ヘリオスの心音 11
やさしく、ミユキがアランの口を拭いてくれて。
アランが知らぬ間にともりが買ってくれていたという子供向けの歯ブラシでしゃこしゃこと歯を洗われる。……歯を磨く、という言葉もこの時はじめてアランは知った。
「上の歯ー下の歯―」
不思議な歌を楽しそうに歌いながらミユキが歯を磨いてくれて、最後にともりがアランを持ち上げ洗面台を覗き込ませてくれる。
「くちゅくちゅ、ぺー」
不思議な歌の意味はよくわからなかったがコップから水をもらいくちゅくちゅしてからぺ、とした。口の中がさっぱりする。
お腹がいっぱいで、たくさん動いて疲れていて、身体も口の中もさっぱりしていて。
ふわふわする。手や足の先がぽっぽっとあたたかくなって来る。……今までで一番、幸せかもしれない。
立っていられなくなったアランをともりが抱っこしてゆっくりとどこかに運ぶ、ゆらゆら、ゆらゆらして……あたたかくて大きな身体が、アランをやさしく抱きしめてくれて。
ふは、とあらんは微笑った。ミユキとともりの微笑い片を真似するだけで心がふわっとあったかくなる。
ふんわりとしたやわらかいところにそうっとアランは横たえられた。今まで眠たい時は部屋の隅に蹲って小さくなっていた。背中にあるのは硬くて冷たい壁、お尻の下にはごわごわした絨毯……でも今は背中にもお尻にもやわらかいがしっかりとしたものが当たっていて、まるでぷかぷかと浮んでいるかのよう。殆ど眼を閉じてしまっているアランにはよくわからないが、でもとても気持ちがいい。
ふんわりとしたやわらかいものが身体を覆って。……アランはその下で、誰かにきゅっと抱きしめられる。
ふわっと香るやさしい匂い。あたたかさ。
アランは眼をつむったままふは、と微笑った。身体が勝手に動いてその誰かにきゅうっと抱き付くと、やさしくやさしく頭を撫でられる。
やさしい。あったかい。うれしい。きもちいい。
「……おやすみ、アラン」
やさしい声が、二つして。―――やわらかい声と、低くてやさしい声と。
おでこに二回、ふんわりとしたあたたかいものが小さく当たって。……アランの意識は、ふうっと途切れた。
ふわふわとしている。―――ほかほかとしている。
やさしくされている。―――とてもあたたかくてやわらかいものに、包まれている。
はじめてだった。―――はじめてこんなに、やさしくされた。
誰かがアランの頬を撫でる。……あったかい。やさしい。気持ちいい。
もっと―――もっとやさしく、して欲しい。
「……ありがとう……」
やさしくしてくれて。あったかくしてくれて。―――うれしくしてくれて。
―――けれど。
そんな願いは、……がたがたっと揺れた空気ですうっと終わる。
「男の子はいるか?」
ぼそぼそとしているが焦った硬い声―――アランのすぐそばに横たわっていた気配が、そっと起き上がる。
「今眠っています。……そっちの部屋に行きましょう」
「みーさん」
「大丈夫」
ぽそぽそとした大人たちの声。気遣わしげにともりがミユキを呼んで、そっと手を差しのべる。ミユキがその手を握ってベッドから立ち上がった。
「どうされましたか」
ドアの向こうのほんの僅かな声……すぐに抑えて聞こえなくなったその声を追って、……アランはあたたかい夢から戻って来る。
そっと起き上がる―――眠る前よりもずっと、身体に力が入る気がした。どこも痒くない身体と、さらさらになった髪を揺らして、アランは買ってもらった靴を突っかける。靴は三足も買ってもらった。普通の靴と、雨の時の靴と、それから部屋の中で履く簡単な靴と。部屋用のそれはやわらかいがしっかりとしたゴムみたいな靴で、青い靴。足音を立てないようドアにそうっと近付き細く開ける。
焦った顔をしているのはこの建物の偉い人だった。朝、『お父さん』と『お母さん』がいないと気付きあわてていた人……でも今はもっとあわてていた。どうしたのだろう?
「……ニュースでやってたんだ。この車、車種的には見覚えがあるんだが……本当にそうなのかまでは確信が持てない」
「……警察は?」
「それが山火事があったとかで殆ど全員そっちに向かわされてるらしい……福祉局が着くまで預かっていてくれ、だと」
……車? アランはそうっと、細く開けたドアをもう少し押し開いた。……ボリュームを落としたテレビが流れている。いつも大音量で流していた『お父さん』と『お母さん』と違い、小さな音で。
画面の中は赤と黒で覆い尽くされていた。なにかが勢いよく燃えていて、消防士さんたちがそれに水をたくさんかけている。なにかを焼く炎が真っ赤な舌をのばしそれを包んで炙り、さらにさらに強く強く燃え盛ってゆく。
―――ぷらん、と、何かが揺れた。
「……チャーリィ・ミィ……?」
零れた言葉に真っ先に振り返ったのは、……ミユキとともりだった。
アラン。―――二人が、同時にアランを呼んで。アランに前にすぐさまやって来て、
―――アランを、抱きしめた。
ぎゅうと強く。―――強く強く。
それだけでテレビが見えなくなる。二人がアランを全てから護るように抱きしめるから、アランは何も見えなくなる。―――けれど。
アランの眼には焼き付いていた。燃え盛る炎の中、僅かに覗いた窓越しにぶら下がり揺れる、一体の小さなプラスチックの猫のマスコットが。
チャーリィ・ミィ。―――アランがこっそり名付けた名前。別に気に入っていたわけじゃないしかわいいと思っていたわけでもない―――けれど誰にも言わずに名前を付けて、車が揺れる度ぷらんと揺れるそれを、アランはじっと見つめながら来た。―――このモーテルまで。
そう。―――チャーリィ・ミィは車にいた。
『お父さん』と『お母さん』と×××が乗って来た車のミラーのところにぶら下がっていた。
記憶に焼き付いたチャーリィ・ミィの黒い眼が、どろりと溶けた。