3.
次の日。ぼくはある一大決心をして早くに学校に来た。5年2組の教室はまだまばらに数人いるだけだ。朝の会が始まるまでまだ三十分ある。ぼくは席に座り、時間がたつのをただ待つ。
こういう暇なときいつもなら、『脳』にアクセスして情報を『知る』作業を始める。少しの待機時間もそうして潰す。でも今日はそれをしなかった。どうやって決心したことを実行に移すか、ただひたすら考えていた。その作業には『脳』の方は必要なかった。
少しずつ人が多くなり、心臓の音がどくどく強くなる。長いような短いような時間が過ぎていき、そしてついに、行動に移す時が来た。
その瞬間、教室の中の雰囲気が少し変わる。皆が教室の入り口を見て、笑顔で声をかける。たった今教室に着いた女の子のところへ、何人かの女子がさらに話をするために近づく。
優生さんが登校してきたのだ。
体を正面に向けたまま、目だけ動かして優生さんの方を見た。優生さんはしばらく集まってきた女子とにこやかに話をしてから、ぼくの隣の席に向かっていく。途中で通り過ぎる他のクラスメイトたちにも笑顔で挨拶し、相手もまた微笑んでそれを返す。そして、たどり着いた優生さんの机にかばんを置く――その動作よりも前に、
「お、おはよう…」
その動作よりも前に、ぼくは優生さんに声をかけた。自分で想像していたよりずいぶんかすれた、ずいぶん小さな声になった。
それははじめての、ぼくからの挨拶だった。
昨日までは優生さんから挨拶をしてぼくが生返事を返すだけのものだった。でも、今日はぼくから挨拶をしたいと思った。よくわからないがそんな気分で、昨日の夜からそんな気分だったので、優生さんがかばんを置くより前に声をかけたのだ。
優生さんはきょとんとした顔を作った。それから、ひまわりが咲いたような――やけに時間がゆっくりに流れた気がした――満開な笑顔になり、ぼくに挨拶を返した。
「うん! おはよう、当真くん!」
そのとき、クラスの皆はぼくの方を見てなかった。見ていたとしても別に特に変わらない光景だと思っただろう。でもぼくにとってその瞬間は、いつもと全く違う、喉がカラカラするようなものだった。そして優生さんも、今までと少し違うやりとりだとわかったはずだ。それが無性に嬉しく感じた。
あの放課後から6日、優生さんに挨拶した日からは5日間がたつ。彼女はいつも通りに笑顔で日々を過ごしていく。ぼくの方はあの日以降も「おはよう」を言っているが、それだけだ。「それだけ」と思うことはつまり、「それだけ」じゃないことをしたいと、ぼくが思っているということだった。「それだけ」じゃないこととは、例えばこういうことだ。
もっと優生さんのことを知りたい。
もっと優生さんにぼくの知っていることをたくさん知ってほしい。
もっと優生さんと、話がしたい。
今まで、こんなことを思ったことはなかったような気がする。恥ずかしくもあるし、それを超える「こうしたい」がぐるぐる渦巻いていて困惑したこともある。そのせいでここ数日は、全然『脳』を使った情報閲覧ができていない。ちっともそれどころじゃなかくて、ちっともやる気になれなかった。
常に誰かに囲まれている優生さんと話す機会はなかなか巡ってこなかった。それに、たくさんの人の前で優生さんに話しかけるのがなんだかすごく気恥ずかしく感じて、実行に移せなかった。けれど今日こそ、ぼくは一掴みの勇気を振り絞る。五時間目の授業が終わり放課後になった瞬間、挨拶したあの日のように、優生さんに声をかけた。
「…ゆ、優生さん」
「? なあに、当真くん」
優生さんは微笑む。ぼくはこぶしを握りしめ、叫ぶように言った。
「今から、ちょっと外で遊ばない!?」
「え?」
「ここから歩いた先に、海岸があるんだ。それで、優生さん、まえに『脳』に興味持ってたでしょう。そこへ行く道を、『脳』でみつけたんだ。だから…」いや違う、なにが「だから」だ。文と文がつながっていない。こんなとんちんかんな説明をするつもりはなかった。脳内で予行練習した時は、こんなにわけのわからない台詞になんてならなかったのに!
