6.
その日のぼくと優生さんは、また何処かへ遊びに出かけた。また二人で歩いて、また二人の意見を言い合って、また二人でくすくす笑った。
「また明日ね」
そしてまた、ぼくらはいつも通りに分かれた。
「家畜少女って、どんな奴なんだ?」
兄さんは機器の近くに置いてあるスナック菓子をぼりぼり食べながら、唐突にぼくに尋ねてきた。優生さんのことを兄さんに尋ねられるのは二回目だ。優生さんが転校してきてもう一ヵ月になるというのに、ぼくは誰かに優生さんの話をほとんどしていない。
「いつも笑ってる。優しくて、素直で、とても良い子だよ」本当はいつでも笑っているわけではない。優生さんはぼくと過ごす時間に比例して、色んな表情を見せてくれた。
「不気味なまでに変な奴だな、食べられるってのに。やっぱり家畜少女なんてやってられるくらいだから、変な奴なんだ。俺らと違う」
「明日、優生さんがいなくなるんだ」
「は?」
「優生さん。優生あいさん。ぼくのクラスの家畜人間。明日、屠畜日だから」
「あっそ」そこで兄さんは話題を終えたことにしようとした。ぼく側に兄さんが欲しい情報がなくなったので、今日の僕はもう、兄さんにとって用済みだ。だけどぼくは、そのまま動かずに青い薄暗い部屋にいた。カチカチという音が不規則に響く。兄さんはぼくをいなくなったことにして画面をにらみ続ける。ぼくはそれでも黙って突っ立ていた。
どれくらいそうしていただろうか。長い沈黙の後、先に根負けしたのは兄さんだった。ぼくに背を向けたまま、不機嫌を隠そうとしない声を張る。
「なにやってんだ。早く出てけよ」
「兄さん、」ぼくの声が響く。「昔はさ、よくぼくに、兄さんが創った話をしてくれたよね」
「はあ?」
兄さんは一つ舌打ちをし、イライラを貧乏ゆすりで表現した。
「知るかよ、そんなもん」
ますます声に不機嫌さが増す。相変わらず僕に背を向けたまま。
「人形遊びだけじゃ時間が足りないから、二人でお風呂に入ったときも話してくれたよね。おかげで長風呂になった。それから、夜寝る前も、電気を消した後にこっそりと――」
「知らねえよ」
「ぼくは覚えてるよ」
「だから知らねえっつってんだろ!!」
ついに苛立ちが我慢できなくなった兄さんが、手を机に乱暴に叩きつけ、首だけ一度、乱暴にこちらを――ぼくの方向を向いた。まるでこの世のすべてはお前が悪いとでも言いかねない睨んだ瞳に、その首が振り戻るよりも先に、ぼくは言葉を放つ。
「だってぼくは、あのころの兄さんのはなしが、好きだったから」
そして虚を突かれたかのような顔になった兄さんを残し、ぼくは背を向けて光少ない部屋を後にした。かすかに開けたままになったドアの内側へは、廊下側の光が入って少しは明るくなっただろう。
教室のドアを開けるとき、同じタイミングで横から手が伸びてきた。思わずびくりと伸ばした腕を止めてみれば相手も同じように止まっていた。優生さんの手だった。
「…おはよう。優生さん」
「うん、おはよう、当真くん」
優生さんは昨日までと同じように笑う。何事もなかったかのように、いつも通りに教室に入っていった。そしていつもどおり、優生さんの周りをクラスメイトが囲む。
何気なく過ぎる、日常と化した光景。いつもと同じで、今まで同じ。けれどこれからは、違うものになる。
明日は、家畜少女を屠畜する日。優生さんを食べる日。
つまり今日が優生さんにとって最後の学校で、さっきのが最後の「おはよう」だった。
放課後は海に出かけた。一番最初に優生さんと行った場所だ。ここに着くまでの会話は、不思議なまでに弾まなかった。空を眺めるともう夜の帳が落ちつつある。夏も終わり、冬が近くなっている。二週間前と同じ時間帯でも、空は全く違う色を見せた。
ぼくはあの日と同じように、暗い色の海を眺めていた。波の音が聞こえる。ふと、優生さんが静かなことに気づき、優生さんの方へ首を傾けて、
優生さんが泣いていた。
どうして泣いているの。どうして? それはぼくが知っていることだろう。ぼくは知っているのだ。だって一緒にたくさん遊んだ。ずっと優生さんを見ていた。だからぼくは知ったのだ。優生さんのほんとうを。
知っていても、かける言葉なんて見当らなかった。
優生さんが、かすかに首だけをこちらに向ける。優生さんの表情、ああでも月の光だけではよく見えない。その表情が本当かどうかがわからない。だってさっきは泣いていただろう。
どうして、笑っているの。
「わたしを、」優生さんは静かにはにかむ。「じょうずにたべてね」
