アルビレオの邂逅 2
「―――……」
身体があたたかくて、眼が醒めて。
自分が何かをそっと抱きしめていることに、眼を開ける前から気付き意識が一瞬で覚醒する。
「みーさ……」
勢いよく呼びかけて、……声を落とした。
腕の中で丸くなり眠る彼女。……眼を閉じていてもわかる、泣き過ぎて眼元が真っ赤に染まった彼女。
その小さな両手が、自分のシャツをぎゅっと握りしめていた。
「……」
ゆっくりと息を吐いて。……額にかかるその髪を、そっと梳く。……するすると涼やかに指の間を抜けていって、ふわりと不思議な色に染まった。その髪を、指先でなぞる。
「……ん……?」
昨日は気付かなかった、感情に激しく揺さぶられていたせいで見落としていた―――頭に巻かれた、真っ白な包帯。
身体を見下ろす。上着は脱がせたもののセーターもジーンズもきちんと着込んでいるせいで肌はほとんど見えていない。
それでもそっと、セーターの襟元を少しだけ下げると―――青く染まった痣が見えた。
「……」
顔を寄せて。
起きたら問おうと決めて、……それ以前に、彼女が今まだ腕の中に在ることに安堵して。
薄く呼吸を繰り返すその唇に、触れようと―――した、瞬間。
「っ!」
ぶー、ぶーと脱ぎ捨てた上着のポケットでスマホが鳴り弾かれたように身を起こ―――そうとして、彼女がシャツを掴んでいることを思い出す。早く止めなければ彼女が起きてしまう。起きてしまえばまたふらりとどこかへ行ってしまいそうな気がして―――あわてて後ろ手で上着を探った。爪がかつんと筐体に辺り、指先でそれを手繰り寄せる。眼の前に持って来て―――眉を顰めた。知らない番号だ。
「……Hello?」
こういう時にかかってくる電話は大抵彼女絡みの電話だ―――それは彼女と過ごすようになって身に付いた勘だったが、どうやらは今回もそれは正しかったらしい。機械を通して耳元で紡がれるイギリス英語。
『こうして君と話すのははじめてだな』
「―――誰だ」
『その子をずっと見守って来た人間だよ。そしてこれからもそうだ』
「……」
ぎり、と歯を食い縛って。……彼女の身体に回した腕で細い身体をしっかりと抱き寄せる。「ん……」と彼女が声を漏らしたが起きる様子はなかった。
「―――まず訊かせろ。それはどういう意味だ」
『その子がどんな路を選ぶにせよ心身共に健やかであるよう、損なわれぬよう気をかけるという意味だ』
「ああ、そこさえ違えられなければこの先どれだけお前に腹が立っても袂を分かつことはなさそうだな」
『そういうことだ。―――君のこともずっと、見て来たよ』
「それはどうも。……で、何の用? 代われって言うならまだ起こすつもりはない」
『起こす必要はない。君に言うことがあるんだ』
「……?」
『数日前にすぐ近所で交通事故があっただろう』
「ああ……人が轢かれたっていう? 幸い無事だったらしいけど……」
『それがその子だ』
「は、」
『君のところに帰ろうとしたその足で轢かれた』
「は、」
『旅行に来ていた東洋人の少女を庇ったんだが……笑えないことにね、その子の名前は『ユキ』なんだよ。それで咄嗟に反応したみたいなんだが、それにしたってあのタイミングで出くわすこともないだろうに。……ああ、緊急連絡先が僕になっていたからそれも早く訂正させておいてくれ。残しておいてくれる分には助かるけど、君の名前を一番にしておくべきだろう。……ああ、その東洋人家族からはお礼が届いている。とりあえず代理人として僕が受け取っているから後日郵送するよ』
「は、……っ、」
『命に別状はない』
先手を打つように男は言った。
「っ、本当だろうな、全部ちゃんと調べたんだろうなっ、」
『脳にも骨にも異常はなし。ただ全身あちこち打って痣だらけだししばらくは安静にさせておいた方がいいだろう。足首に軽い捻挫が見られるがこれはそう酷いものじゃない。本当奇跡的にだが、大きな怪我はしていない』
「……」
『信じてくれ。彼に誓うよ』
「……彼」
『その子が愛してその子を愛した『彼』だよ』
「……会ったこと、あるのか」
