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5年2組の家畜少女  作者: 日隈一角
2/6

2.

「当真くん。この消しゴム、当真くんの?」

 はっとして目の前を見ると、優生さんが立っていた。席に座ったままの僕を机越しに正面から見つめている。差し出されたその手には、ぼくの小さな消しゴムがあった。慌ててその手からいつの間にか落としたらしいそれをひったくる。「あ、ありがとう」

 優生さんはどういたしまして、とにこりと笑った。外はすっかり夕方で、橙色の空が窓から見える。教室の中はいつもより暗くて、ぼくと優生さん以外誰もいなかった。もう帰らないといけない時間だ。情報の海に埋もれて、うっかり時間がたつのを忘れてしまっていたようだ。

「教室に忘れ物取りに来たらね、まだ当真くんがいてびっくりした」優生さんはいつもどおりにこにこしている。「ねえ、当真くんって、いつも何してるの?」

「何って?」

「いっつも、ひとりでじっと座ってるから」

 優生さんは自分の席に座り、隣の僕の席へ体ごと向く。どうやらぼくとおしゃべりを続けようとしているらしかった。といっても最初に自己紹介して以降、ぼくは朝の挨拶くらいしかしていない。しかもそれだって、優生さんの挨拶に生返事を返しているだけだ。

「それでね、当真くんはぼーっとしてるわけでもなかったでしょう? すごく真剣ってわけでもなかったけど。気になるなって」

「いや、多分ぼーっとしてると思うよ。さっきものめりこみすぎちゃったみたいだし…」

「のめりこみ」優生さんが呟く。そしてまた質問。「何に?」

「情報を『知る』こと」正直に答えた。別に他人に隠すようなことをしているわけではない。誇るようなことでもないのだけれど。ようするに、ただの娯楽なのだし。ぼくは、基本的に休み時間や放課後をそうやって過ごすことが多い。クラスメイトはといえば、あまり『脳』をそういうことには使わないらしい。彼らにとっては面倒くさいものであるようだ。

 優生さんはぼくの返答に対して不思議そうな顔をしていた。そういえばこういう表情はあまり見たことなかったな。別に大して注意してみていたわけでもないけど。そんなことを思いながら、ぼくはぼくの答えに解説を付けた。

「この…『脳』の中にアクセスして」両の耳元に触れながらしゃべる。誰かに何かを説明するのはすごく苦手だ。手探りのように話すしかない。「与えられているニュースじゃなくて、個人じゃない方の、社会の方のデータの塊に入るんだ。それで、いろんな情報を『知る』」

 かなり拙い、しどろもどろの説明になってしまった。けれど優生さんはさっきよりも合点がいったかのような顔をしている。

「そっか。その『脳』のことは知ってたけど…、そうやって使うんだね。学んだけど、付けたことはなかったから、思い当らなかったなあ」

 どうして付けたことがないの、とは聞かなかった。たぶん本人も知らないのだろう。そういうことを決めるのは彼女じゃなくて、大事なことを決める大人たちだ。ぼくも優生さんも知らないことである。ぼくの『脳』で一度探ってみたことがあるけれどたどり着けなかった。子供に与えられるデータは膨大だけれど、それでも大人より大分欠けている。

「ねえ、じゃあさ」優生さんが急に身を乗り出してきた。ぼくはびっくりして目をそらす。人と目を合わせるのは苦手なのだ。

「その『脳』を使っていろんなことを勉強するのってどんな感じ?」

「勉強じゃない。ぼくは『知る』だけだよ」

「ふうん?」

 優生さんはちょっと納得がいかないような顔をした。けれどぼくは、そのことについて譲るつもりはない。ぼくは本当に、情報を『知る』だけだから。学ぶわけじゃないし、身に着けて自分のものにするわけでもない。情報について何かを自分なりに考えるわけじゃない。上辺をなぞるだけで、ぼく自身がどう思うかは考えない。ぼくは自他ともに認める受身的な性格の人間なのだ。それはぼくが知っている限り、最も大きなぼくの短所だ。大体『勉強』ならこんなに時間を費やしているのだから、もっと成績が上がってもいいはずだ。ぼくのテスト結果はクラスの真ん中より下の点数をずっとうろうろしていた。

「えーと、じゃあ『脳』を使っていろいろなことを『知る』のって、どんな感じ?」

「…どんな感じって」

「いつもやるほど夢中になるものなのかなって」優生さんはいつもの笑顔に戻っていた。「わたしはやれないからわからないけど、面白い? 楽しい? それは、好きなこと?」

「べつに、好きってわけじゃ、ないよ…」

「じゃあ、なんでいつもやるの?」

「好きってわけじゃないけど」言葉を探す。やっぱりこういうのは苦手だ。情報をいつも受け取るだけで、自分がどう思うかなんて考えないせいだろうか。

 少し間が空いた。優生さんをちらりと見ると、こちらの返答を見つめながら待っている。多分、ぼくがなにかを返さないとこの問答は終わらない。「好きってわけじゃないけど…」仕方がないからまた言葉を探す。こんな思考のやり方は、ずいぶん久しぶりだ。

