一
その者は瞼を開いた。
それまで真っ暗だった視界が突如として光に満ち、その者の網膜にダメージを与えた。
ようやく視覚の明順応が働き出すと、今度は後頭部に鋭い痛みを感じ、ううっ、と呻いた。
起きあがって周囲を見渡し、すぐ近くに、空を突き抜けてそびえ立つ塔を認めた。
塔は限りなく高く、その先端は彼の視覚では確認できなかった。
「タカイ・・・・、高い。」
彼は口の筋肉をほとんど動かさずに、ぼそっとそう呟いた。
次に足元を見た。
彼は赤茶けた水分を全く含んでいない土の上に二本の足で立っていた。
屈み込んで地面に触れてみた。
土の温もりがほんの少し感じとれたような気がしたが、別にその行動に意味はない、と彼は思った。
もう一度周りに気を配ると、遠く地平線の上に微かに黒い起伏が見えた。
おそらくあれは森だろう。
彼はそっちの方向に歩き始めた。
不思議とすぐ近くの塔へは向かおうとは思わなかった。
何故だかは分からないが、意識の底で彼の心が塔へ行くことを強く拒んだのだ。
森に辿り着くには数時間を要した。
彼は急ごうともせずに、ただ一定のペースでそこまで歩いて来たのだ。
彼は森の手前で止まると、そこで歩き始めてから初めて後ろを振り返った。
遥か遠くの空が細い塔によって二分され、まるで天から糸が垂れているように見えた。
やはり塔の上限は分からなかった。
彼は、塔から少なからず離れたことに対して自分が嬉しさを感じている、ということに気が付いた。
自分とあの塔とに何の関係があるのかは分からなかったが、彼はもうそれ以上そのことを考えたくはなかった。
彼は森の中へと静かに入っていった。
数十メートルの大樹たちが太陽の光を遮り、森の底は暗くひんやりとしていた。
動物の声らしきものが遠くで響いているのが聞こえた。
草木の瑞々しい香りが彼の体を癒してくれたのか、さきほどまで感じていた後頭部の痛みはいつの間にか無くなっていた。
ふと、森の香りに混ざって何かが燃えている匂いがした。
木々の狭間に煙りが漂っているのを彼は発見し、今度はゆっくりと歩きはせずに、すぐにそちらへ走り出した。
男が火を焚いていた。
火の上には何かの獣の死体が吊るされ焼かれていた。
「うわぁ!」
三角形の赤い帽子を被り、ひどく黒ずんだぼろぼろの布きれを体に纏ったその男は、彼の存在に気づくなり大声で叫んで驚いた。
何故か男の服装は彼の物と全く同じだった。
彼は、「驚かないで。」と言いつつ、足を進めると、同じ分だけ男も後ずさった。
男はひどく脅えたように目を大きく開いて彼を見ていた。
「ごめんなさい。」と、彼は数歩後ろに下がってそう言い、男が落ちつきを取り戻すまで、その場に静かに立ち尽くした。
やがて男はそろそろとまた焚き火の所まで戻ってくると、少し怪訝な顔をして、
「塔の者じゃないのかい?」と、彼に言った。
「塔の者・・・・。塔とはあの塔のことですか?」
彼は自分が今来た道を振り返って、樹木の隙間に見えかくれする遠くの塔を見た。
「いや、確かに塔の者に違いない。その証拠にうなじには「pagoda」と文字が掘られてある。」
男は彼が塔の方に振り返った時に、彼のうなじのその文字を見たのだった。
彼はそう言われてすぐに首の後ろに手をやってみると、微かに皮膚の上に凹凸が感じられた。