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「君のためを思って言ってる」が口癖のモラハラ男と婚約解消したら、毎日がとても楽しいです

作者: 百香スフレ
掲載日:2026/08/29

 クラリッサ・リ・エルヴァインは、婚約者である侯爵令息エドガー・フォン・バルシュタインの言葉を、ずっと正しいと思っていた。


 彼は一つ年上で、学院でも先輩だった。


 家格も上。

 将来は侯爵家を継ぐ予定で、社交界にも詳しい。


 だから、彼が言うことにはきっと意味がある。


 そう信じていた。


「その髪飾り、やめた方がいいよ」


 ある日の放課後、エドガーはクラリッサの髪を見て言った。


「似合わない」

「そうかしら。友人が選んでくれたのだけれど」

「君は自分に似合うものをまだ分かってないんだよ」


 優しく笑う。


「俺は君のためを思って言ってるんだから」

「⋯⋯そうね」


 クラリッサは髪飾りを外した。しかし、その翌週も。


「そのドレス、少し派手じゃない?」

「新しく仕立ててもらったの。私は好きなのだけれど」

「伯爵令嬢のうちはいいかもしれない。でも君はいずれ侯爵家へ嫁ぐんだろ?」


 エドガーは困ったように笑った。


「俺の家の評判にも関わるんだから、もう少し考えた方がいいよ」

「分かったわ」


 クラリッサはそのドレスを着なくなった。

 さらに別の日。


「今日、友人たちと街へ行くの?」

「ええ。久しぶりに皆でお茶をしようって」

「別に行くなとは言わないけど」


 エドガーは少し寂しそうな顔をした。


「最近、俺との時間より友達を優先してない?」

「そんなつもりは⋯⋯」

「好きにすればいいよ」


 そう言われると、行きづらくなった。

 結局、その日は友人たちへ断りの手紙を送った。


 するとエドガーは「え?本当にやめたの?」と笑った。


「別に行くななんて言ってないのに」

「でも⋯⋯」

「君って、意外と気にしすぎるよね」


 その時も、クラリッサは自分が悪いと思った。


 卒業後の進路について話した時もそうだった。


「私、王立図書館で働いてみたいの」

「働く?」


 エドガーは目を丸くした。


「侯爵夫人になるのに?」

「結婚までの間だけでも、と思ったのだけど————」

「必要ないだろ」


 エドガーは言い切る。クラリッサは慌てるように返した。


「でも、昔から本が好きだったし」

「クラリッサ」


 エドガーは諭すように名前を呼んだ。


「君はまだ二年生だから分からないんだよ」

「⋯⋯」

「結婚って、君一人の問題じゃない。俺の家の名誉もある」


 まただ。


「俺は君のためを思って言っているんだ」

「⋯⋯分かったわ」


 クラリッサは図書館への応募をやめた。


 気付けば、何かを決める時にはいつもエドガーの顔が浮かぶようになっていた。


 この色は嫌がらないだろうか。

 この人と話したら怒らないだろうか。

 この店へ行くのはどう思うだろう。


 それでも、それが婚約者というものなのだと思っていた。


 ある日の昼休み。


「クラリッサ、その髪どうしたの?」


 友人のセシル・フォン・メルローが不思議そうに尋ねた。


「切ろうと思っていたのだけれど、やめたの」

「どうして?」

「エドガー様が、長い方が似合うって」

「ふうん」


 セシルは少し考えたあと、今度はクラリッサの服を見る。


「前に買った赤いドレスは?」

「派手だと言われたから、着ていないわ」

「先週のお茶会に来なかったのは?」

「エドガー様が最近、私が友人を優先しているって」

「図書館の採用試験は?」

「侯爵夫人になるなら働く必要はないって」


 セシルは黙った。


「⋯⋯どうしたの?」

「あなた最近、自分で決めたことって何かある?」


 クラリッサは笑おうとした。——けれど、言葉が出なかった。


 何かあるはずだ。


 今日の髪型は——エドガーが好きな髪型だ。

 今日の服は——エドガーが地味でいいと言った色の服だ。

 昼食は——エドガーが太るから控えろと言ったものは避けている。

 ⋯⋯放課後は——エドガーと過ごす予定。


「⋯⋯分からないわ」


 ようやく出た言葉は、それだった。


 セシルは責めなかった。


「じゃあ一週間だけ、エドガー様がどう思うかを考えずに過ごしてみたら?」

「そんなこと⋯⋯」

「別に悪いことをしろって言ってるわけじゃないわ」


 セシルは笑う。


「あなたが着たい服を着る。食べたいものを食べる。会いたい人に会う。それだけ」


 翌日、クラリッサは少しだけ髪を切った。


 肩より下まであった髪を、鎖骨の辺りまで。

 ずっとやってみたかった髪型だった。


「可愛い!」


 セシルは大喜びした。


 その日は赤いドレスも着た。

 放課後には友人たちと街へ行き、食べたかった苺のタルトを頼んだ。


「おいしい⋯⋯」


