天才少年、現る
カーラの村から戻った翌朝、ギルドの前が騒がしかった。
「なんだありゃ」
人だかりの向こうから、甲高い声が響いている。
「この街で一番強い魔法使いは誰だ! 僕と勝負しろ!」
人垣を掻き分けて覗くと、ギルドの入り口に少年が仁王立ちしていた。
銀色の髪が朝日を受けて光っている。
深い翠色の瞳。尖った耳。
エルフだ。
だが、小さい。
俺の肩にも届かないくらいの身長で、見習い用のローブが身体に対して明らかに大きい。袖が手の甲まで被さっている。
年は十二、三歳といったところか。
綺麗な顔立ちだが、胸を張って周囲を睨み回す生意気そうな表情が台無しにしていた。
「聞こえなかったのか? 僕はエルフの里シルヴァナールから来たフィルだ。魔法の腕なら、この街の誰にも負けない!」
冒険者たちが失笑する。
「ガキが何言ってんだ」
「親はどうした、迷子か?」
フィルと名乗った少年の耳の先端がぴくりと動いた。
「ガキ……?」
声が低くなった。
右手が上がる。
指先に、風の渦が凝縮した。
「《ウィンドカッター》!」
風の刃が、笑った冒険者の足元を掠めた。
石畳が一直線に裂け、砂埃が舞い上がる。
笑い声が止んだ。
「子供扱いするなら、次は足じゃなくて頭を狙う」
翠色の瞳が据わっている。
冗談ではないと、周囲の空気が悟った。
「おいおい、ガキが本気で……」
「誰か止めろよ」
冒険者たちが後ずさる中、俺はフィルの指先を見ていた。
あの《ウィンドカッター》。
精度が高い。
狙いが正確で、魔力の無駄がない。
9級の俺の風魔法とは比べものにならなかった。
「凄いな……」
思わず口に出ていた。
リーナも隣で目を見開いている。
「あの精度、尋常じゃない。9級の《ウィンドカッター》とは完全に別物だよ」
ベルが腕を組んで目を細めた。
「あの風魔法……6級に届いてるね。12歳でか。信じられないよ」
6級——ベテラン冒険者レベル。
あの歳でそこに到達しているなら、化け物と呼ぶしかない。
騒ぎを遠巻きに見ていた冒険者の一人が、にやにやしながらフィルに声をかけた。
「おい、強い魔法使いに挑みたいんだろ? だったらあそこにいるアイツに挑んでみろよ」
指差した先は——俺だった。
「全属性使いだぜ、アイツ。昨日もデカい魔獣を仕留めたらしいぜ」
冒険者たちの視線が集まる。
面白がっている目だ。
ガキの喧嘩を誰かに押し付けたいだけだろう。
フィルの目がこちらを向いた。
「全属性? 人間で? 嘘だろ」
「おい、お前!」
フィルが俺の前まで歩いてきた。
値踏みする目つき。翠色の瞳が鋭い。
「お前が全属性の魔法使いか。勝負しろ」
「いや……俺、全部9級だぞ。お前の相手にならない」
本心だった。
さっきの《ウィンドカッター》を見た後だ。
6級と9級じゃ話にならない。
「9級?」
フィルが一瞬だけ鼻で笑いかけて——やめた。
さっきの冒険者たちと同じ反応をしなかったのは、こいつなりの矜持かもしれない。
「全属性でも、やる気がないなら失望だな」
フィルが背を向けかけた。
「逃げるの?」
リーナが小声で言った。
「逃げてねえよ。実力差がありすぎるだろ」
「でもあの子、ここで誰にも相手してもらえなかったら、もっと危ないことしそうだよ。さっき頭を狙うって言ってたじゃん」
それは確かに困る。
ベルが横から口を挟んだ。
「受けときな、坊や。あの子の魔法を近くで見られるのは悪い話じゃないよ。それに——」
琥珀色の目が笑っている。
「あんたの全属性だって、実戦で試す機会は多い方がいいさ」
「……しょうがねえな」
フィルが振り返った。
「いいぜ。ただし勝っても負けても恨みっこなしだ」
フィルの翠色の瞳に、ぎらりと光が宿った。
* * *
街外れの訓練場。
広い砂地の真ん中で、俺とフィルが向かい合った。
「ルールは?」
「先に動けなくなった方が負け。それだけだ」
「わかった」
「——手加減なんかするなよ」
「するわけないだろ。僕を舐めるな」
フィルの耳がぴくぴくと動いた。
「始め!」
