敵国の王女を人質にしたら、実家にいた頃より健康になってしまいました
敵国の王女を、人質に取った。
ヴァルディス王国外交長官補佐、エドガー・ミルン。三十八歳。胃が弱い。
その私が関わった仕事の中で、これほど簡単な案件はなかった。
最初の十分間は。
国境の峠道で、我が軍がアルヴァート王国の視察団を包囲した。護衛はよく戦ったが、数が違った。
降伏した一行の中に、第一王女セレナ殿下がいらした。
謁見の間に引き出されたセレナ殿下は、泥だらけの外套を着て、目の下にひどい隈をつくっていた。
二十二歳と聞いていたが、もっと疲れて見えた。捕まった恐怖で、一睡もできなかったのだろう。
玉座で、我らがカイ・ヴァルディス陛下が脚を組み替えた。
三十三歳。戦も外交も、まだ大きく負けたことがない。
陛下が黙って見下ろすと、たいていの使節は膝が笑う。
八年仕えている私の膝も、たまに笑う。
「今日から、お前は我が国の人質だ」
低い声だった。広間の空気が、ひとつ冷えた。
「アルヴァートが代価を払うまで、ここから出られると思うな」
「承知しました」
即答だった。
陛下の眉が、わずかに動いた。
「……ずいぶん落ち着いているな」
「それで、何をすればよろしいですか?」
「何もしなくていい」
そのとき初めて、セレナ殿下の顔色が変わった。
「……え?」
「部屋から出るな。命令があるまで待て」
「何も、しなくていい、ですか?」
「そうだ」
「本当に?」
セレナ殿下が、半歩、前に出た。
衛兵が槍を構えかけて、どうしていいか分からない顔で止まった。
人質だと言われたときより、明らかに動揺している。
「殿下」
私は、口を挟んでいた。
「気にするべきは、そこじゃないです」
言ってから、もっとましな言い方がなかったのかと、少し反省した。
*
セレナ殿下の部屋は、北の離宮の二階に用意した。
寝台、机、暖炉、窓がひとつ。扉の外に衛兵が二人。人質用としては、ごく標準的な部屋だ。
世話役には、侍女長のマルガをつけた。
王宮に三十年勤めている。無駄口を叩かない。報告書も短い。
その夜、最初の報告書が届いた。
〈殿下は部屋に入るなり、「ここを、私一人で?」とお尋ねになりました。
はい、とお答えしました。
「夜も?」
はい。
「誰も書類を持ってこない?」
はい。
「すごいですね」
以上です。何がすごいのか、私には分かりませんでした〉
私にも分からなかった。
続けて、夕食の報告。
〈スープ、パン、羊肉の煮込み、根菜、林檎をお出ししました。
殿下は羊肉をひと口召し上がって、しばらく動かなくなりました。
お口に合いませんか、とお尋ねしましたら、
「味がします」
とのことでした。
なお、献立は兵舎の食堂と同じです〉
味がする。
私は報告書を三回読んで、それから伏せた。
何度読んでも、書いてあることは変わらなかった。
*
翌朝の報告書。
〈殿下は朝五時にお目覚めでした。
扉は施錠しておりますので、寝台に腰掛けて、七時までお待ちになっていたようです。
七時に参りますと、殿下は立ち上がって、
「遅刻しました」
と仰いました。
何にですか、とお尋ねしました。
殿下はしばらくお考えになって、
「分かりません」
と仰いました〉
私は窓の外を見た。
いい天気だった。
*
三日目、陛下はセレナ殿下を執務室へ呼んだ。
陛下にとって、人間は役割のついた資源である。兵士も、官僚も、私も。
人質は外交の札だ。帰りたがっている札ほど、相手にはよく効く。
「今日から、許可なくこの離宮を出ることは許さん」
「ありがとうございます」
陛下の羽根ペンが止まった。
「……感謝される理由が分からんが」
「移動がないので」
「それが?」