「そこに入ると、たくさん、いろんな情報を『知る』ことができるんだ。本当にたくさん。ずっと昔の今とは違う文化とか、だれかが置いて行った物語とか」

『脳』を介してたどり着く場所は、いわば情報の海だ。本格的に調べたり自ら何かを海に残すのなら、兄さんが使うかのような画面や他の機器をもってこなければいけないのだが、ぼくの場合はそこまでする必要はない。情報の上辺をなぞるだけだから。

「情報たちは、どんどん変わるんだ。それも毎日、いや、1秒ごとに」

 横目で優生さんを見る。相槌を打っている。そして、続きを促す瞳。だからぼくはまだ言葉を生み出す。まるで絞り出すかのように。ふわふわしてた意識から、かたちになるものを探すかのように。かたちになるものが、あるかどうかは分からないけれど。

「そうやって新しく変わっていくのは、誰かが創っていっているから。僕以外の誰かが」ぼくはひたすら受け取るだけだ。それでも全ての情報には、量が圧倒的すぎてちっとも届かない。

「そういうのを感じていると、なんだか」僕以外の誰かが世界を作っている。つまり、「世界は楽しんでいるんだなって」まるで羨むような口調になっていく。

「うん」優生さんはやっぱりぼくの答えを待っている。

「そう。だから…」

 息を吐いてまた吸い込む。緊張している? ぼくが? どうして。

「ぼくが何もしなくても、世界はみんなで楽しんでいるから」あれ。こんなこと普段考えてたかな。自分の言葉が自分でよくわからない。「それを眺めるのは、嫌いではない、と…」なんだかわけがわからなくなってきた。「思う、よ」

 語尾がうやむやになって、ちいさな声になってしまう。なのに誰もいない教室だから、うやむやなままの声がちゃんと耳に届く。

恥ずかしい。何に対してだろう。言い淀んだ声がよく聞こえるからか、それともぼくがしゃべった内容そのものか。

 しばらく静かなままだった。ぼくは目をそらしてうつむいたまま。ふと、両手を握りしめていたことに気づいた。そっと開くと汗をかいている。

「そっか」優生さんの声。鈴が鳴るようなよく響く声。思わず頭を上げると優生さんと目が合う。何かを考えるように、うんうんとうなずき、――そしてとびきりの笑顔。

「じゃあ、当真くんはいろんなことを『知る』のが、好きなんだね」

「好き?」そうは言ってない。嫌いじゃない、とは言ったけど。「別に好きってわけじゃあ…」

「だって、好きじゃなかったらそんなにいつもやらないと思うし、きっと当真くんが言ったみたいなこと思いつかない」彼女は己の考えに納得するように腕組みをして、「やっぱり、好きで『娯楽』やってるんだと思うよ」こちらに笑いかける。

「…そうかなあ」

「きっとそうだよ!」

 目を輝かせて今度は握りこぶしを作る優生さん。何でそんなに嬉しそうなんだろう。優生さんのことじゃない、他人のことなのに。

 不思議だった。優生さんが。

 不思議だから、知りたいと思った。内側から勝手に要求が渦巻く。もっと知りたい。

「どうして」小さな掠れたぼくの声。

「うん?」首をかしげる優生さん。

「どうして、そう思いたいの?」思わず出てしまった言葉だった。そういえば誰かに対して疑問を口にしたことなんて、ずいぶんとなかった気がする。

「だってね、当真くん」優生さんは笑う。やっぱりうれしそうに、とびきりの笑顔で答える。「『嫌い』より『好き』のほうが、わたしは好きなんだよ」

 嫌いより、好きの方が。すごく単純な言葉だった。なのに。

 そんなの。そんなの、考えたことがなかった。

「…なんだあ」ぼくは思わず口元を押さえて横を向いた。口元が緩む。なんだか嬉しかった。なにかに対して嬉しかった。

「結局、優生さんの好みの問題じゃあないか」

「うーん、まあそうだけど…そっちのほうが素敵なんじゃないかって」

 教室は気づけばさらに暗くなっていた。それでもまだ夕日が入っている。橙色。彼女の顔がちゃんと見えている。ぼくに「嫌いじゃない」じゃなくて「好き」を言わせようと思い悩んでいる。アクションや表情が大げさすぎるわけではないけれど、ぼくよりかはずっと幅がある優生さんの、視線を外して悩んでいる横顔。

 夕日が何故かよく似合う。でも朝日でも炎天下でも月明かりでもそんなことを思うかもしれない。このまま見続けていたい。優生さんが帰りのことを言い出さないから、本当にそうしてしまいそうだった。

 そろそろ帰ろう、とぼくは言った。あわてて優生さんがそうだね、と立ち上がる。そのまま玄関まで一緒に歩いて、他愛のない話をした。少しの間だったけれど、今度はぼくが聞き側に回った。お迎えが来るらしい彼女は下駄箱のところでぼくと別れた。ばいばい、と手を振って、「また明日ね」と優生さんは笑った。「また明日」とぼくも返した。もしかすると少し笑っていたかもしれない。


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