 思わず笑ってしまった。


「そんなに?」

「うん」


 久しぶりだった。

 何かを選んで、純粋に楽しいと思えたのは。


 翌日、エドガーはクラリッサを見るなり顔を曇らせた。


「髪、切ったの?」

「ええ」

「俺、長い方が好きだって言ったよね」

「そうね」

「その服も」

「私が好きなの」


 エドガーはしばらく黙っていた。


「最近の君、変だよ」

「そうかしら」

「セシルに何か吹き込まれた?」

「何も」

「昔の君はもっと素直だった」


 その言葉に、クラリッサは初めて違和感を覚えた。


 素直⋯⋯つまり、彼の言うことを聞く自分。


「今日は友達と帰るわ」

「また?」

「ええ」

「俺との時間は?」

「昨日も一緒に帰ったでしょう」


 エドガーの眉間に皺が寄る。


「別に行くなとは言わないけどさ」


 また同じ言葉。


「婚約者より友達の方が大事なんだね」


 以前なら、すぐに予定を変えていた。


 でも今日は違った。


「そういう言い方、やめて」

「え?」

「行くなとは言わない。でも行ったら嫌な顔をする」

「そんなつもりじゃ————」

「私が予定を変えたら、今度は『やめろなんて言ってない』って言うでしょう?」


 エドガーの顔が険しくなる。


「何なんだよ、その言い方」

「事実でしょう」

「俺は君のためを思って——」

「その言葉、もう聞き飽きたわ」


 エドガーが固まった。


 クラリッサ自身も驚いていた。

 こんな言葉を、彼に言えるとは思っていなかった。


「最近の君はおかしい!」

「いいえ」


 クラリッサは首を振った。


「最近の方が楽しいの」

「⋯⋯何?」

「好きな服を着て、友達と話して、食べたいものを食べて」


 自然と笑みが浮かんだ。


「あなたの言う通りにしていた頃より、今の方がずっと幸せだわ」

「⋯⋯俺といるのが不幸だって言いたいのか?」

「そういう話では——」

「じゃあ何なんだよ!」

「ほら」


 クラリッサは静かに言った。


「また、私の気持ちをあなたが決めようとする」


 エドガーは言葉を失った。


「婚約を解消したいの」

「⋯⋯は?」


 今度は本当に理解できないという顔だった。


「誰にそんなこと吹き込まれた?」

「私が決めたわ」

「⋯⋯感情的になってるだけだ」

「またそれ?」

「一度家に帰って頭を冷やせば——」

「私が何を考えているかまで、あなたが決めないで」


 クラリッサは彼をまっすぐ見た。


「侯爵家との婚約を失うんだぞ?」

「分かってるわ」

「後悔するよ」

「しないわ」


 不思議なくらい、気持ちは軽かった。


 婚約はその後、両家の話し合いを経て正式に解消された。


 エドガーは最後まで、クラリッサが誰かに洗脳されたのだと思っていたらしい。


 けれど数か月後、彼が別の令嬢と付き合い始めたという噂を聞いた。

 そして、二週間で別れたようだ。


「その服、似合わないよ」

「でも私は好きです」

「俺は君のためを思って——」

「頼んでません」


 次の令嬢も、一か月も続かなかった。


「男友達と話す必要ある?」

「ありますけど」

「俺が嫌だって言ったら?」

「私、機嫌でコントロールしてくる人、嫌いなんですよね」


 学院では次第に、「エドガーの恋人になると、何でも口を出してくるらしい」という噂が広がっていった。


 ある日の放課後。


「クラリッサ」


 エドガーが待っていた。


「久しぶりね」

「⋯⋯君だけだった」

「⋯⋯何がかしら?」

「俺を理解してくれていたのは」


 クラリッサは少し考えた。


 そして首を振った。


「違うわ」

「え?」

「私はあなたを理解していたんじゃない」


 昔の自分を思い出す。


 服を選ぶ時も、友達と会う時も、未来を考える時も、いつも彼の機嫌を気にしていた。


「嫌われるのが怖くて、何も言えなかっただけ」


 エドガーは黙った。


 クラリッサは軽く会釈すると、その横を通り過ぎる。


 今日はセシルたちと街へ行く約束がある。

 新しくできた菓子店へ行って、気になっていたケーキを食べる予定だ。


 何を着るかも、何を食べるかも、誰と過ごすかも、もう全部、自分で決められる。

 それだけのことが、こんなにも楽しいなんて。


 クラリッサは学院の門を出ながら、自然と笑っていた。

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― 新着の感想 ―
モラハラは言いなりになりやすい人間見つけるのが上手いことが多いけど、エドガーは下手で良かった。
エドガー廃嫡待ったなしだな。 風評も立ってるでしょ。 使用人や商人の間でも風評立ってたら、もう庇えないところまできてると思う。 近いところで信頼関係の築けない者は配下の士気に関わるからとかなんとか…
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