初めての救援依頼
カーラの村までは、早足で半日の距離だった。
街道を外れて丘陵の間を抜ける道は、人の手が入っていない。
踏み固められていない地面が足にまとわりつき、じわじわと体力を削る。
「急ごう。救援依頼は時間が命だ」
ベルが先頭で道を切り開く。
小柄な身体が草の間をするりと抜けていく。
リーナは教本を歩きながら読もうとして、ベルに取り上げられた。
「歩きながら読む奴は足元の罠を踏むよ」
「……はい」
正午を過ぎた頃、丘の上からカーラの村が見えた。
見えた瞬間、三人とも足が止まった。
柵が倒れていた。
畑が踏み荒らされている。
家屋の壁が割れ、藁葺きの屋根が半分潰れたものもある。
「ひどい……」
リーナの声が震えた。
風が丘を越えてきた。
土と血の匂いが混じっている。
「行くぞ」
走った。
* * *
村に入ると、人々は広場の井戸の周りに集まっていた。
怪我人を抱えた女性。泣いている子供。顔に包帯を巻いた男。
村長らしき老人が、俺たちに気づいて駆け寄ってきた。
「冒険者さんかい!? ギルドに頼んだんだが——」
「俺たちが受けました。状況を教えてください」
「三日前から、大きな魔獣が出るようになったんだ。角のある——暴牛みたいな奴で、普通じゃねえ大きさだ」
「今はどこに?」
「南の麦畑の奥に居座ってる。夜になると暴れ出して、村に来るんだ。今夜もたぶん——」
村長の声が擦れた。
三日間、一睡もしていないのだろう。目の下に深い隈がある。
「わかりました。日があるうちに仕留めます」
「本当かい……! 頼む、もう村の人間じゃ——」
「任せてください」
リーナが村長の手を握った。
村長の目に、少しだけ光が戻った。
* * *
南の麦畑は、もはや畑の形を留めていなかった。
巨大な蹄の跡が地面をえぐり、麦穂は踏み潰されて泥に混じっている。
重い呼吸音が、風に乗って聞こえた。
「いるね。百メートル先、木立の影」
ベルの索敵が入った。
目を凝らすと、確かに黒い影が見える。
近づいてみて、その大きさに息を呑んだ。
体高が二メートルを超える暴牛型の魔獣。
赤黒い体毛。
頭部から突き出た二本の角は、鉄のように黒く光っている。
そして——角の根元から、黒い霧のようなものが立ち昇っていた。
「あの黒い霧、なんだ?」
「瘴気だよ」
ベルの声が硬い。
「闇の魔力に汚染された獣が出すもんさ。あたしも実物を見るのは初めてだけど」
嫌な匂いだ。
腐った卵と錆びた金属を混ぜたような、不快な臭気。
「作戦を決めよう」
ベルが小声で言った。
「あたしが後ろに回って牽制する。嬢ちゃんが水魔法で足を止めて、坊やが急所を突く。ゴーレムの時と同じだよ」
「急所は?」
「あの角の根元。瘴気が出てるってことは、あそこが核だ。角を折れば暴走が止まるはずさ」
ベルがクロスボウを構えた。
「合図を待ちな」
ベルが草の間を音もなく移動していく。
訓練で教わった通り、足音を殺し、草を揺らさない動き。
リーナが俺の隣で息を整えていた。
「行けるか?」
「行ける。あんたこそ」
「当たり前だろ」
右手に剣。
左手を握って、開く。
ベルの合図を待つ。
——鉄矢が飛んだ。
クロスボウの矢が魔獣の後ろ足に突き刺さり、甲高い咆哮が響いた。
地面が震える。
魔獣が振り返り、ベルの方へ突進しようとした——その瞬間。
「《アクアショット》!」
リーナの水球が魔獣の前足に炸裂した。
泥の地面に水膜が広がり、蹄が滑る。
