「君のためを思って言ってる」が口癖のモラハラ男と婚約解消したら、毎日がとても楽しいです
クラリッサ・リ・エルヴァインは、婚約者である侯爵令息エドガー・フォン・バルシュタインの言葉を、ずっと正しいと思っていた。
彼は一つ年上で、学院でも先輩だった。
家格も上。
将来は侯爵家を継ぐ予定で、社交界にも詳しい。
だから、彼が言うことにはきっと意味がある。
そう信じていた。
「その髪飾り、やめた方がいいよ」
ある日の放課後、エドガーはクラリッサの髪を見て言った。
「似合わない」
「そうかしら。友人が選んでくれたのだけれど」
「君は自分に似合うものをまだ分かってないんだよ」
優しく笑う。
「俺は君のためを思って言ってるんだから」
「⋯⋯そうね」
クラリッサは髪飾りを外した。しかし、その翌週も。
「そのドレス、少し派手じゃない?」
「新しく仕立ててもらったの。私は好きなのだけれど」
「伯爵令嬢のうちはいいかもしれない。でも君はいずれ侯爵家へ嫁ぐんだろ?」
エドガーは困ったように笑った。
「俺の家の評判にも関わるんだから、もう少し考えた方がいいよ」
「分かったわ」
クラリッサはそのドレスを着なくなった。
さらに別の日。
「今日、友人たちと街へ行くの?」
「ええ。久しぶりに皆でお茶をしようって」
「別に行くなとは言わないけど」
エドガーは少し寂しそうな顔をした。
「最近、俺との時間より友達を優先してない?」
「そんなつもりは⋯⋯」
「好きにすればいいよ」
そう言われると、行きづらくなった。
結局、その日は友人たちへ断りの手紙を送った。
するとエドガーは「え?本当にやめたの?」と笑った。
「別に行くななんて言ってないのに」
「でも⋯⋯」
「君って、意外と気にしすぎるよね」
その時も、クラリッサは自分が悪いと思った。
卒業後の進路について話した時もそうだった。
「私、王立図書館で働いてみたいの」
「働く?」
エドガーは目を丸くした。
「侯爵夫人になるのに?」
「結婚までの間だけでも、と思ったのだけど————」
「必要ないだろ」
エドガーは言い切る。クラリッサは慌てるように返した。
「でも、昔から本が好きだったし」
「クラリッサ」
エドガーは諭すように名前を呼んだ。
「君はまだ二年生だから分からないんだよ」
「⋯⋯」
「結婚って、君一人の問題じゃない。俺の家の名誉もある」
まただ。
「俺は君のためを思って言っているんだ」
「⋯⋯分かったわ」
クラリッサは図書館への応募をやめた。
気付けば、何かを決める時にはいつもエドガーの顔が浮かぶようになっていた。
この色は嫌がらないだろうか。
この人と話したら怒らないだろうか。
この店へ行くのはどう思うだろう。
それでも、それが婚約者というものなのだと思っていた。
ある日の昼休み。
「クラリッサ、その髪どうしたの?」
友人のセシル・フォン・メルローが不思議そうに尋ねた。
「切ろうと思っていたのだけれど、やめたの」
「どうして?」
「エドガー様が、長い方が似合うって」
「ふうん」
セシルは少し考えたあと、今度はクラリッサの服を見る。
「前に買った赤いドレスは?」
「派手だと言われたから、着ていないわ」
「先週のお茶会に来なかったのは?」
「エドガー様が最近、私が友人を優先しているって」
「図書館の採用試験は?」
「侯爵夫人になるなら働く必要はないって」
セシルは黙った。
「⋯⋯どうしたの?」
「あなた最近、自分で決めたことって何かある?」
クラリッサは笑おうとした。——けれど、言葉が出なかった。
何かあるはずだ。
今日の髪型は——エドガーが好きな髪型だ。
今日の服は——エドガーが地味でいいと言った色の服だ。
昼食は——エドガーが太るから控えろと言ったものは避けている。
⋯⋯放課後は——エドガーと過ごす予定。
「⋯⋯分からないわ」
ようやく出た言葉は、それだった。
セシルは責めなかった。
「じゃあ一週間だけ、エドガー様がどう思うかを考えずに過ごしてみたら?」
「そんなこと⋯⋯」
「別に悪いことをしろって言ってるわけじゃないわ」
セシルは笑う。
「あなたが着たい服を着る。食べたいものを食べる。会いたい人に会う。それだけ」
翌日、クラリッサは少しだけ髪を切った。
肩より下まであった髪を、鎖骨の辺りまで。
ずっとやってみたかった髪型だった。
「可愛い!」