「そう、だから、」1つ息を吸う。「今から一緒に海を見に行かない?」
言い終えて肩から荷が落ちたような安心感がうまれる。しかしすぐにそれは不安へと変わる。優生さんはまだ驚いた顔を作っていた。ぼくはあわてて取り繕う。
「いや、忙しかったり、用事があるんだったら別にいいんだ。また今度、」言葉を飲み込む。今度なら行けるわけでもない。優生さんが行きたくなかったら、ひたすら迷惑な申し出だから。
「いいよ、当真くん」
優生さんがかすかに笑った。ふふ、と声を漏らしてから、さらに大きな、目が離せないような笑みを作る。
「私も、行ってみたい、海!」
学校から出て五分は過ぎた。ぼくと優生さんは横に並んで、ただひたすら歩いている。出発から約二〇分で海に着くはずだ。幼いぼくらの歩幅の影響でもう少し遅くなるかもしれない。
教室での誘いのあと、ぼくらはすぐに学校を出た。クラスメイトは驚いたような表情を作っていたが、とくに何も言わなかった。彼らが優生さんと話すのは彼女が登校してからお迎えが来るまでだ。それはまるで暗黙の決まりごとのようで、でもぼくはそんな決まりごとを知っちゃあいない。
「わたし、海って初めて見るなあ」突然、優生さんが話しかけてきた。かばんを背負って隣を歩く彼女は、こころなしかわくわくしているように見える。
「ねえ、海って広いんだよね? どのくらいかな?」
問いかけに少し戸惑い、間を取ってちょっとだけでも落ち着いてから、ぼくは答えた。
「説明は難しいけど…。うん、広いよ」『脳』が優生さんにあれば、データを送信できるのだけれど…。まあ今から実物を見に行くのだから、大丈夫だろう。
「広いのかあ。やっぱり広いんだあ。そっかあ」優生さんは正面を向いて呟き、そしてこちらに顔を向けて、再び問いかける。「他には? 当真くんは、海を見たときどう思った?」
「それは…わからない」今度の返答は言い淀む形になった。「実は僕も、実物の海を見たことはないんだ。『脳』で知っていただけ」
ほんとうの言葉だったが、少しだけごまかしが混じっている。それはぼくが「どう思ったか」についてだ。思い返せば、今まで情報として見てきた海に対して、何かを感じたことがあっただろうか。学校からそこそこ近くに海があっても、実際に足を運ぶという発想は生まれなかった。優生さんに見に行こう、と誘ったのだってただの口実だ。優生さんが、おそらく見たことがないだろう場所だから選んだだけだ。他の生徒は海に来たことがある子の方が多いだろう。
「ふふ、じゃあ、楽しみだね」
「うん。楽しみだ」でも、今の言葉は嘘ではなかった。こうして海に向かっていると楽しみになってきたのだ。今まで実物を見たことのないもの。存在を知っているもの。それを見てぼくは何かを思うのだろうか。優生さんは、どんな反応をするのだろう。
会話が途切れて、歩く音ばかり聞こえてくるようになる。この沈黙は歩き始めてからもう何回目かになる。そしてこの沈黙が回ってくるたびに、ぼくは戸惑ってしまう。
なんで静かになってしまうのだろう。なんで黙ってしまうのだろう。ぼくはなにを話せばいいんだろう。話題を考えようとしても上手くまとまらない。そもそもわざわざ話題を考えるということ自体、はじめてだ。ここ最近の僕は生まれたての赤ん坊みたいにはじめて続きだった。
「当真くん、前髪気になるの?」
「え?」
突然優生さんが話しかけてきて、沈黙が破られる。ぼくは驚いて、それから彼女の言葉を脳内で繰り返して、思わず気づかないうちに前髪をいじっていた左手を見る。
「あ…」いやこれは、と言い訳するまえに、
「もしかして、前髪切りすぎちゃったの?」
図星だった。昨日長くなりすぎた前髪を自分で切ろうとして、ずいぶん高い位置になってしまったのだ。およそ眉よりも一センチは上。切ったときはショックで落ち込んだ。今の今まで緊張で忘れてしまっていたのだが。
「当真くんでも、そんなの気にするんだねえ」
優生さんは笑って、自分で切っちゃったのと質問をした。ぼくはそれに、うんと答えた。
「そっかあ」優生さんがそう言って、それでこの会話もいったん終わってしまった。またどちらもしゃべらない状態が続く。
――当真くんでも、そんなの気にするんだねえ。
