ヘリオスの心音 17
「売れるもの、うれるもの……」
「アラン、悩み過ぎもよくないからそんなに考えなくていいよ?」
たくさん考えることは大切だけどね、と言いながらミユキがことんとアランの前に置いたお皿を見て、一瞬でアランの考えはどこかへ飛んで行った。
「うわあっ……!」
とってもいい匂いのするもの。テレビで見たことのある食べもの。一度も食べたことのない食べもの……
「ぱ、パンケーキっ……」
「はちみつとー」
「はちみつっ……」
「生クリームとー」
「なまくりーむっ……」
「バターを付けてー」
「ばたーっ……」
「いただきます!」
「いただきますっ!」
はむっ、とひと口。―――夢のような食感と味が広がった。
「―――んーっ……!」
じたばた、とぶらんと下ろしていた脚をばたつかせる。
「『おいしい』ってことだよねえ」
「そうだねえ」
のんびりとミユキが言ってのんびりとともりがうなずいて、アランの口の端に付いた生クリームを拭ってくれる。
……幸せでたまらなくて、アランは考えていたことを忘れた。
ミユキとともりは、絶対にアラン少年の前では隙を見せなかった。
話し合う時も日本語で。アラン少年が眠っている間に。
だからアラン少年が答えが『自分』だということに気付いたのは、―――二人のせいではない。
決して、二人のせいではない。
大切にされることにより浮き彫りになった自分の『人生』に―――『人間』扱いされたことが一度もないと気付いたことは。
『人間』ではない『もの』として扱われていたことにアラン少年が気付いたのは。
幸せの光に照らされて今までが影のように黒く浮き彫りになったのは―――決して。
決して二人のせいではない。
「―――……」
うつらうつらしていた意識が、……答えに辿り着いた。
「……―――」
大きな満月。
灯りを落とした室内。
決して寒くはない。日が暮れれば肌寒さを覚えるこの季節、アランが震えもせず身体をやわらかなベッドに横たえ、ふかふかな布団をかけられている。お腹は心地良く満ちていて、髪も身体も綺麗に洗ってもらって全身ぴかぴかのさらさらだ。
『お父さん』と『お母さん』がいなくても。―――死んでいたとしても。
アランは。―――アランの、心と身体には。
今どこにも、怖いことも不安なことも見当たらない。
「……」
痛いことも。
苦しいことも。
寒いことも、焦げ付くような喉の乾きも、何も―――
なにも。
「―――」
心が、
「……ぅっ……」
泣いた。
「ぅっ……ぅっ……うぅっ……」
こぼれ出す。こぼれ出す。―――涙が次々にこぼれ出す。
もう。―――もう。
識ってしまったから、―――涙を止めることは出来なかった。
「―――アラン」
やわらかい声が、アランを呼んで。
そっと、抱きしめられる。―――アランを抱きしめるやわらかな手と、アランを撫でるあたたかな手。
やさしい、ひとたち。
「アラン」
「……っぼく、はっ……」
アランは、―――×××、は。
「ほんとうに……ほんとうに、いらなかったんだ……」
『お父さん』と『お母さん』に。
売るものなんて何もなかった。
ほんの少しの服と、車。たったそれだけで来たのだ。―――価値のあるものなんて、何もなかった。
後部座席に座っていた、アランを除いて。
「『お父さん』と『お母さん』は……ぼくの、ことを……」
いらなかった、から。
本当に、本当に、いらなかったから。
どうでもよかったから。―――アランを。
アランを、―――売ろうとしていた。
「まちがえたんだ……『お父さん』と『お母さん』は、泊まるところをまちがえて……だから、誰にも会えなくて……」
アランを売る相手と。
―――会えなくて。
「だから、もういいやって……ぼくを……」
アランを。
―――棄て置いて行った。
「アラン」
ミユキのやわらかな手が、ともりの大きな手が、……アランを撫でる。
少しだけふくらんだお腹。……二人の、赤ちゃんは。
アランみたいには扱われないのだと―――はっきりわかった。
「っ……」
