ヘリオスの心音 3
その女のひとが案内してくれたのは一階の部屋だった。どうぞ、と丁寧に促がされ恐る恐る一歩踏み入る。……×××たちがいる部屋よりも広くて、そして……清潔だった。最初来た時と同じくらい、清潔。
「……たばこのにおいがしない」
「ん? ああ、うん。わたしももうひとりのひとも吸わないから」
煙草の匂いがしないとこんなにも穏やかな空気なのか、と×××は変なところで感心した。空気というか、雰囲気が丸い気がする。……それは今この眼の前にいる女のひと、……ミユキが、そういう空気だからなのかもしれないけれど。
「……もうひとりのひと、は?」
「今ね、お買いものに行ってくれてるの」
行っているじゃなくて行ってくれている。……そういう言い方をするひとなんだな、と思った。
「飲みもの、何がいいかな? えーと、」
ミユキはちょっと考えるような顔をした。
「アラン、て呼んでもいい?」
×××は一瞬固まって、それから頷いた。……名前を訊かれた時「『お父さん』と『お母さん』が怒るから」と言って名前は言わなかったのだけれど、ミユキは名前がないと困ってしまうらしい。……×××の周りのひとはみんな×××のことを「おい」とか「ちょっと」とか「これ」とか呼ぶから、名前がないことについてはそこまで迷惑になってしまうとは思わなかったのだけれど。
ちょっと申し訳なく思いつつも、素敵な名前だな、と思って頷いた。何よりちゃんとひとの名前だ。犬じゃない。でもどこから来た名前なのかな、と思って訊いてみる。
「いいよ。……でもアラン、て、何の名前? 犬の名前?」
「犬? 犬じゃないよ。監督の名前」
「かんとく……?」
「うん。この国ではね、今は使われてないけど、映画監督が途中でやめてしまったり、複数人で監督することになった時に『アラン・スミシー』って名前にすることにしたの」
「……『アラン・スミシー』はいないひとなの?」
「そう、架空の映画監督」
「そっか……」
いない。……×××にはぴったりの名前だ。いてもいなくても同じ。
そんなことを思っていた×××の前で、女のひとはふは、と微笑った。
「だからどんな映画でも撮れる。何にでもなれる。―――素敵な名前だなって、思って」
「―――」
何にでも、なれる。……そんなことを今まで言われたことはなくて。
×××は、……アランは、俯いた。素敵な名前だなと、アランも思った。
「アラン、ミルクは飲める?」
「うん……」
「じゃあミルクを飲もうか。あとね、作ってもらったクッキーがあるから、一緒に食べよう? おいしいんだよ」
「……いいの?」
「勿論。クッキー、食べれる?」
「……食べれる」
いつも『お父さん』や『お母さん』が床にこぼした屑しか食べたことがないけれど。でも甘くてとてもやさしいものだということは知っていた。
マグカップにミユキがゆっくりと真っ白なミルクを注いだ。慎重にそうやって注いで、アランに「ソファーに座って」と笑顔で促がす。よいしょ、と登るようにして座ったアランにマグカップを渡して、しっかり握ったところですっと手が離された。白いお皿にお月さまみたいなクッキーが並べられて、ミユキが「いただきます」と何か不思議な音のする言葉を言った。首を傾げると「命をいただきます、ミルクや小麦粉を作ってくれた農家の皆さまありがとうございます」って意味だよ、と教えてくれたので、アランも音を教えてもらって「イタダキマス」をした。
さく、とひと口。……ふんわりと口の中に広がった味に思わずアランは脚をぱたぱたさせた。
「すごいっ……」
「ありがとう、あとで伝えておくね。―――もうすぐ帰って来ると思うんだけど」
「ぼく、そのひとが帰って来てもまだいていいの?」
「せっかくお友達が出来たから、アランのことを紹介させて欲しいなあ」
「……そのひと、ぼくがいて嫌じゃないかな?」
「まさか。よろこぶよ」
どうしてそこまで断言出来るのかわからなかったけれどミユキはあっさりとそう言った。仲のいい友達なんだな、と思った。
「クッキーもね、これ、わたしが好きな味なんだ。周りにお砂糖がまぶしてあって、少し厚めなの」
「とくべつなんだね」
「うん。特別なの」