ベルの声が合図になった。
フィルが一瞬で後ろに跳んだ。
距離を取る。魔法使いの基本だ。
「《ヘイスト》!」
フィルの身体に風が纏わりついた。
動きが明らかに速くなる。8級の補助魔法——身体強化だ。
続けざまに右手を振る。
「《ウィンドカッター》! 《ウィンドカッター》! 《ウィンドカッター》!」
三連射。
透明の刃が、角度を変えて飛んでくる。
一発目を横に避け、二発目を剣で弾き、三発目を屈んでやり過ごした。
風圧が頬を切る。薄く血が滲んだ。
速い。
重い。
9級のそれとはまるで格が違う。
——踏み込もう。
距離を詰めかけた瞬間、フィルが指を鳴らした。
空気が変わる。
「——《サイレントエッジ》」
音が消えた。
見えない刃。
空気ごと切り裂く斬撃が、音もなく飛んでくる。
「っ——!」
本能で横に転がった。
さっきまで立っていた地面が、一直線に裂けている。
6級の風魔法。真空の刃。
これが——ベテラン冒険者レベルの魔法。
背筋が凍った。
まともに食らっていたら終わっていた。
フィルが胸を張った。
翠色の瞳に、確信の光がある。
「どうだ。これが僕の風魔法だ」
応戦しなければ。
「《フレイム》!」
手のひらから火の塊を放った。
9級の基本技。
フィルの足元に着弾して——小さな火花が散っただけだった。
フィルが避けもしなかった。
ローブの裾が少し焦げた程度だ。
「全属性って、その程度か?」
静かな声だった。
嘲りではない。純粋な失望が滲んでいる。
——悔しい。
自分でもわかっていたことだ。
全属性使いと言えば聞こえはいいが、全部9級じゃ何もできない。
フィルが二発目の《サイレントエッジ》を放った。
今度は左右から挟むように二つ。
避ける。
地面が裂ける。
砂が舞い上がる。
三発目が来る前に——考えろ。
魔法で撃ち合っても勝てない。
だが剣で近づくには、あの見えない刃をかいくぐる必要がある。
足元の砂が目に入った瞬間、閃いた。
砂煙。
魔力を手のひらに集めて、地面に叩きつけた。
風の基礎制御——《ウィンドカッター》にもならない、ただの魔力の放出。
9級の俺にできる、一番単純なこと。
ぼっ、と空気が弾けて、砂が爆発的に舞い上がった。
「なっ——!」
フィルの視界が潰れる。
その一瞬に、走った。
砂煙の中を、低い姿勢で一気に駆ける。
目を閉じてもいい。距離と方向は覚えている。
ベルに叩き込まれた索敵の感覚が——体に残っていた。
フィルの息遣いが聞こえた。
目を開ける。
砂煙が薄れかけた中に、フィルのローブの白が見えた。
剣を抜いた。
一歩踏み込み——
フィルが詠唱に入ろうとした指が、止まる。
剣の切っ先が、フィルの喉元で止まった。
「……え?」
静寂。
膝が震えていた。
息が上がっている。
《サイレントエッジ》を避けた時の恐怖がまだ体の芯に残って、心臓がうるさい。
余裕なんてどこにもなかった。
「——お前の、負けだ」
息を切らしながら、なんとか言った。
フィルの翠色の瞳が、俺の剣と俺の目を交互に見た。
唇を噛んでいる。悔しさで顔が赤い。
「ず、ずるいぞ! 魔法の勝負だって——」
「言ってない。先に動けなくなった方が負け、だろ」
「う……」
剣を鞘に戻した。
ようやく息が落ち着いてきた。
「フィル」
「……なんだよ」
「お前の魔法、マジで凄かった」
フィルの目が揺れた。
口を開きかけて、閉じた。
何か言おうとして、言葉が見つからないような顔だった。
「《サイレントエッジ》、避けられたのは運だ。あれがもう少し速かったら、俺は終わってた」
嘘じゃない。
本当に、ギリギリだった。
「……っ」
フィルの拳が震えていた。
目に涙が滲みかけて——ぐっと堪えた。
「くっ……負けは、負けだ。認める」
絞り出すような声だった。
「お前、エルフの里から一人で来たのか?」
「……そうだよ。里の授業なんか退屈で仕方なくて、飛び出してきた。僕の才能はあんな場所じゃ腐るだけだ」
強がりだ。
けれど声の端に、ほんの少しだけ心細さが混じっている。
リーナが水筒を持って歩いてきた。