優生さんからは、ぼくがそんなの気にしないひとに見えていたのだろうか。ぼくはどんなひとに見えていたのかと聞いてみたくなる。なっただけだ。実際にはそんなことできやしない。
そのあとも目的地まで、何回かの少し続くだけの会話と何回かの沈黙を繰り返した。優生さんはこちらを見ながら話をしているときも、黙っているとき(横目でこっそり確認した)も、ずっとにこにこしていた。その間、ぼくがどんな表情をしていたかはわからない。
予想していたよりずいぶん長い距離を歩いたような気がしながら、無事に目的地のすぐそこまでたどり着いた。優生さんに、もうすぐそこだよと告げる(今のが、歩き出して初めてぼくからかけた台詞だった)。堤防の向こう、波の音が聞こえてくる方向へ、優生さんが目を向け、ぱあ、と期待がその表情に出る。本当に素直な子だ。
海は昔よりも少し『おとなしくした』らしいとのことだった(やっぱり兄さん情報)が、それでもずいぶん広くて、なんだか大きい。鼻を突く、けれど嫌悪は不思議と沸かない匂いが強くなってきた。これが潮のにおいね、と優生さんは微笑む。
そして歩いてコンクリートを登った先にあったのは――広く大きく、そして暗い色の自然だった。足場の真下が海になっている。この土地は海を埋め立てて作られたものなので、砂場はない。まるで断崖絶壁のようだ。海より上に視線を向けると、橙に染まりつつ空が広がっている。空は海よりも大きく見えた。海に飲み込まれる太陽が彩り、きれいな色をしている空。
けれど、海はぼくが思っていたよりもずいぶん冷たくて深い色をしていた。知っていたはずなのに、ここに実際に来てみると全然知らなかったのだと思い直される。なにもかも飲み込んでしまいそう。太陽すらその身に飲み込むのだから、当たり前のことかもしれない。波の音。自然の音。生きているなにかの音。
「すごいなぁ」ぽつりと、ささやきの声。ずいぶん小さな呟きだった。
横を見ると、優生さんは断崖絶壁のでっぱりの上に肘を乗せ、その上に顔を乗せていた。目線は海か、空か、あるいは両方だろうか。まるで懐かしむように、慈しむように、目の前の自然を眺めている。いつもの微笑みに、どこか大人のようなものが隠れている。
優生さんにしてはずいぶん小さな音量の声だった。そしてその小ささのまま、呟きは続く。
きれいな微笑みのまま、ささやく。
「生きてるって、すごい」
その瞬間、何故だかひどくどきりとしてしまった。首の後ろがひやっとするような感覚。見てはいけないものを見てしまったような。聞いてはいけない言葉を聞いてしまったような。
優生さんはきれいな微笑みのままだ。何を考えているのだろう。何を思って、今の言葉を口にしたのだろうか。
「すごいもの、まだたくさんあるよ」触れてはいけないところに、割り込むように入っていったものがあった。僕の声だった。
何故急にそんなことを言ったのかはわからない。優生さんが、ゆっくりとぼくの方へ顔を向ける。その様子を見て、どこからか来たのかわからない安心感が僕を包む。ひどくほっとした気持ちになる。けれどまだ緊張は細く続く。首の後ろが冷たい。言葉を思うままに続ける。
「明日も見よう。別のものを、見に行こう」
優生さんはきれいな微笑みじゃなくなっていた。目を少し見開き、ぼくの言葉に驚いている。
「明日? 明日も?」
うん、とぼくはうなずいた。
「優生さんには『脳』がないから知らないこともきっと多いよ。学校が終わったら、そういうものを見に行こう。明日も。明後日も」
勢いに任せた誘いだった。
静寂が降りる。波の音が聞こえる。優生さんはこちらを見ている。いや、ぼくを見ているというより、呆けているみたいだった。
何秒、何分間待ったかわからない。
うん、と優生さんがうなずいた。
夕日に照らされた、にこやかな顔を作る。そこでやっと、ぼくの緊張がとけた。
「約束ね、当真くん」
いつもより微笑みに茶目っ気が混じっている気がする。大切な約束を待っている子供のような表情だ。さきほどの大人の表情とは真逆に近かった。そんな優生さんを見つめて、ぼくはぼくの精一杯の大声で返す。
「うん。約束だ」
このとき自分がどんな表情をしているかは、本当に想像できなかった。




