それでも味方だ
誰も、何も言わなかった。
林を抜け、街道を歩き、西門をくぐった。
六人と一匹。横に並ぶことも、前後に離れることもなく、ただ歩いた。
街は朝の賑わいを取り戻していた。
露店が立ち、子供が走り回り、昨日までの戦闘が嘘のように日常が回っている。
その中を、俺たちだけが沈黙を抱えて歩いていた。
宿に着いた。
「……部屋にいる」
それだけ言って、階段を上がった。
振り返らなかった。振り返れなかった。
誰かの視線が背中に刺さっている。
それが誰のものかは、確かめたくなかった。
* * *
部屋の扉を閉めた。
ベッドに腰を下ろす。
剣を壁に立てかけようとして——柄を見た。
もう黒い紋様はない。銀色の柄。何の変哲もない剣。
だが、あの瞬間の感触が消えない。
指先から這い上がった闇。剣の刀身を侵した紋様。俺の意志では止められなかった——あの力。
右手を見つめた。
何も変わっていない。普通の手だ。
なのに、内側に何かがいる。眠っている。触れれば——また、溢れ出す。
コロルが懐からのそのそと出てきた。
俺の膝の上にちょこんと座り、小さな顔を上げる。
青銀の瞳が、俺を見ていた。
「……怖くないのか」
コロルはキュウと鳴いた。
綿毛の身体を俺の手に擦りつけてくる。温かい。
あの林で——こいつは俺の右手に怯えていた。
震えていた。闇の力に。
それでも、離れなかった。
「……ありがとな」
コロルの頭を撫でた。
綿毛がふわりと膨らむ。
扉を叩く音がした。
* * *
重い、三回のノック。
「……開いてる」
扉が開いた。
ガルドだった。
大斧は持っていない。部屋に置いてきたのだろう。
鉄灰色の目が、俺を真っ直ぐに見ている。
何を言うつもりだ。
何を——
「力がなんであれ」
短い沈黙の後、ガルドが言った。
「お前は仲間だ」
それだけだった。
説明も、質問も、慰めもない。
ただ事実を述べるように——お前は仲間だ、と。
俺は何も言えなかった。
喉が詰まっていた。
ガルドはそれ以上何も言わず、扉の前に立ったまま俺を見た。
数秒。それだけで、十分だった。
背中を向けて、出ていった。
扉が静かに閉まる。
ガルドの足音が廊下を遠ざかっていく。
重い足音。岩のような男の、揺るがない足音。
右手を握りしめた。
震えていた。今度は——闇じゃない。
扉が勢いよく開いた。
ノックもなしに。
「だから何だよ」
フィルが立っていた。
耳の先端がぴくぴく震えている。目が赤い。泣いたのか——いや、泣くのを堪えているのだ。
「闇だろうが光だろうが、僕たちのパーティだろ」
声が少し裏返った。
12歳の少年が、精一杯の虚勢を張っている。
「僕だって——エルフの里を飛び出した時、誰にも受け入れてもらえなかった。でもここにいる。あんただって同じだ」
フィルの拳が震えていた。
強がりの裏に、本気がある。
「……ああ」
それしか言えなかった。
「ああ、じゃないだろ。ちゃんと返事しろよ」
「——ありがとう」
フィルの耳がぴんと立った。一瞬だけ。
すぐにぺたんと戻した。
「べ、別に。僕は事実を言っただけだし」
踵を返して出ていった。
扉をバタンと閉める。乱暴だが、足音はすぐに止まった。
廊下で立ち止まっている。
少しして、足音が遠ざかっていった。
* * *
三番目のノックは軽かった。
「入るよ」
返事を待たずに、ベルが入ってきた。
壁に背を預け、腕を組む。いつもの姿勢。
「最初から気づいてたよ」
飄々とした声。普段と変わらない。
「あんたの右手、ずっとおかしかったからね。防衛戦の時も、その前からも」
「……なんで、何も言わなかった」
「あんたが隠してるなら、隠す理由があるんだろうと思ったのさ」
ベルが肩をすくめた。
「あたしはね、坊や。人の事情を掘り返す趣味はないんだよ。でも——」
声のトーンが変わった。
「隠し事で自分を追い詰めるなら、それは損だ。仲間ってのは、そういう時に使うもんだよ」
損、という言い方がベルらしかった。
正しいとか間違ってるとかじゃない。損か得か。合理的で、だからこそ優しい。
「……覚えとく」
「よろしい」
ベルが壁から背を離した。
「あと、あたしはあんたの闇がどうこうより、明日の朝飯の方が心配だよ。宿の食事、防衛戦の後から質が落ちてるんだよね」
笑った。
自分でも驚いた。笑えたのだ。