うれしそうに微笑うミユキを見て心がふわっとする。特別なクッキーを作るそのひともやさしいと思うけれど、でも、そのひともミユキのこの特別な笑顔が見たくて作っているんじゃないのかなあと、アランは思った。
「……やさしいひとなんだね」
「うん、すっごくやさしい」
「好き?」
「大好き」
ふは、と、笑顔で―――少し照れていたけれど、でもそれよりも大きく、幸せそうに。
ミユキが微笑って、……アランも釣られた。ほんの少しの間だったけど、でも今は×××じゃなくてアランだから。……だから今だけは、何も怖くなくて笑えた。
「……やさしいお友達がいて、いいなあ」
「ん? ああ、お友達ではない―――」
「え?」
友達じゃない、という言葉に首を傾げた時。鍵が開く音がしてドアが開いた。ぱっとミユキがそっちを向いて、続いてアランも見る。―――背の高い男のひと。
「ただいま。―――あれ、お客さん?」
耳に心地良い、やさしい声。低いけれど怖くはなくて、安心出来る声。
見たこともないような真っ黒な、とても綺麗な真っ黒な髪に真っ黒な眼。……外国のひと、だった。とても、少し怖くなってしまうくらい綺麗な顔をした、……けれどとてもやさしい眼で微笑ってくれているから、あったかく見える、とても格好いい男のひと。
「ともり」
うれしそうにミユキが言って、ふは、と微笑った。おかえりなさい、と言ってゆっくり立ち上がって―――少しあわてたようにともりと呼ばれた男のひとが駆け寄る。
「立たないで、座ってて」
「病気じゃないよー」
「病気じゃないから何かあった時薬も飲めないし治療も出来ないんだよ」
「そうだけどー」
ぽすん、と、とってもやさしくミユキの肩を抱くようにしてソファーに座らせた男のひとがやれやれというようにふうっと息を吐いた。幸せそうな顔でミユキのおでこにちゅ、と小さくキスをして、……アランを見て、微笑った。
「はじめまして。俺はともり。……俺の奥さんの話し相手になっててくれたのかな?」
「……おく、さん?」
アランは首を傾げた。おくさん? ……およめさん?
「……ミユキ、およめさんなの?」
「ん? うん、そうだよー。ともりのお嫁さん」
「うわ、いい響き……俺の嫁……」
「昔から一切変わらないってある意味すごいよねえ……」
ひとりごとみたいにミユキがのんびりなにか言って、それからともりのほっぺにちゅ、とキスをした。お返しをしたみたいだった。ともりの顔がとろっと蕩けるように綻ぶ。……きっと澄ました顔をしていればお人形みたいに綺麗な男のひとなのに、でも全然そう見えないのは、表情がとっても豊かだからなのかな、と思った。
「……ミユキと、……えっと、ともり、の話をしてたよ」
「そうなんだ。なんて言ってた?」
「ともりのことすっごくやさしくて大好きだって」
「俺とも話そうか。俺もね、俺のお嫁さんのことが大好きなんだよ」
「っ、アラン、だよ。アラン。……知らないひとに名前は教えられないからね、わたしが付けさせてもらったの」
「アラン……ああ、アラン・スミシーか。何にでもなれるし何でも出来る。うん、いい名前だね」
格好いいし、と言われアランもうれしくなる。……たった一時間の名前でも、それでもアランは、……とても、言い表せないくらい幸せな気持ちになれた。
「話し相手になってくれてありがとう。今みーさんを外でひとり出歩かせられなくてさ」
「……?」
どうしてなんだろうと疑問に思ったが、そこでアランははっとした。つい、ミユキやともりといる居心地がよくてついのんびりしてしまったが、もう結構時間が経っているのではないだろうか。
『アラン』の時間は終わりだ。
「っ……みゆ、き。ともり。ぼく、もうかえる……」
「―――そう?」
ミユキが。……ふわっと、アランを抱きしめた。―――生まれて、はじめて。
誰かが、……×××を、抱きしめた。
ぎゅっと身体が強張って―――でも。
ミユキのあたたかい身体に、……ふわっと、とろけるようにして身体から力が抜ける。
「……また、話したいな。アラン。……いい?」
耳元でやさしい声。ふんわり香るのは石鹸のいい匂いとあたたかないい匂い。
「……うん」
抱きしめられた時どうしたらいいかなんて×××は知らなかった。知らなかったけれど―――でも、「うん」と答えたら、ミユキはうれしそうに微笑ってくれた。