「馬車の横を、歩かなくてもよいのでしょう?」
執務室が、静かになった。
「……なぜ、王女が、馬車の横を歩く」
「中が書類でいっぱいになりますので」
私は、手帳に何か書こうとして、何を書けばいいか分からなくてやめた。
陛下が、私を見た。
「エドガー」
「……はい」
「もう少し、人質らしい条件を考えろ」
「私がですか」
「お前がだ」
結局、二人で考えた。
午後には、羊皮紙に条件が並んだ。
一つ、離宮からの外出を禁ずる。
一つ、家族との書簡を禁ずる。
一つ、公務に類する一切の作業を禁ずる。
一つ、夜九時以降は消灯とする。
一つ、毎日八時間眠ること。
一つ、食事は一日三回とする。
読み上げを聞いたセレナ殿下は、首を傾げた。
「最後の三つは、罰なのですか?」
「健康管理だ」
「人質なのに?」
「病気になられると、価値が下がる」
「なるほど。合理的ですね」
「そうだろう」
私は、何か言おうとして、口を開けて、閉じた。
二人とも、とても満足そうだった。
*
「家族への手紙は禁止だ」
陛下は、念を押した。
人質を家族から切り離すのは、心を折る基本だ。
「分かりました」
「寂しくないのか」
「父からの手紙は、たいてい仕事です」
「母は」
「三年前に亡くなりました」
陛下は、一拍だけ黙った。
「……兄は」
「仕事です」
「友人は」
セレナ殿下は、考えた。
ほんの一瞬だった。
「秘書官でしょうか」
「…………」
誰も、何も言わなかった。
「贈り物をくれるのは、秘書官だけですので」
「何をもらった」
「羽根ペンです。去年の誕生日に。とても書きやすいです」
陛下は窓の外を見た。
私も、窓の外を見た。
何も言わないほうがいいことも、世の中にはある。
*
窓の外を見終えた陛下は、方針を変えた。
「言うことを聞かなければ、地下牢へ移す」
声が一段、低くなった。
敵の将軍が三人、この声で降伏している。
「地下牢には、書類はありますか」
「ない」
「人は来ますか」
「来ない」
セレナ殿下は、考えた。
「静かそうですね」
陛下は、もう一度、窓の外を見た。
「陛下。脅しの方向を変えましょう」
「どっちにだ」
「……今、考えています」
考えつかなかった。
*
その週、陛下は宮廷医を離宮へ送った。
人質の状態を確認しておけ。価値の確認だ、と陛下は言った。
診察を終えた老医師は、私の執務室で眼鏡を拭いた。
「慢性の睡眠不足。栄養の偏り。首と肩が、板みたいに固い。過労ですな」
「過労」
「ご本人にそう申し上げたら、『過労というのは、病名なのですか』と」
老医師は眼鏡を掛け直した。
「熱が出たらどうしていたのか、と聞いたら、『仕事が少し減ります』だそうで」
「……減るだけですか」
「減るだけだそうです」
老医師は、ふん、と鼻を鳴らした。
「長いこと医者をしておりますが、捕虜になって健康を取り戻す方は、初めて見ましたな」
「まだ捕虜ですが」
「いっそ、そのままのほうがよろしいかもしれませんな」
医者というのは、ときどき、外交官より遠慮がない。
*
その日の午後、私は離宮を訪ねて、直接聞いてみることにした。
「殿下。少し、ご実家の話を伺っても」
「はい」
「普段の朝は」
「五時に起きます。外務局の早馬が五時半に着くので」
「朝食は」
「執務机で」
「昼食は」
「執務机で」
「夕食は」
「会議のある日は会議室で。ない日は執務机で」
私は、紅茶を飲んだ。
「ご自分のお部屋では、休まれるんですよね」
「部屋でも、会議をします。財務の副長官が、朝の着替えの前に来ることがあるので」
「着替えの前に」
「急ぎの日は」
「……休日は」
「休日、というのは」
セレナ殿下は、首を傾げた。