セシルは大喜びした。
その日は赤いドレスも着た。
放課後には友人たちと街へ行き、食べたかった苺のタルトを頼んだ。
「おいしい⋯⋯」
思わず笑ってしまった。
「そんなに?」
「うん」
久しぶりだった。
何かを選んで、純粋に楽しいと思えたのは。
翌日、エドガーはクラリッサを見るなり顔を曇らせた。
「髪、切ったの?」
「ええ」
「俺、長い方が好きだって言ったよね」
「そうね」
「その服も」
「私が好きなの」
エドガーはしばらく黙っていた。
「最近の君、変だよ」
「そうかしら」
「セシルに何か吹き込まれた?」
「何も」
「昔の君はもっと素直だった」
その言葉に、クラリッサは初めて違和感を覚えた。
素直⋯⋯つまり、彼の言うことを聞く自分。
「今日は友達と帰るわ」
「また?」
「ええ」
「俺との時間は?」
「昨日も一緒に帰ったでしょう」
エドガーの眉間に皺が寄る。
「別に行くなとは言わないけどさ」
また同じ言葉。
「婚約者より友達の方が大事なんだね」
以前なら、すぐに予定を変えていた。
でも今日は違った。
「そういう言い方、やめて」
「え?」
「行くなとは言わない。でも行ったら嫌な顔をする」
「そんなつもりじゃ————」
「私が予定を変えたら、今度は『やめろなんて言ってない』って言うでしょう?」
エドガーの顔が険しくなる。
「何なんだよ、その言い方」
「事実でしょう」
「俺は君のためを思って——」
「その言葉、もう聞き飽きたわ」
エドガーが固まった。
クラリッサ自身も驚いていた。
こんな言葉を、彼に言えるとは思っていなかった。
「最近の君はおかしい!」
「いいえ」
クラリッサは首を振った。
「最近の方が楽しいの」
「⋯⋯何?」
「好きな服を着て、友達と話して、食べたいものを食べて」
自然と笑みが浮かんだ。
「あなたの言う通りにしていた頃より、今の方がずっと幸せだわ」
「⋯⋯俺といるのが不幸だって言いたいのか?」
「そういう話では——」
「じゃあ何なんだよ!」
「ほら」
クラリッサは静かに言った。
「また、私の気持ちをあなたが決めようとする」
エドガーは言葉を失った。
「婚約を解消したいの」
「⋯⋯は?」
今度は本当に理解できないという顔だった。
「誰にそんなこと吹き込まれた?」
「私が決めたわ」
「⋯⋯感情的になってるだけだ」
「またそれ?」
「一度家に帰って頭を冷やせば——」
「私が何を考えているかまで、あなたが決めないで」
クラリッサは彼をまっすぐ見た。
「侯爵家との婚約を失うんだぞ?」
「分かってるわ」
「後悔するよ」
「しないわ」
不思議なくらい、気持ちは軽かった。
婚約はその後、両家の話し合いを経て正式に解消された。
エドガーは最後まで、クラリッサが誰かに洗脳されたのだと思っていたらしい。
けれど数か月後、彼が別の令嬢と付き合い始めたという噂を聞いた。
そして、二週間で別れたようだ。
「その服、似合わないよ」
「でも私は好きです」
「俺は君のためを思って——」
「頼んでません」
次の令嬢も、一か月も続かなかった。
「男友達と話す必要ある?」
「ありますけど」
「俺が嫌だって言ったら?」
「私、機嫌でコントロールしてくる人、嫌いなんですよね」
学院では次第に、「エドガーの恋人になると、何でも口を出してくるらしい」という噂が広がっていった。
ある日の放課後。
「クラリッサ」
エドガーが待っていた。
「久しぶりね」
「⋯⋯君だけだった」
「⋯⋯何がかしら?」
「俺を理解してくれていたのは」
クラリッサは少し考えた。
そして首を振った。
「違うわ」
「え?」
「私はあなたを理解していたんじゃない」
昔の自分を思い出す。
服を選ぶ時も、友達と会う時も、未来を考える時も、いつも彼の機嫌を気にしていた。
「嫌われるのが怖くて、何も言えなかっただけ」
エドガーは黙った。
クラリッサは軽く会釈すると、その横を通り過ぎる。
今日はセシルたちと街へ行く約束がある。
新しくできた菓子店へ行って、気になっていたケーキを食べる予定だ。
何を着るかも、何を食べるかも、誰と過ごすかも、もう全部、自分で決められる。
それだけのことが、こんなにも楽しいなんて。
クラリッサは学院の門を出ながら、自然と笑っていた。
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