格好いい名前だと褒めてくれたともりの声は、笑顔は、どうやっても消えなかった。……そのことにほっとする。
×××に戻っても。『アラン』はまだ、×××と一緒にいてくれるようだ。
……あたたかな匂いのする眩しい場所。
アラン、とやさしく呼ぶ声。ーーーその声に。
アランはふは、微笑って両手をのばす。やわらかな手と大きなしっかりした手が、握ってくれる。
痛いことも怖いことも悲しいこともひもじいことも何もない。……あたたかな世界。幸せな世界。
「パパ、ママ……」
ふわりと抱きしめられてーーーあたたかさと、やさしさと、やわらかさに。
ーーー幸福に。
アランは微睡んだ。
……いつの間にかに眠っていた。部屋の隅で蹲ったまま×××はぼんやりと顔を上げて―――違和感に、気付く。
「……お……」
『お父さん』と呼びかけて、……万が一怒られたら嫌だなと思って、言葉を吞み込む。そっと、そっと……足音を立てないようにそっと、ベッドルームに行って。……顔を覗かせた。
「……」
ベッドルームは空だった。誰もいない……『お父さん』も、『お母さん』も。
「……」
煙草の薄まった臭いと散らかった部屋だけが、……×××の前に残されたものだった。
「一体全体どうなってるんだ!」
がちゃんっと電話を切ったおじさんが困り切ったように声を荒げた。荒々しい声はいつも聞いていた。聞いていたけれど―――慣れたことは、一度もない。
「……ごめんなさい、もう一度訊くわね? パパとママは、あなたが起きたらいなかったのよね?」
同じく困った顔のおばさんが×××に訊ねて、×××は小さく頷いた。
「どこに行くとか、言ってなかった?」
「……ううん」
「そう。……でも、少しの間出てるだけかもしれないものね……」
「少しの間?」
眉を吊り上げたおじさんが食い付いた。
「電話番号はデタラメ、荷物は全部なくて車もない! それで『少し』だって?」
「あなた!」
鋭くおばさんが叫んで、おじさんははっとした顔になった。その顔のまま×××を見て―――「ああ」と顔を困り切ったものにさせる。
「ああ―――ああ。……ごめんな、そうだ、少しの間だ。ちょっと待っててくれな、おじさんが今、どうにかパパとママを……」
おじさんはそこで言葉を切った。……何かやりきれないように力なく首を横に振り、もう一度電話を手に取る。……申し訳なくて、×××は椅子の上で小さく身を縮めた。
「……ごめんなさい、大きな声がしたから……」
その時だった。とんとん、というノックの音と共に、管理室のドアを開けたそのひとは―――ふわり、と、流れた髪を不思議な色に染めた。
「―――ああ、やっぱり」
女のひとは。
ミユキは小さく、微笑った。……切なそうに。
「また会えたね、―――アラン」