歩み
僕の前には、いつだって障害物があった。
小さな石ころに始まり、水溜り、岩石、大木と行く手を阻むものばかりだった。
けれど、それらを乗り越えられなかったことなど一度もない。
苦労することはあれど、最後には必ず通り過ぎる。
そうして歩み続けてきた僕であったが、今回に限っては違った。
何かが、おかしい。
僕の目の前に立ち塞がったのは、何てことはないただの壁だ。
前に進めぬのならよじ登ればいい。
それだけの話――だった筈。
それなのに、なんということだろう。
乗り越えた先にはまた壁があって、それを超えてもまた壁がある。
数センチ間隔でそびえ立つこの壁は、どこまでもどこまでも続いているのだろうか。
そうしていつしか、進むことではなく壁をよじ登ることが僕の目的となっていた。
前に進めなくてもいい。ただ、壁を超えられればそれでいい。
けれど、壁を上って下りるという連続した単純作業には飽きがくる。
いよいよ嫌になって振り返ってみれば、またそこには壁がある。
当然のことだが、乗り越えた分だけ壁が存在する。
後戻りするには、あまりにも過酷な道程だ。
もう前にも後ろにも進みたくない。
そう思った僕は、その場でジッと佇むことにした。
鳥が泳ぎ、雲が流れて時が過ぎる。
そんな光景を幾度となく眺めては、ため息をつく。
漠然と立ち止まっているだけでも、やはりつまらない。
仕方がないのでまたしても壁を上ってみるが、どういうわけか上りきることが出来なかった。
手をかけてはつるりと滑り、そして落ちる。
どれだけ挑戦しても結果は同じだった。
気づかぬうちに、壁を上れるだけの力がなくなっていたらしい。
右を見ても、何もない。左も同じく。
左右に広がるのは、道ではなく闇だった。
その先がどうなっているのかなど分からない。
もしかすれば、一歩踏み出した先には奈落が待ち受けているのかもしれない。
あるいは、永遠なる深遠があるのかもしれない。
闇は、暗いのは恐ろしい。出来ることなら足を踏み入れたくない。
それは、人間なら誰しもが心に抱えている悩みだった。
闇を好まずして光を求む。
この僕にだってやはり同じことが言える。
けれど、このままここに立っているだけではあまりにも退屈だった。
多大なる恐怖と、わずかな期待。
暗闇の中に、なにか変化があるかもしれないという意味での期待である。
僕は躊躇いながらも、深い闇の中へと進んでいった。
しかし、なにもない。やはり、なにもなかった。
息が詰まるほどの静けさと、悪寒が走るほどの冷たさ。
闇は、どう足掻いても人間と相容れないものらしい。
すぐに踵を返してみたが、もう遅かった。
方向感覚を失い、何が何だか分からないのである。
どこまで行っても視界に広がるのは黒色であり、他には何もない。
手探りで歩いてはみるが、掴めるものなどあるわけがない。
指先を掠めるのは冷たい空気で、それ以外には何もないのだ。
どうしようもなく、僕はその場に立ち止まった。
結局、停止する他なかったのだ。
けれど、不思議なことに暗闇での停止は居心地がよかった。
動くと気分が悪くなるにも関わらず、止まってみれば闇は優しく身体を抱いてくれる。
それが、闇というものだった。
光は怠け者を嫌うが、闇はそうじゃない。
何もしない限りにおいては、闇は天使のようなものだった。
その事実に気がつけたのは、僕にとって喜ばしいことだった。
停止しているにも関わらず、退屈とは無縁の世界へと誘ってくれるのだから。
闇は、偉大だった。
わずかの高揚感と、わずかの満足感と、わずかの虚無感。
それが闇の正体だった。
僕はふと思う。心とは、闇なのではないかと。
心は常に、様々な感情で満たされている。
喜びだけでは心を語れず、悲しみだけでも語れない。
そういう多種多様な感情を含んでいるのが心であり、闇だった。
闇は心だ。
ともすると、人間という生き物は本来、闇の住人なのではないだろうか。
闇を嫌うのは、もうとっくの昔に住み慣れた場所だからなのではないだろうか。
だとしたら、いつしか光を嫌う日が来るのかもしれない。
もし、その時が来たとしたら、僕は一体どうするのだろう。
闇の世界が、人間で溢れかえるようになったら。
その時になっても、闇は闇であり続けられるだろうか。
答えは、よくわからない。けれど、一つだけ言えることがある。
人々が闇に流れ込んできたら、僕はまた光を求めるだろう。
それならばいっそのこと、光も闇もないところへ行きたい。
人間という存在ではとうていたどり着けない、どこか遠くへ。
そう思うや否や、僕は歩き出していた。
未知を求めて、歩いたのだ。
しかし、そんなものは見つかるはずもなかった。
散々歩いた末に見つけたのは、光だった。
闇一色に染まる世界に、突如として光が射しこんできたのだ。
眩しいというのが、率直な感想だった。
そしてまた、居心地が悪いとも思った。
僕はすぐに踵を返そうとするが、闇は光に掻き消されていた。
そうして僕はまた、光あるところにやってきた。
目の前にはどういうわけか壁があり、後ろも同じようなものだった。
左右には闇――が、ない。
代わりに存在していたのは、道だった。
右にも左にも、飽きるぐらいの直線が敷かれている。
これは新たな発見だった。
障害物を乗り越えて、乗り越えて、乗り越えて、その途中で闇との邂逅を果たした僕は、光と再開した。
そして今は、脇道なのかそれとも正しき道なのかは分からないが、それでも確かに道を見た。
左右どちらに進むのかは、まだ決めていない。
けれど僕は、どちらか一方に必ず進むことになるのだろう。
この先に待つのは、いったい――などと、考えるまでもないことだった。
恐らくどこまでいっても、光だろうと闇だろうとその中にも道はあるのだ。
つまるところ、進む意思がある限り、僕らはどこまでも歩き続けることができるのだ。