1.
未来の人間社会では、今とは異なる倫理観を持っており、また過去の倫理観を忘れず学ぼうとする世界である。主人公である小学5年生の当真命は、ある日、天真爛漫で純粋無垢な転校生の優生あいと出会う。彼女は、過去を学ぶために作られた「家畜少女」だった。彼は優生あいと共に学校生活を送るうちに、無意識に彼女に惹かれていく。
これは、少年と少女のお話。わかりきった結末の、ただそれだけの話。
「今日は、みんなの新しい仲間を紹介します」
いつもの5年2組で、いつもの朝の会の、いつもの先生の違う第一声。そしてドアのところから、ひとりの女の子が歩いてきた。
彼女は文字ボードの真ん中で止まり、緊張した面持ちで教室を眺める。黒い髪を下の方で二つに結んでいる。周りと同じくらいの年恰好。周りと同じような普通の女の子。ぼくら5年2組の生徒は、彼女がどういう存在であるかを事前に知っていた。転校生。女の子。最大の情報は、彼女が普通の人間ではないことだ。
「『家畜少女』の、優生あいです。よろしくおねがいします」
ぺこりとお辞儀をしたあと拍手が鳴り響く。ほっとした様子の彼女、もとい優生さんに、先生が空いている席を説明した。優生さんが座った席はぼくの隣だった。
1時間目が始まるまで、いつものように『脳』で時間つぶしをしようとすると、優生さんがこちらを向いて話しかけてきた。「よろしくね、えっと…」ぼくは答える。「当真命です」言ってから言葉が足りないことに気づいて付け足す。「よろしく」
優生さんはぱあっと咲いたような笑顔になった。「うん! よろしくね!」そしてそのまま、反対側の隣の席にも挨拶をし始めた。
今日から1ヵ月間をクラスみんなが優生さんと過ごすことは、前々から聞かされていた、毎年恒例の行事だ。5年生になって丸5か月後に、1クラスに1人家畜少女が転校してくる。彼あるいは彼女と接するのは1ヵ月間だけ。彼らは、過去の倫理観を学ぶためだけに作られた存在である。
「おまえの学年さ、今日家畜少女入ったんだって?」
学校から帰ってきて、兄さんの部屋に入った僕に、兄さんは唐突に尋ねてきた。僕自身はそんな話を兄さんにはしていなかったのに、なぜ知っているのだろう。――いや、そういえば兄さんには時間が余りまくっている。僕を介さなくても、そのくらいの情報は一人で手に入れることができる。
「で、どんな奴?」
「なんか…普通って感じ。女の子だった」
「へえ」それだけで兄さんの興味は尽きたらしい。会話はそこで打ち切られた。
そのとき下の階から母さんの声がした。「命、もうすぐごはんにするから、降りてきなさい」
夕食では父さんと母さんに家畜少女の話をした。二人とも懐かしそうに笑った。「父さんたちが子供のころも、同じ行事があったんだぞ」父さんが自慢するように言った。3人分のパスタがのった大皿はみるみるうちに空になった。ぼくらはごちそうさまをした。
かつては昔、世の中には動物というものが人類以外にも存在した。人間たちはそれら動物を様々なことに使用した。その中で最も特徴的なのが、生きている動物を殺して食料とすること、つまりは屠畜と呼ばれる行為だ。
屠畜に対して過去には色々な文化で意見があったらしいけど(兄曰く、動物愛護とやらも発生した)、現在、最も主となる考察とされるのは、『命を食べる』という発想だ。
『命を食べる』ということを、今の人間はなかなか理解できないという。何故なら屠畜行為自体、昔に置いて行った文化であるからだ。
いつ頃からか人間は、生きている動物ではなく、始めからその形で造る合成肉の方を多く摂っていくようになった。世間一般では、人類以外の動物がどんどん環境に適応できなくなったことが合成肉主流へ舵をきらせたと言われている。つられて合成肉の味が研究の積み重ねによって昔の普通の肉より良くなったとか、合成肉を批判していた団体が廃れていったとか、そんな理由もまあ後押しになったのだろう。