ベルが出ていく背中が、いつもと何も変わらなかった。
それが——救いだった。
四番目は、ノックではなかった。
扉の向こうから、すすり泣く声が聞こえた。
「——リーナ」
扉を開けた。
リーナが立っていた。
目が赤い。涙が頬を伝っている。
「なんで……」
声が震えていた。
「なんで言わなかったの。あたし、ずっと心配してたのに」
怒りじゃない。
悲しみだ。ずっと気づいていた。右手を気にしていた。でも何も聞けなかった。聞いてもらえなかった。その悲しみ。
「ごめん」
「ごめんじゃないでしょ……ばか」
リーナの手が伸びた。
俺の右手を、両手で包んだ。
冷たい。
さっきまで震えていた右手が、リーナの手の中にある。
「冷たい……。ずっとこんなだったの?」
「……ああ」
「ばか」
もう一度、同じ言葉。
だが声が柔らかくなっていた。
リーナの手が温かい。
魔力を使い果たした防衛戦の夜とは違う。今のリーナの手は、ちゃんと温かかった。
涙が止まった。
リーナは俺の右手を握ったまま、鼻をすすった。
「……あたしは、あんたの味方だから」
「——知ってる」
リーナの手が離れた。
目を擦って、背中を向ける。
「顔、見んな」
「見てない」
「嘘つき」
足音が遠ざかる。少し乱れた足取り。
それでも、真っ直ぐだった。
* * *
最後に来たのは、ヴィーナだった。
紅茶を二つ持って、静かに入ってきた。
一つを俺に差し出し、椅子に腰を下ろした。
紫色の瞳が、穏やかに俺を見ている。
驚きはない。覚悟の色。あの林で見たのと同じ目。
「レインくん。少しだけ、聞いてほしい話があります」
「……はい」
「あなたの右手に宿った力。あれは呪いではありません」
静かな声だった。
「500年前に滅びたとされる古代種族——彼らは、光と闇の両方の力を持っていました」
紅茶の湯気が、二人の間をゆらゆらと昇っていく。
「レインくんの魔力パターンは、古代文献に記録された古代種族のものと酷似しています」
「古代種族……」
「根拠はいくつかあります。コロル——識見の使い魔。あの子は古代文献にしか記録がない存在です。それがレインくんに懐いた」
コロルが俺の膝の上で、きゅうと小さく鳴いた。
「それに、あの貯蔵庫。光と闇の属性結界が張られた場所で、レインくんだけが拒絶を受けなかった。あれは古代種族の魔力特性と一致します」
ヴィーナの瞳が少しだけ揺れた。
「私はあの時から気づいていました。コロルの読取りにノイズが走った時も。あなたの右手に違和感を覚えた時も。——ずっと、調べていました」
「なんで……今まで黙ってたんですか」
「確信が持てなかったから。そして——」
ヴィーナが紅茶に目を落とした。
「あなたに、余計な重荷を背負わせたくなかったからです」
沈黙が落ちた。
温かい沈黙だった。
「闇の力は、あなたの敵ではありません。古代種族にとって、闇は光と同じ——本来の力の一部です」
「本来の……」
「ええ。あなたの力は、あなた自身のものです」
ヴィーナが立ち上がった。
「いずれ、全てをお話しします。まだ私にも分からないことが多い。でも今は——これだけ覚えていてください」
紫色の瞳が、真っ直ぐに俺を見た。
「あなたは一人ではありません」
ヴィーナが部屋を出た。
紅茶の香りだけが残った。
俺は手の中のカップを見つめた。
まだ温かかった。
* * *
夜。
宿の屋上に出た。
星が出ていた。
防衛戦の二日間、ずっと曇っていたのが嘘のように、澄んだ夜空が広がっている。
右手を開いた。
閉じた。
また開いた。
呪いじゃない、とヴィーナは言った。
本来の力の一部だ、と。
頭では分かる。
だが——手の中に残る、あの感触。意志では止められなかった闇の奔流。剣を侵した黒い紋様。
本当に大丈夫なのか。
俺の中にある、この力は。
受け入れてくれた。
ガルドが。フィルが。ベルが。リーナが。ヴィーナが。
仲間は、受け入れてくれた。
でも俺自身が——まだ、受け入れられない。
肩に、温もりが触れた。
コロルが肩に乗っていた。
綿毛の身体が、右手に寄り添うように丸まる。
冷たかった右手が、少しだけ温かくなった。
「……ありがとな」
コロルがキュウと鳴いた。
夜風が吹いた。
星が瞬いている。
闇の力を受け入れられない。
でも——仲間は受け入れてくれた。
それだけは、確かだった。