やわらかな手と、あたたかな手に包まれて、やさしくされるのだ。
天気のいい日はみんなで手を繋いで買い物に行くのだ。
たっぷりと遊んで―――みんなでお風呂に入って。
おいしいおやつやご飯をお腹いっぱいになるまで食べて。
さらさらと頭を撫でられながら、とても幸福な気持ちになって、明日を心待ちにしながら眼を閉じるのだ。
アランとは―――全く違う人生を、送るのだ。
「ぼく―――ぼく、」
アランは、
「……ひどいこ、だ……っ」
それでも。
それでも『お父さん』と『お母さん』はアランのお父さんとお母さんなのに。
アランを生んだのはお母さんで、アランは確かに、お父さんの子なのに。
好きでいなくては、いけないのに。
大切にしなければ、ならないのに。
―――わかっているのに。
「おとうさんとおかあさんが死んでても―――かなしくないんだ」
燃える車。―――あの中で、お父さんかお母さんが死んだかもしれないのに。
それなのに、―――アランは。
―――かなしくも、さみしくもないのだ。
「こんな……こんなひどいこ、……ぼくが……」
アランが。―――あの車の中で。
「……ぼくが……」
「アラン」
静かな声。―――けれど。
決して、揺るがない声が。
アランの言葉を、遮った。
―――しなやかに。
「アラン。―――アラン」
やわらかな手が、アランを撫でる。……その手は。
アランを責めてはいなかった。
アランを、―――やさしく抱きしめる手だった。
「アラン。―――アランは」
アランは。
「―――アランは、やさしいね」
―――やさしい、声で。
「……ち……が……」
「違わない。何も違わないよ、アラン。―――アランは」
ミユキは。
「アランは。―――悲しみたかったんだね」
―――ぼろり、と涙がこぼれた。
「アランは。お父さんとお母さんのことが。―――大好きだったんだね」
そう。―――そう。
お父さんとお母さんがそうは思っていなくても。お父さんとお母さんがアランのことを何とも思っていなくても。でも。
「ぼくのっ……ぼくのお父さんとお母さんは、……お父さんとお母さんだからっ……!」
好きだった。好きだった。―――好きだった。
いつか抱きしめて貰えるのではないかと思っていた。
いつか微笑いかけて貰えるのではないかと思っていた。
殴られても。家に入れてもらえなくても。ご飯を食べさせてもらえなくても。
いつか―――いつか、いつか。
いつか、―――きっと。
思っていた。―――思っていた。
―――今、は。
「すきだった……だいすきだった、のにっ……」
だった。―――今は。
「……かなしめない、の……!」
―――どうしても。どうしても。
悲しめなかった。―――大好きなはずなのに。
「……悲しめないことを悔やむ人を。―――どうして、やさしくないと言えるというの」
「全部背負いこんで、抱え込んで、後生大事に抱きしめる人を―――どうして酷い人間だと言えるというの」
あたたかくてやさしい声が。
アランの心を全部ぜんぶ、包んで抱きしめる。
「アラン。―――アランはね」
「選んだんだよ、アラン」
低い、……やさしい声。
「家族は、選んでいい。……いいんだ。
自分を損ない、嗤い、傷付け、損ねるだけの家族なら。そんな家族なら。……そんなのは家族なんかじゃない、選ばなくていい。そんな人たちは選ばなくていい。
アラン。アランはね。―――アランを大事にして、アランを想って、アランのことを自分のことのように考えてくれる、アランが好きでアランを好きな人を―――選んでいいんだ」
「俺は選んだよ」
やさしく撫でてくれる手。あたたかい手。
何度でも、何度でも、アランを呼ぶ。
「っ―――っ……」
わんわんと泣き出したアランを、心と身体全部で泣き出したアランを、―――二人は。
やさしく抱きしめてくれた。
だからアランは、もう迷子にはならなかった。
アランはいらない子だった。―――けれど。
その『いらない子』のはずの手を、両方。……そっと、包むようにして握ってくれる、
二人がいた。