そのとき、その言葉が、ぼくにはなぜだか、とてもきれいなものに聞こえたのだ。
優生さんの屠畜は、通常授業ではないので朝から行われる。体育祭や音楽祭と同じ行事扱いだ。
空を見上げると愚図った曇りだ。雨が降ることはないという予報なので、屋内ではなく予定通り屋外で行事が始まった。
総勢三十人の生徒がまとまって並んで待っているなか、ついに優生さんが現れた。並んでいる僕らの前方、大きな敷物へ足を運ぶ。優生さんは自分の歩く方向をまっすぐ見て、淡々と歩いていく。顔はいつも通り普通――いや違う。いつもの彼女はもっと笑顔だ。
優生さんが屠畜専用の敷物の上の真ん中で、固まって並んでいるぼくたちの前方の、ちょうど真ん中になる場所でぴたりと止まった。まっすぐな瞳でこちらを射抜く。優生さんが転校してきたときと同じような状況だった。けれどあのときは始まりで、今は終わりを告げる場だ。優生さんより少し後ろに、担任の先生や他の手伝いの先生が並んでいる。1組はぼくらより先にはじめたのでもう終わっている。ぼくらのあとには3組がやる。
優生さんがぺこりとお辞儀をした。先生の挨拶。心構えの確認。まるで自身がこの行事に重要な人間かのように振る舞ったあと、優生さんに場を譲った。優生さんはぺこりとまたお辞儀をして、話し始める。「この度は、私たち家畜少女のために――」
ぼくは気づけば俯いていた。優生さんが喋っている。でも優生さんが喋っているようには聞き取れない。赤の他人が話しているかのようだ。だって、ぼくに残っている優生さんの言葉は今とは違うものなのだ。『わたしを、じょうずにたべてね』あれこそ優生さんの本当の声で、今は別の誰かが全く関係ないスピーチをしているのではないか。
そっと顔を上げると喋っていたのは優生さんだった。残念な気持ちと当たり前だという気持ちが相反して僕のなかに残る。ぼくはまた俯いた。
「みんながよくしてくれたこと、本当にうれしかったです」家畜少女からの話はそろそろ終わろうとしていた。優生さんは微笑みなから、最後の言葉を閉めくくる、最後の挨拶をした。
「ありがとう」
今までの彼女とは違う笑い方だった。自分の最期を分かっている笑い方だった。ついにお別れを目前にして周りが涙ぐんでいる。ぼくは泣くことなんてできなかった。優生さんの首元に刃があてられる。命を奪って生きることの大事さを『知る』ために、優生さんは目に見えて分かりやすいかたちで殺される。周りのすすり泣きの声。ぼくの目は優生さんをずっと見ていた。優生さんは多分どこも見てなかった。聖母のような微笑みのまま、
そして彼女は生涯を終えた。
赤い血がシートの上を流れる。頭に何かを打ちつけた後、衣服が彼女の体から剥ぎ取られ、胸元あたりに切り込みを入れられた場所から教師の手が侵入し、彼女の体の中の何かをねじった。そこから先は生徒の仕事だ。学級委員がリーダーとなって、他の何人かの生徒と解体をはじめる。人選は優生さんが転校してくる前に決まっていた。いつもクラスを引っ張るまとめ役たちだ。ぼくは優生さんと仲良くなったけれど、そんなことは全く関係なかった。優生さんだった肉体を、食べるものにするために切って取り出していく。家畜少女の体はぼくらと見た目は全然変わらないが、その中の仕組みは少し異なるらしい。とくに衛生面はかなり力を入れられていて、殺菌消毒をしなくてもいいような肉体となっている。家畜人間としての目的を果たすため作られた肉体なので、長くもつことは考えられてない。そんな肉体は優生さんが死んだ後も役目を果たそうとしていた。手袋をつけた学級委員たちがなかなか上手くいかずに悪戦苦闘しながら彼女を切り分けていく。彼らは役割が決まったあとにこの作業を何度も人形相手に練習していたけれど、それでも理想通りには進まないようだ。この日に備えて、解体作業をまとめた映像なども見て色々学んだのだろう。『脳』から情報を取り込んである程度はスムーズにできるようにしているのかもしれない。色々な要素があって、だから彼らは優生さんを最後にはちゃんとばらばらにすることができた。ぼくが優生さんと最後に遊んだ。でもそんなことはやっぱり関係がなかった。
食用として斬られた肉はいったん運ばれる。飛び散った血やぐずぐずした彼女の残りものが敷物の上に残ったが、敷物ごと包まれてそれも別のところへ運ばれていった。あの敷物は使い捨てだから、もう帰ってこない。