「熱が出た日のことですか?」
私は、空になった茶碗を見た。
受け皿に戻すのに、ちょっと手間取った。
「……今日は、ここまでにしましょう」
「もうよろしいのですか」
「ええ。これ以上聞くと、たぶん、私のほうがもたないので」
セレナ殿下は、不思議そうに私を見ていた。
同じ日、マルガから報告が来た。
〈陛下のご指示で、普段着を三着お届けしました。
殿下は「どの式典用ですか」とお尋ねになりました。
普段着です、とお答えしました。
「普段に、着る服」と、二回繰り返しておられました。
どれをお召しになりますか、とお尋ねしましたら、四半刻ほど迷われて、決められませんでした。
ご自分で服を選ぶのは初めてだそうです。
私が選びました〉
*
五日目、我が国はアルヴァートへ正式に通知を送った。
第一王女セレナ殿下を、捕虜として保護している。
返還の条件は、金貨十万枚。
相場としては控えめだ。陛下は、値切らせる余地を残すのがうまい。
陛下は、その日は機嫌がよかった。
わざわざセレナ殿下を執務室に呼んで、通知を出したことを告げた。怯える顔が見たかったのだと思う。陛下は、そういうところがある。
「これで交渉が始まる」
「払わないと思います」
セレナ殿下は、紅茶を飲みながら言った。
最近は、紅茶を最後まで飲むようになった。最初の三日は、半分残して冷ましていた。
「王女だぞ」
「はい」
「実の娘だろう」
「はい」
「十万くらいは払う」
「賭けますか?」
私は、受け皿を落としかけた。
「…………」
「駄目ですか?」
セレナ殿下が、私を見た。
「……何から説明すればいいのか、考えています」
その間に、陛下が言った。
「何を賭ける」
「陛下」
「もし払わなかったら、図書室を使わせてください」
「いいだろう」
成立した。
私は、何も言わなかった。
もう遅かった。
*
十二日後、アルヴァートから返書が届いた。
国璽の押された、立派な羊皮紙だった。
要点は、一行で足りた。
〈国家財政上、王女一名の返還に金貨十万枚を支払うことはできない〉
陛下は、羊皮紙を二度読んだ。
三度目は、裏返して、何か書いていないか確かめた。何も書いていなかった。
「勝ちました」
セレナ殿下が言った。
明るい声だった。本当に、賭けに勝ったことだけを喜んでいる声だった。
誰も、笑わなかった。
陛下も、私も。窓際の衛兵でさえ、槍を握る指に妙な力が入っていた。
セレナ殿下だけが、図書室の鍵はいつもらえるのだろう、という顔をしていた。
「……殿下」
「はい」
言うことが、見つからなかった。
「……鍵は、明日お持ちします」
「ありがとうございます」
*
「値切りもしないのか」
セレナ殿下が下がったあと、陛下が言った。
「普通は、半額から始めて七万あたりで落ち着きます」
「娘だぞ」
「はい」
翌日、鍵を渡すときに、陛下はもう一度聞いた。
計算の合わないことが、陛下は嫌いだ。
「なぜ、払わないと分かった」
「第一王女ですので」
「それは知っている」
「第二王女もおりますので」
「予備の話はしていない」
「父は、すると思います」
私は、手帳を閉じた。
「……するでしょうね」
陛下が、初めて、敵国の王家に引いた顔をした。
戦場でも、交渉の席でも、見たことのない顔だった。
*
返書から十日ほどして、国境の検問で密書が一通、押収された。
宛先は、セレナ殿下。差出人は、アルヴァートの王太子。兄君だ。
陛下は、封を切らずにセレナ殿下の前へ置いた。
「家族との手紙は禁止だと言ったが。兄からだ。読みたいか」
「仕事ですね」
「なぜ分かる」
「封蝋が、外務局のものなので」
陛下が封を切った。便箋が一枚。
〈本年度予算原簿の写しの所在を知らせよ。至急〉