『あるよ。僕はその子が彼と共にいた時出会ったんだ。……そして、縁は続いた。……無理矢理続けさせたというのが実情だが、とにかく、続いた。……彼にはその子を頼まれているんだ。ああ、そういう意味ではなく』
割り込もうとした瞬間やはり先手を打たれた。消化不良のままとりあえず黙る。
『心身共に健やかに。そういう意味、だ。……だが、それを続けたのは僕の意思だ。愛情であることは、僕自身としても否定出来ないね』
「……そこまで否定させようとは思わないよ」
三木も。要も。愛すべき彼女のクラスメイトたちも。
愛情であることだけははっきりとしている。それがどんな形でも、だ。
『だからこれからもやめない。……けれどその第一人者であろうとは思わない。意味はわかるな?』
「言われるまでもない」
腕の中の彼女を―――抱きしめる。
「俺が一生守る。……一緒にいる」
『そうしろ』
「でも感謝する。……あんたがいなければきっと、もっと危ない目にも遭ってたんだと思う」
『……』
「昔、みーさんが俺に黙ってお父さんのお墓参りに行こうとした時。……メールくれたの、あんただろ。……みーさんは隠して言わなかったけど、イギリスから帰って来た時のメールもあんただ。……あの事件があった時、あれの個人情報全部三木さんと要にリークしたのもあんただろ」
『……』
「誰かがいるってことはわかってたよ。師匠でもないから、誰だろうってずっと思ってたけど。……あんたがみーさんを傷付けないことだけは、よくわかってる。……イギリスの時は怪我して帰って来たけど」
『あれは僕だって驚いた』
「その話もいつかちゃんと、聞かせろ。……みーさん、は、」
泣きじゃくっていた―――彼女、は。
「……俺のところに、帰ろうとしてたん、だ……」
ただふらりと寄ったわけではなく。
帰りたいと望んで―――ここまで、来てくれた。
『……手放すなよ』
男が静かに言った。
『抱えて来たものすべてに整理を付けられたから、君のところへ帰れたんだろうけど。……だからこそもう、その子は虚勢を張れない。嘘は吐けないし、今まで通りすぐさま臨戦態勢に入ることも出来ない。……その子が持っていた強さは、自分以外の誰かを守るために持っていた強さだ。全員が全員、もう守る必要もなく大丈夫なんだとわかった今では―――無防備に傷付くし、今まで通り戦うことも出来ない。弱い。今までのその子じゃない』
「わかってる」
『『ただの小さな女の子』だ。今まで折れなかった分折れるだろうし、泣かなかった分泣くだろう。強かったその子はあくまでもその子の一面になり、すべてではなくなる。怖がるし、怯えるし、強くもない。……嫌気が差したか?』
「ほざけ」
『……ならば、いいけどね。一瞬でも手放したら、そうだな。僕が貰おう。その子のことはこれでも気に入っているんだ』
「ふざけんな。誰にもやらない。俺のだ」
『だとしたらきちんとその手に収めておくんだな。一瞬でもその手から逃がしたら、今度こそもう遠慮も容赦もしない。……覚えておけ』
「言われるまでもない」
『そうか。―――じゃあこれはサービスだ』
「なんだ……」
『確かに怪我はしているけど、よっぽど激しくしなければ問題はない』
「……」
『どうせお互い感極まって一線を越えたようで越えられてないだろう。上着をやっと脱いだか脱いでないかくらいで』
「……」
『ただし順序は守れよ。ここまで周囲を巻き込んで大騒ぎしたんだ。君のものであるだろうけれどその子を待っている人間は多くいる―――少なくても結婚するまでは身重にするな』
「……余計な、お世話」
『そりゃ失礼。……それじゃあ切るよ。そろそろその子が起きてもおかしくないだろうし』
「……知ってるだろうけど。俺は蕪木灯」
『ああ、知ってる』
「あんたは」
『……サム・ジェイキンス』
「……探偵の?」
『その子にとってはただのひねくれ者さ。今までも、これからもずっと、ね』
―――そうして、その電話は切れた。
ディスプレイをじっと見て―――そして気付く。
どうやったのかは知らない。だが、アドレス帳には番号とメールアドレスがしっかりと登録されていた。