「はい、お水」
「べ、別にいらない——」
「喉、渇いてるでしょ。さっきの魔法、すごい魔力使ってたよ」
フィルが黙って水筒を受け取った。
一口飲んで、もう一口飲んで、それから小さく言った。
「……ありがとう」
「素直じゃないね」
リーナが笑った。
ベルがフィルの横に来て、しゃがみ込んだ。
ちょうどフィルと同じ目線の高さになる。
「チビ助、あんたの風魔法はたいしたもんだ。12歳で6級なんて、あたしの長い冒険者人生でも見たことないよ」
「チビ助言うな! あと、おばさんに褒められても嬉しくないし!」
「おばさん……?」
ベルの笑顔が凍った。
「今なんて言った?」
「お、おばさん——」
「あたしはまだ三十だよ。三十。おばさんって言ったら殴るからね」
フィルが一歩後ずさった。
ベルの殺気は魔獣より怖い。
「す、すみません……」
「ベル、許してやれよ」
「坊やは黙ってな」
不穏な空気を、リーナの笑い声が和らげた。
* * *
夕方、酒場で食事をしていると、フィルが入り口で突っ立っていた。
「どうした?」
「……別に。泊まる宿を探してただけだ」
「金は?」
フィルが口をつぐんだ。
答えが書いてある。
「リーナ」
「わかってる。もう一人分頼んであるよ」
いつの間に。
こいつの気遣いは時々、俺より早い。
フィルが席に着くと、運ばれてきたシチューを前にして固まった。
「……食っていいのか」
「冷めるぞ」
フィルはスプーンを握り、一口食べた。
それから黙々と食べ続けた。
里を出てからろくに食べていなかったのだろう。
皿が空になるまで、一言も喋らなかった。
「お代わりは?」
「……いる」
リーナがもう一皿を頼んだ。
フィルの耳の先が赤い。
ベルがエールを飲みながら、小声で俺に言った。
「坊や。あの子、才能は本物だよ。12歳で風魔法6級、火魔法もたぶん8級はある。あたしが知ってる中で一番の天才だ」
「ああ。あの《サイレントエッジ》は本気でヤバかった」
「でも実戦経験がゼロだ。才能だけじゃ死ぬよ」
ベルの声に、重みがあった。
かつてパーティを失った斥候の言葉だ。
フィルがシチューの二杯目を平らげ、ようやく顔を上げた。
「レイン」
「ん?」
「お前、明日も訓練するのか」
「するぞ。毎日やってる」
「……僕も、見学していいか」
「見学?」
「べ、別に一緒にやりたいわけじゃないし! ただ、お前の戦い方を研究してやろうと思っただけだ!」
翠色の瞳が泳いでいる。
耳の先端がぴくぴくと動いて、嘘をついている時の癖が丸わかりだった。
「見学でも参加でも好きにしろ」
「……ふん」
フィルがそっぽを向いた。
リーナとベルが目を合わせて、小さく笑った。
* * *
宿に戻り、窓を開けた。
夜風が涼しい。
フィルの言葉が胸に刺さったまま抜けない。
「全属性って、その程度か?」
悔しかった。
全属性使いだなんて聞こえはいいが、全部9級じゃ何もできない。
あの砂煙の即興がなければ、俺は負けていた。
考えていたら、外から音が聞こえた。
最初は風かと思った。
けれど違う。
遠吠えだ。
一つじゃない。
二つ、三つ——いや、もっと多い。
街の外の、暗い平野の向こうから。
複数の喉が、夜空に向かって吠えている。
背筋が冷えた。
廊下に出ると、ベルがもう立っていた。
琥珀色の目が鋭く細まっている。
「聞こえたかい」
「ああ。魔物か」
「間違いないね。しかも群れだ」
リーナが部屋から顔を出した。
フィルも隣の部屋のドアを開け、不安そうな顔を覗かせている。
遠吠えが、また一つ増えた。
「夜に群れで来るなんて普通じゃないよ」
ベルの声が低い。
カーラの村の魔獣を思い出した。
闇の瘴気に汚染された、異常な個体。
あれが——群れで。
その時、街の中心から鐘の音が響いた。
甲高く、三度。
「ギルドの緊急招集だ」
ベルが階段を駆け下りる。
俺も続いた。
夜の街路を走る。
他の冒険者たちも宿や酒場から飛び出してきている。
鐘がまた鳴る。
闇の中で、遠吠えが近づいていた。