それだけだった。
妹の安否を尋ねる一文は、どこにもなかった。
「答えるな」
「答えません」
セレナ殿下は、まじめな顔で言った。
「人質ですので」
人質という身分が自分を守ることもあると、本人はたぶん、まったく気づいていなかった。
*
図書室を使うようになって四日目、セレナ殿下に呼ばれた。
五年前に両国が結んだ通商条約の、公開されている写しだった。両国語の対訳になっている。
「この単語、意味が違います」
「どれです」
「ここです。アルヴァート語では『毎年』ではなく、『隔年』です」
外務局から原本を取り寄せて、確かめた。
合っていた。
我が国は二年間、払わなくていい年にまで、関税の調整金を払っていた。
報告を受けた陛下は、セレナ殿下を呼んで聞いた。
「なぜ分かる」
「アルヴァート語版の対訳は、私がやりましたので」
「五年前だぞ」
「十七でした」
陛下と私は、そろって窓の外を見た。
最近、この部屋の窓はよく見られている。
*
そこから先、陛下の質問は止まらなかった。
「王女が、条約の対訳をやるのか」
「やります」
「予算は」
「まとめます」
「使節の日程は」
「私です」
「王室行事は」
「私です」
「旅行は」
「視察です」
「……お前の兄は」
「王太子です」
「陛下は、職務をお聞きになっているのだと思います」
私が言うと、セレナ殿下は、同じことを言った。
「王太子です」
それが答えらしかった。
*
陛下にとって、有能な人間は使える資源だ。
「暇なのだろう」
「はい」
「この書類を整理しろ」
「承知しました」
書類の束を受け取った瞬間、セレナ殿下の背筋がすっと伸びた。
人質になってから、初めて見る姿勢だった。
「陛下。人質に国家業務をさせるんですか」
「能力がある」
「……そういう問題でしょうか」
陛下は、そういう問題だという顔をしていた。
ところが二日後、話がまた噛み合わなくなった。
「夕刻六時までだ」
「なぜです?」
「夕食だからだ」
「食べながらできます」
「食べる時間だ」
「一時間も?」
「食事とはそういうものだ」
セレナ殿下は、ペンを持ったまま陛下を見ていた。
「敵国は、不思議ですね」
「……こっちが不思議扱いですか」
陛下は、六時の鐘が鳴ると、本当に机から書類を取り上げた。
*
七日目には、休日が言い渡された。
官僚と同じく、七日に一度。
翌朝のマルガの報告。
〈殿下は朝七時から、机の前にお座りでした。
書類は陛下のご命令ですべて下げております。
何をなさっているのですか、とお尋ねしましたら、「待機です」とのこと。
何の、とお尋ねしましたら、「休日の業務の指示を」と〉
離宮へ行くと、本当に座っていた。
背筋を伸ばして、両手を膝の上で重ねて。
「殿下。休日に、業務の指示は出ません」
「では、何をすれば」
「何もしなくていいんです」
「それは、人質になった日にも伺いました」
「今日もです」
セレナ殿下は、困ったように窓の外を見た。
「エドガー様は、休日に何を?」
「娘と市場に行って、あとは昼寝を」
「昼寝」
セレナ殿下は、眉を寄せた。
「昼寝は、病人がするものでは」
「健康な人もします」
「……本当に?」
その日の夕方の報告書。
〈殿下は午後二時から五時までお休みになりました。
起こすべきか迷いましたが、先日の医師の指示どおり、そのままにいたしました。
お目覚めになって、たいそう驚いておいででした。
「夕方になっています」と仰いました。
はい、なっております、とお答えしました〉
*
その週のうちに、陛下はセレナ殿下の日課を調べさせた。
我が国には、アルヴァート王宮の内側に一人だけ、かなり深いところの話を寄越す者がいる。