ともかく今は、合成肉が主流になった時代の人しかもう生き残っていない。ぼくらは、『命を食べる』という倫理観を知らない。意識しなくても生きていける。だがそれでは駄目だと、色んな大人が異論を唱えたらしい。 ――人類が人類として生きてきた大切な価値観や道徳観を、私たちは必要なくなったからと言って、忘れてしまってはいけない、と。それは私たちが忘れてはならないことだ、と。
そのための、家畜少女実習だ。
ぼくらにとって唯一の身の回りの動物である人類を、家畜として育て上げて実習に用いる。それら特別な人類を、通称『家畜少女』と呼ぶ。子供たちは教室で一か月間家畜少女に接し、仲良くなり、家畜少女を愛して、家畜少女を殺して食べる。すなわち『命を食べる』のだ。
本来必要とされない屠畜行為を実践することで、人が人として生きてきた倫理観を忘れないよう大切にすることが、家畜少女実習の大きなテーマだ。
「おはよう、当真くん」
朝から元気な優生さんの声。ぼくが「うん」と適当に頷くと、優生さんはそれで満足して別の子へ挨拶しに行った。優生さんの周りはいつも、彼女が作った友達で溢れている。
5年2組の生徒が、家畜少女と過ごし始めてから1週間たった。日々をのびのびと過ごす優生さんは、近くで見ても普通の子だ。ただはっきりと、普通の子との違いがあった。
ひとつ。額にある、ピンク色のニコニコ笑顔のハートマーク。以前クラスメイトがそれは何だと聞いて、家畜少女である印だと優生さんは照れながら、誇らしげに答えていた。そのマークをまるで1番目立たせるように、優生さんはピンクの髪留めで前髪を両端に留めている。
ふたつ。優生さんには耳元に『脳』がない。ぼくら子供も大人も義務で付けなければならない、頭の中の脳の役割を拡大させる装置なのに。『脳』は、人間にはじめから入っている脳では不可能なほどの膨大な情報を受信しまとめることができる。ぼくらは『脳』を使って、いつでも情報のプールに潜ることができる。確か三歳のときにはもう付けなければならないもののはずだ。朝と夕方の定刻通りにニュースが『脳』に入り、僕らは一瞬でそれらすべての存在を『知る』ことができる。これは頭の中の脳ではできないことだと、学校でも教わった。『脳』はニュース以外にもやろうと思えば様々な情報を瞬時に把握して知ることができるもので、生活にはかかせない装置となっている。故に装着が義務付けられているし、子供は持て余し気味でも大人は便利に扱っている。しかし優生さんの耳元には『脳』はどこにもなかった。ぼくらと少し勝手が違うのだろうか。ちなみに『脳』のほうは、少なくともぼくが教室にいるときにはだれも優生さんに尋ねていなかった。
優生さんは基本的によく笑う子だ。いつも笑顔でいることが多い。クラスで見たところ、困った顔や悲しそうな顔は見かけたことがない。そしてみんな優生さんに親切だった。
今より少し昔に、世界は『平和』になった。『平和』とは本当にそのままの意味で、今生きる時代は、ぼくら人間にとって考えられる危険を全て回避したのだ。学校で歴史の話になるたび、先生はぼくらの生きる時代を誇らしげに褒め称える。このような功績は、昔ではおとぎ話のようなものだった、本当に夢みたいな話だった、と。
戦争から環境問題までまるまる解決し尽くして、世界は満足したかのようにゆるやかに日常だけを流すようになった。
労働問題は、数ある問題の中でも早くに解決したものだ。人間ではなく機械にやらせる範囲が時と共に増え続け、今や人間は働かなくても生活できる。ぼくには当たり前で毎日確認している事柄は、時代によっては考えられないものだ。
そう、働かなくても生きていける。
