初めてのダンジョン
翡翠の洞窟は、ルーンヘイムの東に半日ほど歩いた丘陵地帯にあった。
入口は岩壁に開いた大きな裂け目で、内側から湿った冷気が吹き出している。
苔の匂いと、どこか甘い鉱物の香りが混ざっていた。
「ダンジョンの空気って独特だね」
リーナが鼻を鳴らす。
「嫌な感じじゃないけど……なんか、生き物の中にいるみたい」
「入口でびびるなよ」
「びびってない。感想を言っただけ」
足を踏み入れると、壁に埋まった翡翠の結晶が淡い緑の光を放っていた。
松明がなくても歩ける程度の明るさだ。
「綺麗……」
リーナの呟きに俺も頷く。
壁一面の翡翠が、洞窟の空気を緑に染めている。
冒険者が「翡翠の洞窟」と呼ぶ理由がわかった。
だが、綺麗なだけじゃない。
足音に反応して、通路の奥から黒い影が飛び出してきた。
洞窟蝙蝠。
拳大の羽を広げた魔物が、三体。
「来た!」
先頭の一体が俺の顔めがけて突っ込んでくる。
《一閃》
横薙ぎで叩き落とす。
二体目が右から——《突牙》。
突きが蝙蝠の胴を貫いた。
三体目がリーナに向かう。
「《水弾》!」
水球が蝙蝠を弾き飛ばし、壁に叩きつけた。
三体、十秒もかかっていない。
「速くなってない? あんた」
「そうか?」
「二日前の角兎より全然動けてる。なんていうか、迷いがないっていうか」
自分でもわかっていた。
身体の動きと剣の軌道が、どんどん噛み合ってきている。
まるで最初から知っていた型を思い出しているかのように。
だが、考えるのは後だ。
「先に進もう。薬草もまだ集まってない」
通路を進むたびに魔物が現れた。
洞窟蝙蝠、苔スライム、岩ネズミ。
どれも8級向けの弱い相手だが、数が多い。
リーナの《水弾》で足を止め、俺が斬る。
訓練場で練習した連携が、そのまま実戦で使えている。
「あたし、だんだんタイミング掴めてきた」
「こっちもだ。お前が止めてくれるって信じて踏み込める」
「……そういうの、さらっと言うよね」
リーナが少し目を逸らした。
耳の先が赤い気がしたが、洞窟の緑光のせいかもしれない。
* * *
浅層の奥に進むと、通路が広い空間に開けた。
天井が高い。
翡翠の結晶が頭上に密集していて、まるで星空のように光っている。
「すごい……」
リーナが見上げたまま立ち止まった。
「ああ。これだけで来た甲斐がある」
足元に目をやると、薬草が群生していた。
翡翠の光で育ったのか、普通のものより色が濃い。
「これ、上物だよ。ギルドで高く買い取ってもらえるやつ」
「よし、摘もう」
しゃがんで薬草を籠に入れていく。
リーナが手早く品種を確認しながら、良い株だけを選り分けている。
こういう作業は、こいつの方がずっと得意だ。
「レイン、こっちのは——」
リーナが一歩踏み出した瞬間だった。
足元の石畳が沈んだ。
「え?」
かちん、と乾いた音が響いて、俺たちの真下が抜けた。
「う、わああ!」
「リーナ!」
暗い穴に落ちながら、とっさにリーナの腕を掴んだ。
身体が宙を回る。
岩壁が視界を流れ、腰と背中に激しい衝撃が来た。
「いってえ……」
着地——というより、叩きつけられた。
背中に砂利の冷たさが広がる。
腕の中にリーナの重みを感じて、なんとか庇えたと安堵した。
「リーナ、大丈夫か」
「……生きてる。あんたのおかげで」
リーナが俺の腕から抜け出し、周囲を見回す。
落ちた先は、上の広間より一段暗い通路だった。
翡翠の結晶は少なく、緑の光がぼんやりとしか届かない。
「上、高いね……」
見上げると、落ちてきた穴は三メートル以上ある。
登れなくはないが、壁が滑りやすそうだ。
「罠か。8級向けの浅層に罠があるのか」
「あるにはあるけど、この深さは嫌がらせにしては本格的だね」
リーナが薬草ポーチから傷薬を取り出し、俺の腕に塗った。
着地の時に擦りむいたらしい。じわりとしみる。
「ありがとう。……さて、どうする」