二十日後に届いた報告書を、陛下は執務室で読み上げた。
「五時起床。五時半、外務局の書簡。七時、朝食、執務机。八時、各局長と打ち合わせ。十時、使節の応接。正午、昼食、執務机にて議事録作成――」
陛下は、顔を上げた。
「エドガー」
「はい」
「これは、我が国の人質規定より厳しくないか」
「厳しいです」
「捕虜収容所と比べると」
「……収容所のほうが、休憩が一回多いです」
陛下は、残りを黙って読んだ。
夜十一時、予算の突き合わせ。一時、就寝。休日の欄は、空白。
陛下は報告書を伏せて、羊皮紙に何か書いた。
翌朝、外務局に通達が回ってきた。
〈人質の勤務は一日八時間を上限とする。超えさせた者は処罰する〉
超えさせる可能性があるのは、陛下ご本人だけだった。
「陛下。これは」
「壊れるまで働かせるのは三流だ」
陛下は、書類から目も上げずに言った。
「壊れない範囲で、最大まで使えばいい。資源には保守が要る」
私は、しばらく黙った。
「……言い方はともかく、内容だけは正しいですね」
「言い方も正しい」
正しくはなかった。
ひと月後、外務卿が、セレナ殿下に夜間の翻訳を頼めないかと打診に来た。
南方の使節団が、明朝までに条約草案の対訳を欲しがっていた。
「駄目だ」
「一晩で済む話ですが」
「一晩で済む話は、毎晩頼まれるようになる。アルヴァートがそうだった」
陛下は、ペンを走らせたまま付け足した。
「それに、あれが倒れたら代わりに三人雇うことになる。高くつく」
外務卿は、黙って下がった。
その夜、外務局の翻訳官が三人、徹夜した。
*
人質になって、三か月が過ぎた。
〈殿下は昨夜九時にお休みになり、今朝六時半まで一度も起きられませんでした。
起きて開口一番、「寝すぎました」と仰いましたので、寝すぎではございません、と申し上げました〉
〈本日、殿下は昼食の羊肉の煮込みを「おいしい」と仰いました。
初めてです。料理長に伝えましたら、明日も同じものを出すと申しております〉
〈外套の丈を詰め直しました。肩回りがふっくらされて、合わなくなりましたので。
良いことです〉
〈殿下は本日、夕食を後にすると仰いました。
先に召し上がるよう申し上げました。
五分ほど抵抗なさいました。
私が勝ちました〉
〈殿下にお誕生日を伺いました。
「先週でした」とのことです。
お祝いは、と伺いましたら、「公務でした。毎年そうです」と。
私は、それ以上伺いませんでした〉
最後の一枚は、陛下にも回した。
陛下は一読して、羊皮紙の端に何か書きつけ、私に戻した。
〈来年の当該日は休日とする。資源の保守のため〉
理由の欄は、いつもどおり最低だった。
私はその羊皮紙を、マルガの報告書と一緒に綴じた。
その頃、陛下が執務の合間に言った。
「顔色が戻ったな」
「……お気づきでしたか」
「報告を読めば分かる。夕食の残りも、先月の三分の一だ」
私は、陛下の机の端に積まれた羊皮紙の束を見た。
マルガの報告書だった。私が回した覚えのない日付のものまであった。
「陛下。それ、全部お読みに」
「資源の管理だ」
陛下は、次の一枚をめくった。
ある日の夕方、廊下ですれ違ったセレナ殿下は、どこか得意げに言った。
「監禁生活にも、慣れてきました」
「……健康になっただけです」
セレナ殿下は首を傾げて、行ってしまった。
*
同じ頃から、アルヴァートの噂が、あちこちから届くようになった。
アルヴァート発の書簡が、目に見えて遅くなった。うちの外務局にも、返事が平均十日遅れて届く。
