谷間の青空
「ありがとうございましたぁ」
若干語尾が間延びした店員さんの声に送られて私は持ち帰り弁当屋さんを出て、そのままそのすぐ裏手にあるそのビルのエレベーターに乗る。そしていつものように五階を押す。
あの店員さんは私がこの雑居ビルの住人だと思っているかも知れない。あるいは恋人が……それはないな、こんな私に対してそんな想像を巡らす奴なんていない。
五階にたどり着いた私は、エレベーターの横にある階段で更に上を目指し、階段のとぎれた先、屋上への踊り場に腰をかける。
「今日は唐揚げ弁当っと」
私はそう言いながら弁当の包装を解き、後は黙々とそれを口に運んだ。
この階段に直接つながる五階のテナントは、ずいぶん前に撤退したまま新しいテナントは入っていないので、私は今日も誰にも見つかることなくそれを完食した。私は空になった弁当容器をできるだけ小さく圧し潰しそれをエコバッグに入れると、何事もなかったかのようにまたエレベーターに乗って雑居ビルを出て、駅を目指す。駅のゴミ箱に先ほどの空容器を放り込むと、電車で帰宅する。
「ただいま」
「おかえり。ご飯できてるよ」
「うん」
母の言葉に私はキッチンに入ると、ご飯をお茶碗に盛る。しかし、それは幼児用の茶碗に申し訳程度。さきほど外で食べてきたのだから当然と言えば当然だ。それをダイニングテーブルの自分の席に持って行く。そして、そこに乗せられたおかずにかかったラップをはずして食べる。その間私は無言だ。社会人3年目、食べながらその日のことを喜々として話す子供ではない。
それを見ながら母はため息混じりで私に聞こえるように、
「あんたはそんなに食べる量が少ないのに、何でやせないのかしらね。朝もコーヒーしか飲まないし」
と言う。
「知らない。分かんないから痩せないんだよ」
つっけんどんにそう返す私の声は震えていた。
そして、この母の小言が私にこんな二重夕食を摂らせている原因なのだと言うことをとうの彼女は知らない。
それだけではない、母だけではなく私は、どんな人の前でもほとんど物を食べることができない。かと言って職場で全く物を食べない訳にはいかないので、毎朝コンビニの半分サイズのおにぎりを二つ、握っていって食べている。人前で食べるのは正直それが限度。そして、毎度同じ弁当ではさすがに飽きるので、それ以外にコンビニが2軒、中華総菜屋が一軒。その4軒の持ち帰り弁当のローテーション。それをあの場所で食べる。そういう生活をもう2年も続けている。
どうしてこうなってしまったのか。原因は簡単、毎日繰り返される母の『痩せないね』という言葉が、『食べれば太る→なら食べなきゃいいのに』というように母が言わなくても聞こえてくるようになったのだ。
ただ、彼女がそう言ってくれるのは親だからだということも解っている。他人なら間違っても言わないだろう。たとえ陰で笑っていたとしても……
そして、しまいには、どんなメニューであっても
『あの子はあんな物を食べるから太るんだ』
という声にならない声が聞こえてくるようになってしまい、現在に至る。
私だってこんな二重生活、一刻も早く止めたいと思っている。バカバカしいと自分でも分かっているのはもちろんのこと、毎日の弁当代だってバカにはならない。
だが、今日はと思って朝、持って行くおにぎり以外のご飯を装うとすると、母の顔が『それを食べるのか?』と言っているように映るのだ。もうそうなるとダメで、私はそそくさと食べる努力を止め、コーヒーに逃げてしまう。
でも、あの日、私は、件のビルの下の弁当屋で海苔弁を注文して受け取ろうとしたとき、同世代っぽいその店のアルバイトの子が笑顔で、
「駅前って良いですね。このビルにお住まいなんでしょ」
と言われて思わず受け取った弁当を落としそうになってしまった。確かにエレベーター前の表札を見ていると、テナントがほとんどだが、住居として使っている人もいるようだ。そして続く、
「羨ましいです」
の一言に、私は自分の耳を疑った。
「羨ましい……ですか」
「だって、正社員なんでしょ」
「そうですけど」
確かに正社員ではあるけれど、それがどうしたと言うのだろう。
「この仕事、所詮アルバイトですもん。たくさんシフトを入れればそれなりにもらえますけど、一定しないし、ボーナスもない。安定してないから、怖くてこんな高いとこ借りられませんし」
雲行きがアヤシくなってくると一番最初に斬られるのはやっぱバイトですからと、店員はそう言ってため息をつく。
「けど、この仕事は好きなんですよ。人間食べなきゃ死んじゃうでしょ。私は誰かの命を支えてる、なぁんちゃってね」
でもこれって大げさすぎですねと、店員は舌を出して笑う。その言葉に私は思わず、
「食べていいんですか?」
と聞いていた。
「ええ、食べなきゃ死んじゃいますよ」
すると、店員は不思議そうに首を傾げるとそう言って、そこではっと気づいたように、
「すいませーん、勝手なことばっか言っちゃって。リーダーがいなくて良かった。いたら叱られてたとこです」
「いいえ、そんなことないですよ。お話できてよかったです」
「ホントですか、ああ良かった」
店員は、頭をかきながら、
「ありがとうございました。このお弁当がお姉さんの力になりますように」
と言うと、ペコリと頭を下げた。私も、
「ありがとう」
言って軽く頭を下げると店を出た。いつもはちっとも重さを感じないお弁当がひどく重く感じられた。見られてたんだと思ったらそのまま電車に乗って帰るわけにも行かず、とりあえず5階に上がってはみたものの、食欲はすっかりなくなっていた。それでもさっきの店員の言う、
『食べなきゃ死んじゃいますよ』
言葉に後押しされて、一口、また一口と食べ進めていく。見上げれば、屋上へのドアに上半分だけはめ込まれたガラスの向こうにはビルの谷間にぽっかり浮かんだような小さな青空。
(私、生きてて良いんだよね。それには、食べていいんだよね)
私は泣きながらそのお弁当を完食し、いつもとは違って空の弁当箱を家に持って帰り、家では食べなかった。
そして、それから私は少しずつ人前でものが食べられるようになっていった。
皮肉なことにそうなってからの方が私の体重は少し軽くなり、心も軽くなり、中学時代の同級生の開のプロポーズもすんなり受けることが出来た。
今では小さな娘のためにお菓子を作ることもある。
それでも、建物の隙間に挟まるように貼り付いた青空を見るとき、私はいつでもあのときのことを思い出す。
あの時の私は、生物学上は生きていたけど、心は死んでいたんだと思う。あの店員さんはきっと私のそんな姿に気づいていて声をかけてくれたんじゃないだろうか。
あの日を機にわたしはあのお弁当やさんに足を向けることはなかったし、それでなくても私は今、あの町にすらいない。それに、彼女もいつまでもあのバイトをしているとは思えないし。お礼を言おうにも言えない。
だから私は今日も、谷間の青空に向かって囁く。
-ありがとう、私は今日も元気に生きています-
と。
一見、「おうちでごはん」というこの企画の趣旨に合わないと思われる方もおられるかもしれませんが、こういった理由で『おうちでごはんがたべられない』人も現実にいるのです。
ダイエットを何度も経験している私は、水一杯を飲むのさえ躊躇し、泪を流す人を何人も見て知っています。
本当に食べられない国の方々には失礼極まりないのかも知れないですけど、これも一つの現実として、以前から書きたかったことの一つです。
最後までお付き合いくださった方、ほんとうにありがとうございました。