ヘリオスの心音 25
「そうやって、笑っていればいい」
ミユキが静かに言った。
「笑っていればいい。翼なんかいらないんだ。自分の脚で、靴底を擦り減らして、必死になって―――冷たいコンクリートの上を泥水を掻き分けながら歩き続ける人たちを笑ってればいい。そうしてあんたは気付かない。自分の脚で、自分の力で人は跳ぶことが出来ることにいつまで経っても気付かないんだ。
そうやって、いい気になって、笑って―――そのまま雷に撃たれて地面に伏すまでずっと、笑ってればいい」
アラン。ミユキは今度はアランに言った。
「自分の家族のことだけを考えなさい。自分の家族の数だけを数えて生きていけばいい。難しく考えることなんて、何もないんだ。―――大丈夫。怖いことなんかじゃ、ない」
ミユキの 眼が
ともる 光を
綺麗な火のように きらきら きらきらと その眼に映し
まるでミユキそのものの 魂の煌めきのような ぎらついて すべてを飲み込む それが
深い深い 大きなその眼が アランを
「アラン。―――わかるね?」
心が勝手に、呼応した。
「―――はい」
ちっとも揺るがなかったアランの声は。
あたたかな人たちから自分を生んだ人への道を、切り開いた。
―――靴底を擦り減らして
どうしてミユキがアランに丈夫な靴を履かせてくれたのか。靴底の分厚い、何も通さない靴を履かせてくれたのか。
―――泥水を掻き分けながら
泥の混じった濁った水。アランの足首まで浸す水。掻き分けて、進む。
―――自分の脚で跳んで
そう。跳ぶことが出来る。アランは自分の脚で跳ぶことが出来る。
―――そのまま雷に撃たれて地面に伏すまで
―――自分の家族のことだけを考えて
―――自分の家族の数だけを数えて
―――難しく考えることなんかじゃない
―――怖いことなんかじゃ、絶対にない。
―――アラン。わかるね?
うん。―――わかる。
アランは駆け出した。頭の中で数える―――家族の人数を。
お守りを、探す。心の中に。アランの中に。
ざらざらと音がする。ごうごうと音がする。
自分の、中を。
アランを 支えて どんな時も どんなに辛く怖い時も ミユキの トモリの 言葉があるなら 言葉を識っているなら
「―――アラン」
―――何度でも、何度でも、アランを呼んでくれる。
―――もう、大丈夫なんだ
ひとつ―――『お母さん』の顔がぐしゃぐしゃのまま明るくなる。その顔にもう、アランは―――アランは何も思えなかった。けれど。
ミユキが悲しむから。お母さんが死ぬところをアランが見ることを、望まないから。だから走る。裸足のお母さんに向かって。
ふたつ―――両手をのばす。大きく広げた手のひらを。お母さんがはじめてらアランに向かって手をのばす。―――でももう遅い。アランは選んだ。アランも選んだ。ともりが昔、家族を選んだみたいに。不幸になるのは許さないと、言われたみたいに。
みっつ―――だってわかる。わかる。わかっている。―――ミユキもともりもアランのことが大好きだ。アランが二人を好きなように―――信じられないくらい大きく、大好きなように。
ミユキともりともりもアランのことが大好きだ。わかる。言える。胸を張って、アランは、二人はアランのことが大好きなのだと言える。
よっつ―――だから大丈夫。何も怖いことなんかじゃない。怖いことなんてない。ミユキもともりが、アランに怖い思いをさせるわけがない。
二人がいるのならアランは、怖くても大丈夫なのだ。
いつつ。―――五人。
アランが選んだ、『家族』全員の数。
届いた手でアランは『お母さん』だった人を全力で突き飛ばした。ふらふらだった『お母さん』はあっさりと引っ繰り返り背中から机に乗り上げた。反動で脚が上がって、床から離れた。アランもその上に飛び乗る。―――その、瞬間。
ミユキが動いた。背後にあった机に座るようにし身体を乗せ、何かを落とす。
黒い何かを。―――瞬間。
劈くような悲鳴を上げ犯人が飛び上がった。そのまま顔から水に突っ込みびくびくとおかしな動きをする魚みたいに跳ね上がる。
落とした何か。―――ポケットに入る雷、スタンガン。
水に浸かっていた犯人だけが小さな雷にやられ動けなくなり―――それでも。
それでも犯人は、アランを見た。
机の上にいるアランに向かって、―――がくがくと奇妙に震えながら手をのばす。
「こ……ぉ……い……」
その不気味さに。アランは怯えながらも強く首を横に振った。
「行かない。絶対に行かない! ―――待ってたよって、赤ちゃんに言うんだ!」
震えながら這う犯人が机の下まで辿り着いた、その時。
「―――よく言った」
次の瞬間、高い位置にあった窓ガラスが割れた。
ほんの僅かだけ地上が覗いたのを見て、アランは身を屈めて頭を庇った。―――触れた大きな手に逆らわず身を委ね抱え込まれた瞬間ぐんっとアランの身体が浮かび上がる。―――ロープと共に飛び込んで来たともりが机の上からアランを攫いそのまま部屋を飛ぶようにし大きく円を描く。縋ろうとした犯人の顔をともりが蹴飛ばし更に勢いを付け、部屋の反対側にいるミユキの机に二人で着地する。
ミユキがアランに覆い被さった。ともりがミユキとアランに覆い被さった。
瞬間。
大きな音がして地下室のドアが開いた。ともりが突き破った窓からも人が降って来る。怒声が飛び交って犯人が取り押さえられ、小さな机の上で固まり蹲るアランたちにもう大丈夫ですよとしっかしとした口調で話しかける人がいる。
それでもそれは、どこか遠くで起きていることに感じられた。
確かなものはもうあった。―――確かなあたたかさが、アランのものではない心臓の音が、確かにアランを包んでいたから。




