音が聞こえる
――音が聞こえるんだ
彼はそう言って笑った。
彼に初めて出会ったのは大学に入ってすぐ、四月の半ばだったと思う。必修科目――確か第一外国語か何か――の講義の初回で隣に座った彼が消しゴムを失くし、私が貸して、「コーヒー、オゴります」と彼が言い、「お言葉に甘えて」と私が返した。コーヒーを飲みながら少し話して、それから講義で姿を見かけると声を掛けるようになった。
彼は成績はからっきしだったが、なぜかいつも機嫌がよかった。落ち込んだり、悲しい素振りを見せたことはなかった。講義には出席するが、講義を真面目に受けることはない。講義に使う分厚い教科書に載っている偉人の顔写真にゴリラの身体を書き足してひとりでケラケラと笑ったりしていた。私は彼の横顔を呆れながら眺めていた。
「いつも機嫌がいいよね」
大学の中庭のベンチに座って練乳スティックパンをかじりながら、彼に聞いたことがある。当時、練乳スティックパンは一袋百八円で三本入っていて、私の食生活の生命線だった。彼はマーブルチョコスティックパンを口に詰め込んで飲み下すと、指に付いたチョコを舐めながら言った。マーブルチョコスティックパンは一袋百六十二円だった。
「音が聞こえるんだ」
彼はリズムに乗るように小さく身体を揺らす。イヤホンを付けているわけでもない彼を私は訝しく眺めた。
「……音?」
「そう、音」
彼は笑ってうなずく。私は再び尋ねた。
「なんの?」
「何だろうね?」
歌でもなく、メロディでもない、音。耳の奥にずっと聞こえているその音が、なぜか不安や怖れを取るに足らないものだと言ってくれるように感じるのだと彼は言った。
「幻聴?」
「かもね」
怒るでもなく彼は鼻歌を歌い始める。私は背中に薄ら寒いものを感じて彼の袖を引っ張った。
「病院行きなよ」
「そうだねぇ」
まるで真面目に取り合わない彼を、強くにらんだことを覚えている。
春が過ぎ、夏を通り越して、秋が来た。夏の残り火のような暑さが続いた日の翌日、彼は大学の中庭のベンチに座っていた。前屈みになり、顔を青白くして、彼は震えていた。私は小走りに駆け寄る。
「どうしたの!?」
彼は血走った目で虚空を凝視し、震える唇で答えた。
「音が、聞こえない」
彼は両手で頭を抱えて身を縮める。
「聞こえないんだ。怖い、怖い――!」
彼はガチガチと歯を鳴らした。私は強引に彼の手を取り、強く握った。
「音なんてない! 聞こえなくて当たり前なんだよ!」
彼は顔を上げ、大きく目を見開いて私を見る。
「あの音がなきゃ、僕は、どうやって――!」
かすれた声でそう言って、彼はベンチから立ち上がると、私の手を振り払って駆け出した。私は、追いかけられなかった。ただ、何も分からぬまま、呆然と彼の背を見送った。
その日を境に、彼は大学に姿を現さなくなった。彼のアパートに行ってみたが、そこには誰もおらず、郵便物がはみ出るほどに溜まっていた。彼の消息を知る者は誰もおらず、一年が経ち、アパートの彼の部屋は空き部屋になった。彼が存在した痕跡は、どこにもなくなった。
どうして今になってこんなことを思い出すのだろう。もう三年も前の話だ。ここ最近は彼のことを思い出すこともなかったのに。
ああ、そうか。音だ。彼が言っていた、音。気付いていなかった。今、気付いた。耳の奥に、歌でもない、メロディでもない、微かな鼓動のような音が聞こえる。それは不安を包み、息苦しさを薄める。心地よいぬるま湯に全身を浸すように。
「音が、聞こえる――」
私は空を見上げる。自然と笑みがこぼれた。何も怖くない。そう、きっと、向こう側だって。もし彼に会うことができたら何と言ってやろうか。一番笑えるセリフの候補を考えながら、私は前に一歩を踏み出した。