南方二国の使節は、アルヴァートを経由して我が国に来る。その使節たちが、口々にこぼしていった。仲の悪い二国を、同じ日に招かれたこと。迎賓館が一つしかないので、片方が三日間、城下の宿屋に回されたこと。東方の使節団は、宗教上口にできない料理を出されかけたという。給仕長が直前で気づいたらしい。
北方との条約草案は、翻訳の誤りで一条の意味が逆になっていたそうだ。北方の外務官が、署名の前に気づいた。これはうちの外務卿が、北方の外務官から直接聞いてきた。
王太子が自ら外交書簡の返事を書いて、宛名の敬称を間違えた件は、宛てられた国から各国の外務局に照会が回ってきた。うちにも来た。
アルヴァートの官報には、外務局が臨時の書記官を四名採用したと載った。出入りの商人によれば、王宮の夜の灯りの数が、去年の倍だそうだ。
予算の調整期限が三度延びたこと、按分の計算方法を局内で知る者がいないこと、建国祭の宴席表に昨冬亡くなった伯爵の席があったこと、第三書記官が倒れたこと。
これは例の、王宮の内側の一人からだった。
国は、崩れていなかった。
アルヴァートの官僚は有能だ。誰かが気づき、誰かが徹夜し、誰かが頭を下げて、それでも書簡は届き、祭りは開かれていた。
ただ、そのたびに、人と時間と金が余計にかかっていた。
*
半年が経った頃、アルヴァートから二通目の書簡が届いた。
〈人道上の観点から、第一王女セレナの即時返還を要求する〉
陛下は、羊皮紙を机に置いた。
「急に人道が生えたな」
「陛下。それ、返書には書かないでください」
セレナ殿下は、書簡を一読して言った。
「第六書記官が、倒れたのでしょう」
「なぜ分かる」
「私の業務の半分を、渡した方なので」
王宮の内側から届いた、最新の報せをめくった。
〈第六書記官、執務中に倒れ療養〉
書簡が出る四日前の日付だった。
「……次は」
「財務副長官が、三日以内に休暇を申請します」
十日後、その一行が報告書に載った。
申請の日付は、ちょうど三日目だった。
「お前、予言者か」
「勤務表です」
*
ひと月後、国境の砦で、両国の会談が開かれた。
アルヴァート側は、アルヴァート王ご本人が来た。
灰色の髭をきちんと整えた、背の高い人だった。後ろに、妹とよく似た目元の、疲れた顔の王太子が控えていた。
セレナ殿下は、我が国側の通訳として、席の端に座った。
陛下の案だ。私は最後まで反対した。
着席するなり、王太子が身を乗り出した。
「セレナ、予算原簿の写しはどこだ」
アルヴァート王が、息子の袖を強く引いた。
王太子は、はっとして口をつぐんだ。
「人質ですので、お答えできません」
セレナ殿下は、穏やかに言った。
陛下が、机の下で何かを噛み殺した。
アルヴァート王は、咳払いをして、陛下に向き直った。
「娘を返していただきたい」
「金貨十万枚だ」
「……七万なら出す」
半年前には、値切りもしなかった人だった。
「前回は、値切りもなさいませんでしたね」
セレナ殿下が言った。
責める声ではなかった。帳簿の数字の食い違いを指摘するような声だった。
陛下は、机の上で指を組んだ。
「なぜ今になって、返還を求める」
「娘だからだ」
「違います」
セレナ殿下だった。
「セレナ」
「外務局が、回らなくなったのでしょう」
アルヴァート王は、しばらく黙っていた。
それから、テーブルに置いた拳に、目を落とした。
「……お前がいなくなってから、何もかもが遅れている。お前でなければ分からないことが、多すぎる」
声が、低くなった。
「今は、お前が必要なのだ」
それはたぶん、この人が半年間で口にした中で、いちばん本当の言葉だった。
「王女としての、責務だ」
陛下が、静かに聞いた。
「娘としてでは、なく?」
アルヴァート王は、迷わなかった。
「王女としてだ」
砦の会談室が、静まり返った。
私は、一度だけ目を閉じた。