切り離された優生さんの頭は、解体作業より少し離れたところに置かれていた。そして解体作業が終わると同時に運ばれていった。きっと最後のあいさつのままの、笑顔なのだと思う。
その表情が嘘であることを、ぼくは知っている。
ぼくだけが知っている。
ぼくらはこうして、食べることは『命を奪う』ことだということを『知る』。
そして悲しむ態度を表すことと、感謝の気持ちを持つことが大切なことだと『知る』。
屠畜日の次の日は晴れだった。空を見上げると日差しが強く、青い色をして待ち構えている。授業は作文科目が始まった。これが苦手な人も多い。ぼくも苦手だ。
優生さんはどうだったのだろう。隣の席を見ても、もう誰もいなかった。
クラスのみんなは優生さんなんて初めからいなかったように振る舞っていた。行事が終わったからだ。誰もが慈しみ愛して優しくする対象は存在しない。あるいはぼく含めみんなの腹の中で収まったとも言える。要するに5年2組は優生さんと接して大切なことを教えてもらい終わったから、彼女は用済みなのだ。
だから、行事のあとには変わらない日々が残る。
漢字のテストが近いと騒いで、時間通りに先生がやってきて、みんなが大きな声で挨拶して、朝の会がはじまって、また新しい行事について軽く説明されて、1時間目の教科書を机の上において、休み時間を待つクラスメイトがそわそわしているのを眺めて、ぼくは『脳』で情報を『知る』のを待って。
家畜少女はいなくなって、ぼくらは道徳を知って、命をもらうことを学んで。
優生さんが泣いたことはぼくだけが知っていることで、優生さんの最期の笑顔が嘘だったことはぼくだけが知っていることで。
それでも昨日と同じように日々は過ぎる。
それらとは全く関係なく、世界は昨日までと変わりなく進んでいく。
けれど、ぼくのなかには燻ったものが蠢いていた。『知る』だけでは足りない何かが、彷徨うように這い回っていた。
だって、おかしいだろう?
過去の文化を理解するため。道徳観と倫理観を学ぶため。
だから?
だから――なんだというのだ。そんなもの、再現したって知ってそれでおしまいだ。何の役にも立ちはしない。
『知る』ことは最大の娯楽だ。そしてそれ以上にはなりえない。
それ以上を創るのは、『知る』だけでは駄目なのだ。例え生きていけても、『知る』だけでは、今のぼくのままではどうしても駄目だ。だって、こんなに我慢ならない。
優生さんの最後の笑顔が嘘であることを、ぼくだけは知っていた。ぼくだけが知っていた。
だから、なんだというのだ。
彼女のことを『知る』たびに、ぼくは嬉しかった。でも、それだけじゃあ何にもならなかった。何の役にも立てなかった。
優生さん、優生あいさん。彼女のような存在をもう作らないようにするためには。
革命が必要だ。「創ろう」呟く。物語を? 情報を? いや違う、
「世界を」
「おばあちゃんが死んだのよ」
休み時間、人のない非常階段近くで、少女は俯き声を震わせ、「昨日」と言葉を付け足した。
ああ、とこの場に連れてこられた少年は納得した。少年と少女はいわゆる幼馴染で、少女の祖母とも交流があった。小さい頃は特に可愛がられた記憶があるし、高校生となった今も顔を合わせていた。
そうか、死んだのか。ぼんやりと思う。それにしたって死期を教えてくれておいてもよかったのに。割といたずら好きな老人だったから、こちらを驚かせたかった、なんて思惑もあったのかもしれない。
などと思いを馳せていると少女がいきなり顔をがばっと上げ、睨みつけるような顔つきで少年に吠え立てた。
「ねえ、おかしいと思わない!?」
「おかしいって」少女の気迫にたじろぎながら、少年は答える。「いったいなにが?」
涙ぐんでいる目元の赤い少女の表情には、悲しみは感じられない。言ってしまえば、その顔が表すものは怒りだ。
「おばあちゃんは、まだ元気だったのよ。死んじゃうなんて信じられない。絶対おかしい」
「おかしいっつったって、そんなこと言われてもな」死期だったのなら、それは仕方のないことだ。「ばあちゃんも、満足してたろ?」
「…うん。笑顔で葬儀場に行ったわ」「じゃあ、」「だから許せないって言ってるの!」
喚き声になった少女が、また俯いて静かになった。少女の考えていることが少年にはまるで伝わらない。なんだかうんざりし始めた。
「ねえ、今年の自殺未遂率、また上がったんだって」少女が、突然話題を変えた。少年はいぶかしげな顔をする。「自殺しちゃう若者が最近増えてるっていうじゃない。でも、自殺しようとすると『脳』が察知して」そこで少女は右手で頭を抱える。そこが『脳』のある場所。生まれながらにして埋め込められる、死を阻止するための装置。「死を選ぼうとする体を止める。同時に近場のロボットすべてに知らせて自殺を阻止させる」