巨体がよろめいた。
今だ。
走った。
魔獣の横に回り込み、角の根元に向かって踏み込む。
けれど近づいた途端、黒い瘴気が肌を刺した。
「ぐっ——」
頭が揺れた。
瘴気に触れた瞬間、胸の奥で何かがざわりと反応した。
あの感覚だ。闇種族の話を聞いた時と同じ——身体の内側を撫でられるような気味の悪さ。
足が止まりかけた。
「レイン!」
リーナの声で我に返った。
魔獣が体勢を立て直し、角を振り回す。
横殴りの一撃をかがんで避けた。風圧で頬が切れる。
「集中しろ、坊や! 角の根元だ!」
ベルが二発目の矢を撃ち、魔獣の注意を引きつけた。
魔獣が一瞬だけベルの方を向く。
その隙を逃さない。
低く踏み込み、角の根元に《スティング》を叩き込んだ。
手応え——硬い。
角は折れなかった。だが確かに亀裂が入った感触がある。
「もう一撃!」
リーナが再び《アクアショット》を前足に撃ち込んだ。
魔獣がバランスを崩す。
頭が下がった。
角の根元が、目の前にある。
《ツインアーク》
二連の斬撃が弧を描き、亀裂の入った角の根元を断った。
ごきり、という鈍い音。
黒い角が折れて地面に落ちた。
「二連撃——実戦であの精度かい。坊や、やるじゃないか」
ベルの声が遠くから聞こえた。
瘴気が一気に薄れる。
魔獣の赤黒い体毛から色が抜けていき、目の光が消えた。
そのまま前のめりに崩れ落ちる。
静寂。
麦畑の上を風が吹き抜けた。
瘴気の臭いが薄まり、代わりに土と緑の匂いが戻ってくる。
「……倒した?」
「倒した」
膝が震えていた。
瘴気に触れた時の不快感がまだ身体の芯に残っている。
ベルが折れた角を拾い上げ、顔を顰めた。
「これは……」
角の断面から、黒い液体がじわりと滲み出ている。
瘴気の残滓だ。
「闇の魔力に汚染されてるね。この獣は元々ただの野生の暴牛だったはずだよ」
「自然にこうなるのか?」
「ならないさ」
ベルの目が鋭くなった。
「これは意図的だよ。誰かが闇の魔力を使って、獣を凶暴化させてるんだ」
* * *
村に戻ると、村長が涙を流して感謝してくれた。
「ありがとう……本当に、ありがとう」
怪我人の手当てをリーナが手伝い、俺とベルは壊れた柵の応急修理をした。
子供たちが遠巻きに俺たちを見ている。
怖がっていたのが、少しずつ笑顔に変わっていく。
「こんな大型の魔獣がこの辺りに出るのは異常だ」
村長が俺たちを見送る時に、声を絞り出した。
「最近、山の向こうから闇の瘴気が流れてくるようになったんじゃ。風向き次第で、家畜が暴れ出すこともある」
山の向こう——大山脈の方角だ。
光種族と闇種族の境界。
帰り道、三人とも口数が少なかった。
ベルが折れた角を革袋に入れたまま、ぽつりと言った。
「魔物の凶暴化。闇種族の斥候。そしてこの瘴気の汚染」
「全部、繋がってるってこと?」
リーナの問いに、ベルは頷いた。
「闇側が何かを仕掛け始めてるのかもしれない。あたしらの手に負える話じゃないけどね」
俺は黙って歩いた。
胸の奥に、あの瘴気に触れた時のざわつきが残っている。
不快なはずなのに、身体の奥底では——別の何かが反応していた。
まるで呼ばれているような。
「レイン?」
「……なんでもない」
拳を握り直した。
守りたいものが増えた。
仲間だけじゃない。あの村の人たちの笑顔も。
だからこそ、もっと強くならなきゃいけない。
夕焼けが山の稜線に沈んでいく。
三人の影が、長く道に伸びていた。