開けると、セレナ殿下は膝の上で手を重ねて、父親を見ていた。表情は、変わっていなかった。
変わっていないことが、こたえた。
陛下が、低い声で、私にだけ聞こえるように言った。
「……あいつ、私よりひどくないか」
「陛下がそれを言いますか」
言ってから、陛下の顔を見た。
陛下は、冗談を言った顔をしていなかった。
*
会談は、その日のうちには終わらなかった。
帰りの馬車で、セレナ殿下はずっと窓の外を見ていた。
国境から王都まで、半日。そのあいだ一度も、書類を開かなかった。
宿場で馬を替えているとき、ぽつりと言った。
「帰りたいかどうかを、考えたことがありませんでした」
「はい」
「帰るものだと、思っていたので」
私は、何も言わなかった。
言わないほうがいいと思った。
*
その夜、私は報告書の整理で、執務室に遅くまで残っていた。
九時を回った頃、扉が叩かれた。
セレナ殿下だった。
消灯はとうに過ぎていた。衛兵が困った顔で後ろに立っていた。
陛下は、まだ机にいた。
人質を九時に寝かせるくせに、自分は夜中まで起きている人だ。
セレナ殿下は、陛下の机の前に立った。
「陛下」
「何だ」
「私は、帰らなくても、よろしいでしょうか」
「お前は人質だ」
「はい」
「私が決める」
セレナ殿下は、そこで口を閉じた。
半年前なら、ここで「はい」と言っていたと思う。
父親の前でも、陛下の前でも、この方はいつも、決めるのは自分ではないという顔で頷いてきた。
燭台の火が、揺れた。
「ではなく」
セレナ殿下は、言った。
「私が、残ることを選んでも、よろしいでしょうか」
私は、ペンを置いた。
陛下は、すぐには答えなかった。
机の書類を見て、セレナ殿下を見て、また書類を見た。陛下が答えに時間をかけるのは、珍しいことだった。
「……働くなら、構わない」
私は、口を開いた。
やめた。
「何だ」
「……いえ。何でもありません」
セレナ殿下は、陛下と私を見比べて、それから深く頭を下げた。
顔を上げたとき、笑っていた。
この国に来てから、初めて見る顔だった。
陛下は、その顔を見ていなかった。
書類を見ていた。ペンは、さっきから一行も進んでいなかった。
*
ひと月後、停戦の条約が結ばれた。
細かい条項は省く。私が三晩寝ずに書いた。
人質の件は、附則で片づいた。
セレナ・アルヴァート殿下は、本人の意思により、ヴァルディス王国に留まる。
身分は、外務局付き外国語文書顧問。
附則の最後の頁に、雇用の条件が並んでいた。
俸給、月に金貨八枚。
勤務、朝九時から夕刻六時。
休日、七日に一日。
職務の範囲、別紙のとおり。
作成した文書には、作成者として本人の名を記す。
本人の申し出により、いつでも辞職できる。
セレナ殿下は、最後まで読んでから顔を上げた。
「辞めることも、できますか?」
「当然だ」
陛下は即答した。
「……不思議な国ですね」
「普通です」
三晩寝ていないので、声がかすれていた。
調印のあと、セレナ殿下が真顔で聞いてきた。
「俸給というのは、何に使うものなのでしょう」
「お好きなものに」
「好きなもの」
外国語の単語を覚えるときみたいに、口の中で転がしていた。
最初の俸給の日、マルガから報告が来た。
〈セレナ様に、市場へはどう行けばよいかと聞かれました。
アルヴァートでも、市場には一度も行かれたことがないそうです。
王都の市場は、視察の馬車の窓から見たことがあるだけ、とのことでした。
ご案内しました。
セレナ様は市場で、林檎を三つお求めになりました。
一つでよろしいのでは、と申し上げましたら、「選べなかったので」とのことです。
三つとも、赤さが違いました。