「何だよ今更。授業でみんな習ってるだろ」この国ではすべての人間の死期が決まっている。この世に生を受けてからきっちり八十年間後。そのときこそ死を迎えるときで、それまでは必ず生きなければならない。医療費は全て国が賄い、すべての国民に平等な人生を届ける。国が語る理念はこうだ――『みんな一つの生き物であるから』。今を生きる少年にとってみんな一つではなかった時代など考えられない。クラスメイトや教師だって同様だろう。なぜならその時代以前に生きていた人間は、もう存在してはいないのだから。
「死ねないってわかっていても、死のうと行動を起こすのよ。これっておかしくない?」少女はそういって少年を見つめるが、あいにくぽかんとしただけで肯定はくれなかった。さらに、早口に語る。「そうやって死を選ぼうとする少年少女、…やっぱり若い子供が圧倒的に多いみたいね。大人になると色々と諦めることが多くなるっていうけど、自殺もその内の1つなのかしら。憧れのスポーツ選手と同じように、自殺を夢見るのを諦めるようになる」
自殺することが、将来の夢と並べられるのを、少年は初めて聞いた。
少女はいったん区切って、もったいぶるような間を開けた。少年は何も言わない。だから少女はまた続ける。「それってつまり、今の社会が悪いのよ」
少女が何を言っているのか。少年は上手く脳を働かすことができずにいる。かろうじて呟いたのは、授業で誰もが習う、ありきたりでわかりきった道徳だった。
「死期を迎えることこそが、生涯における最大の幸福だ」少女の祖母もうれしそうに死へ足を運んだのだろう。きっと、遺体は優しい表情のものだったはずだ。「だからそれまでにおれたちは生き続ける。それだけだ」
「死ぬ瞬間こそしあわせ。まるでもう疲れなくていいと喜ぶみたいに、ね」少女の解釈はてんで常識外れだ。そして今を生き死んでいった人たちに対して、あまりにも冒涜的だった。「これじゃあ、『死ぬために生きる世界』だって思わない?」
だんだんと少女の言いたいことが分かってきた。はじめにこう言っていた。『反社会的少年なアンタだからこそ』。その発言の意図するところは、つまり。
「おい、お前」少年の声音は冷たい。「何考えてんだ?」
「何考えてるって、決まってるでしょ」
何も決まっちゃいない。そう突っ込もうとしたが、真剣そのものの少女の前では口にできなかった。そんな少年をよそに、少女は語り続ける。押し隠しきれていない憤慨が、彼女の決意の語りから漏れる。
「自殺する人間は自分の命を軽く見てるって、エラそうな人間が話してたことあるでしょ?でも違う。命が軽く見られるのは、この世界のせいよ。『みんな一つの生き物』なんて唱えるから個々を個々として認められない。個人として扱われ個性を認識される機会が少なくなる。こんなの、ディストピアよ。きっと昔の、死期が一人ひとり自由で勝手で、個人を個人として認めていた時代なら、自殺なんて起こす人いやしないのよ」
少女は見たこともない時代を語った。少年にはそんな過去の状況は全く想像できない。『脳』内で手に入る情報は膨大だが、昔の人間がどういう思いで生きていたかなんて情報はなかった。授業で学んだ内容が、子供が想像するための欠片ですべてだ。
なのに少女は断言する。少女が語る時代こそが、人々が本来慈しむ社会であるように。そんな社会は、過去か未来にあるもので、今には存在しない。「だから、今の社会は間違っている」
周りはみんな納得して受け入れているのに、未来へ受け継がせようとしているのに、なのに少女は納得していない。
「創らないといけないのよ」
創らないと。それは、「…なにを」
「世界を!」
人は奪われた何かが、あたかもかけがえのない大切なものであったかのように振る舞う。
そして奪い返すために、あるいは塗りつぶすために、新たな価値観や法が創造される。
人間が何もしなくても生き延びられるようになって、そのくらいしか人間のやることなんて残らなかった。いや、それだけこそ、人間に残ったものだと言えるかもしれない。
時間と共に流れ遷り変る人間は、どうしても受け取るだけでは生きていけなくなる。『知る』だけでは日々を歩いていけない。求めるものの代償として創造は続いて行く。変わり続ける世界と異なりそれだけは、人が根付く限り呼吸し続けるのだ。