ぼんやりと天井を見る。兄さんの好みなのか、明かりは青い色で薄暗い。今、僕は兄さんの部屋に立っている。働くことを完全に放棄した兄さんの部屋。
ぼくの兄は、五年前くらいから学校も行かずにただ一人で部屋にこもっている。けれどそのことについて文句をいう人間はいない。父さんと母さんはそんな兄さんを受け入れてそのままにしている。ぼくもそんな兄さんに納得して、わざわざ関わろうとはしない。ぼくが兄さんと会うのは一日一回くらいだけ。学校から帰ってきて、なんとなく兄さんの部屋に寄るのが日課になっている。ぼくにも兄さんにも、別に何か目的があるわけじゃない。来なくなっても、きっと兄さんは何とも思わない。
「労働問題の解決によって、もう働くことに対する問題は出ないだろう。大昔じゃなくて良かったぜ」兄さんが、唐突に喋りだした。毎日ではないけれどたまにこういうことがある。視線は画面に向けたまま、「そもそも昔の労働問題は、平和になる少し前みたいな人数不足によるもんじゃねえしな」
兄さんは今日も、『脳』と機械の組み合わせたものの前に座って、多数の画面を移り変えていく。情報は表示されている画面のものだけではない。兄さんの『脳』から直接読み取っているものもある。むしろデータ量はこちらの方が多いだろう。年齢制限や付属機器の差も考えて、ぼくが読み取れる情報量とは天と地の差がある。ぼくだって暇なときは大抵情報収集しているが、ほぼ一日中な兄さんほどの量じゃない。
「ともかくそんな問題も終わった。働いている人間に対して働いていない人間の割合が結構な量になっちまったし、働いてるやつらの労働時間だって昔に比べて随分短い。人類は人類の労働力を必要としなくなった。これが、人類が救った世界での新たな決まりごとだ」
そして兄さんが収集したデータを垂れ流す相手はぼくしか存在しない。兄さんは背を向けたまま、おそらくぼくに対して語る。
「人類は人類にとっての世界を救い尽くした。だから、人類にやらなければいけないことなんて本当はどこにも残ってない。それなら人類は、今更何をやればいいんだって話だ」
締めくくって、兄さんの借り物長口上は止まった。待ってみても静かなので終わりだということだろう。ぼくは適当に「そうだね」と言って背を向けた。黙って部屋を出て、丁寧にドアを閉じる。兄さんも何も言わない。
直後、廊下の光がまぶしく感じた。なんで兄さんは部屋を薄暗くしてしまうのだろう。ぼく自身の部屋へ移動する間、ぼくは兄さんが語った思想――もとい、どこかの誰かの思想について考えてみた。
『人類にやらなければいけないことなんて本当はどこにも残ってない。それなら人類は、今更何をやればよいのか?』やらなければいけないことには、昔に思いを馳せることも含まれるのだろうか。家畜少女実習。昔の倫理観を学ぶためのもの。今は関係のない昔のことを『知る』ことは、世界にとってそんなにも重要なのだろうか。やることのなくなった今の時代は、ぼくにはまるで未来が見えない。もはや過去を『知る』ことしか人類のやることが残っていないなら、娯楽だけで生活していけということだろうか。
ベッドにごろりと横になった。枕に埋まりながら、そっと呟く。
「『知る』ことは人間にとって最大の娯楽だ。それ以外の何ものでもないし、それ以上にはなりえない」 教科書に書かれている文章などではない。ただの、ぼく個人の考えである。もしかすると兄さんのように、何処かで見た他人の意見を自分のものにしているだけかもしれないが。
目を閉じて、『脳』に接続する。ぼくの知らないものにあふれている世界が顔を出す。
そしてぼくは今日も娯楽を始める。それ以上のことはやりたくない。情報を眺めていくだけで、ぼくはそれらについて何も思わない。自分の力で何も考えなくて済むことがあまりにも楽すぎて、ついつい甘えてしまう。創造とは程遠い、けれどこれが僕の精一杯だ。