帰り道、一つを私にくださいました。
いただきました〉
報告書の呼び方が、いつの間にか「殿下」から変わっていた。
マルガは何も言わなかったし、私も聞かなかった。
*
顧問になって最初にセレナ殿下が仕上げたのは、南方との通商協定の対訳だった。
外務局の書式では、末尾に作成者の名を書く欄がある。
セレナ殿下は、清書を終えて、その欄の前でペンを止めた。
しばらく、止まっていた。
それから自分の名前を書いて、書き終えた一行をしばらく眺めて、次の書類を取った。
*
アルヴァートのその後は、例の王宮の内側の一人が知らせてきた。
セレナ殿下が抱えていた主な業務は、新しく置いた四人の官僚に分けられたという。関連する仕事は、もとからいる翻訳官三人と秘書官二人にも振り分けられた。
新しい四人には、正規の俸給が要る。
報せには、王宮の財務会議の一幕が添えてあった。
〈アルヴァート王「こんなに金がかかるのか」
財務官「以前は王女殿下が、無給でなさっておりましたので」
アルヴァート王「……王族なのだから、当然だろう」
財務官「現在、その王族がおりません」〉
アルヴァート王は、その後もときどき、側近にこぼしているらしい。
少しくらい休ませておけばよかった。小遣い程度でも、与えておけばよかった。不満を持たせなければよかった。護衛をもっと付けておけば、人質になどさせずに済んだ。
娘を、と言いかけて、言わないらしい。
王女を、と言い直すらしい。
*
顧問になって二か月。
セレナ殿下は、外務局でいちばん仕事が速い。
そして、いちばん帰るのが下手だ。
最近、六時前になると、陛下が外務局の前を通ることが増えた。
本人は、偶然だと言っている。
ある日、陛下は北方会議で城を空けた。
「今日は、陛下はいらっしゃらないのですか」
五時半ごろ、セレナ殿下が私に聞いた。
「北方会議です。明後日まで」
「そうですか」
それだけだった。
翌朝、マルガの報告書。
〈昨日、セレナ様は夕方、三度ほど廊下をご覧になりました。
ご本人は「時計を確認しただけです」と仰いました。
廊下に時計はございません〉
私は、報告書を伏せた。
そこまでは、私の仕事ではない。
*
陛下が戻った日の夕刻。
六時の鐘が鳴ったとき、セレナ殿下はまだ机で書類を読んでいた。
南方の商人組合から届いた、通商の請願書だった。
陛下が、廊下を通りかかった。
偶然らしい。
「時間だ」
「あと一枚です」
「明日にしろ」
「五分で終わります」
「帰れ」
セレナ殿下が、私を見た。
助けを求める顔だった。半年前には、絶対に見せなかった顔だ。
「殿下。ここは、従ってください」
「……分かりました」
セレナ殿下は、書類を閉じた。
閉じてから、表紙を指で一度だけ撫でた。
それから、少し考えて、言った。
「では、明日」
ごく自然な声だった。
外套を取って、廊下の向こうへ歩いていった。
足音が、軽かった。
机の上の請願書の表紙には、小さな字で、明日の日付が書いてあった。
*
翌朝、マルガの報告書の最後に、一行が足されていた。
〈なお、セレナ様は昨日、六時三分まで仕事をなさっていました。
三分です。
本日、陛下にご報告いたします〉
私は、その報告書を、陛下に回さないことにした。
三分くらいは、いいと思う。
*
その日の夕方、セレナ殿下が帰ったあと、私は陛下に聞いた。
「陛下」
「何だ」
「最近、殿下にずいぶん甘くありませんか」
陛下は、眉を寄せた。
「何を言う。あれは貴重な国家資源だ」
「最後まで、それですか」
「何がだ」
私は、答えるのをやめた。
胃のあたりを押さえて、マルガに頼んで常備してもらっている薬湯の包みを探した。
最近、減りが早い。
(了)