「出口を探すしかないよ。上に戻るより、通路を辿った方が早いかも」
暗い通路を歩き始めた。
空気が重くなっている。
上の浅層とは明らかに違う、じっとりとした湿気と土の匂い。
しばらく歩くと、通路の先に薄い光が見えた。
小さな広間。
その中に——人影があった。
壁にもたれて座り込んでいる、小柄な人物。
暗い茶色のショートカットに、背中にクロスボウ。
腰には複数のナイフと、ポケットだらけのベスト。
ホビットだ。
その人物が、俺たちの足音に気づいて顔を上げた。
琥珀色の目が鋭く光る。
「おや。上から落ちてきたのかい、坊やたち」
低めの声。見た目は少女だが、目つきと声に年季がある。
「……ああ。罠を踏んだ」
「そりゃ災難だったね。あたしは反対側から来て岩が崩れて戻れなくなったクチさ」
ホビットの女が立ち上がった。
身長は俺の胸くらいしかないが、身のこなしに隙がない。
「あたしはベル。ソロで活動してるんだけど、見ての通り足止め食らってる」
「俺はレイン。こっちはリーナ。8級の冒険者だ」
「8級?」
ベルが俺たちを上から下まで見た。
値踏みするような、試すような視線。
「まあいいさ。一緒に出口を探そうじゃないか。あんたらが戦えるなら、ここから出る手段はある」
「ベルさんは? どのくらいの実力なんですか」
リーナが警戒を崩さずに聞く。
「あたしは斥候が専門だよ。罠解除、索敵、土魔法でちょっとした小細工。正面から殴り合うのは得意じゃないけど、ダンジョンの歩き方なら大抵の冒険者より知ってるさ」
ベルが腰からドライフルーツを取り出し、一つ口に放り込んだ。
「食うかい?」
「いただきます」
リーナが素直に受け取った。
口に入れた瞬間、少しだけ表情が柔らかくなる。
こいつは食べ物を差し出されると警戒が解けるたちだ。
「坊や、あんたの剣の握り方は悪くない。8級にしちゃ筋がいいよ」
「ありがとう……ございます」
「堅いねえ。ベルでいいよ、ベルで」
ベルが軽く笑って、通路の先を指さした。
「こっちに進めば上の階層に繋がる通路があるはずさ。あたしが先行して罠を見るから、坊やが魔物を引き受けてくれ。嬢ちゃんは回復と支援。いけるかい?」
「いける」
「いけます」
「よし。じゃあ行こうか」
ベルが先頭に立ち、壁に手を当てながら歩き始めた。
時折立ち止まっては床の石を確認し、「ここは踏むなよ」と指示を飛ばす。
ベテランの動きだ。
俺とリーナだけじゃ、こうはいかない。
通路を進むうちに、魔物が二度現れた。
どちらも洞窟蝙蝠の群れ——だが、さっきの浅層より大きく、動きも速い。
「右から三体!」
ベルの声が先に飛ぶ。
索敵が正確だ。方向と数が、声が出た瞬間にはもう分かっている。
《一閃》で二体を薙ぎ、《突牙》で残りの一体を突く。
「へえ」
ベルが口笛を吹いた。
「やるじゃないか、坊や。その踏み込み、本当に8級かい?」
「たぶん」
「たぶんって何さ。面白い子だね」
ベルの声に警戒の色はもうなかった。
代わりに、面白いものを見つけた目をしている。
* * *
通路が徐々に広がり、上り坂に差し掛かった。
出口が近い手応えがある。
「この先を抜ければ——」
ベルの足が止まった。
奥から、重い足音が響いている。
ずしん。ずしん。
壁の翡翠が振動で微かに揺れた。
リーナが俺の袖を掴んだ。
手が冷たい。
「何……あれ」
通路の奥の暗闇から、翡翠色に光る巨大な影が近づいてくる。
二メートルを超える人型。
全身が翡翠の結晶で覆われた、岩の巨人。
ベルの顔が強張った。
右手が無意識に火傷の跡を撫でている。
「こいつはマズい」
声が低い。さっきまでの軽い口調が消えている。
「この階層のボスじゃないよ。もっと下の——5級パーティ向けの奴だ」
5級。
俺たちは8級だ。
格が違う。
翡翠のゴーレムが、赤く光る目でこちらを見た。




