闇の手
朝食の匂いがした。
宿の食堂に降りると、リーナが席に座っていた。
昨日倒れたはずなのに、もう起きている。
「おはよ。あんた、顔色悪いよ」
「お前こそ。寝てなくていいのか」
「一晩寝たら治った。あたしはあんたより丈夫なの」
嘘だ。まだ顔が白い。
だがリーナの目は真っ直ぐだった。止めても聞かない目だ。
フィルが隣のテーブルで頭を伏せていた。
「……眠い」
「お前は昨日ちゃんと寝ただろ」
「戦闘の疲れは一晩じゃ取れないんだよ……」
フィルの耳がぺたんと垂れている。
エルフの耳は体調が出るらしい。
ベルがパンを齧りながら入ってきた。
「おはよう。街は落ち着いてるよ。闇種族の気配はもうない。ただ、オーゲンから巡回の依頼が出てる。西門外の掃討と確認だ」
「行こう」
ガルドが食堂の隅から立ち上がった。
いつの間にいたのか。大斧を壁に立てかけて、静かに食事をしていたらしい。
ヴィーナが紅茶を片手に現れた。
「おはようございます。巡回ですか? 私も行きますわ」
六人と一匹。
全員が揃った。
コロルが俺の肩に飛び乗った。
キュウと鳴いて、小さな口で俺の耳を噛んだ。腹が減っているらしい。
「はいはい」
パンの欠片を差し出すと、夢中でかぶりついた。
穏やかな朝だった。
昨日まで命を削り合っていたのが嘘のように、街は日常を取り戻し始めている。
* * *
西門を出た。
昨日まで戦場だった場所に、朝日が差している。
地面には斬痕と焦げ跡が残り、折れた矢が散乱している。戦いの跡は消えていない。
「ここ、昨日あたしが《シンクホール》仕掛けた場所だね。まだ穴が残ってる」
ベルが陥没した地面を覗き込んだ。
「埋め戻しも依頼に入ってるのかい?」
「入ってないだろ」
「じゃあ放置だ」
街道沿いを西に進む。
フィルとヴィーナが左右を警戒し、ベルが先行して斥候を務める。ガルドと俺が前衛。リーナが後方。
いつもの布陣。
安心する。
「レインくん」
ヴィーナが横に並んだ。
「お身体は大丈夫ですか? 昨日は一晩中前衛で——」
「大丈夫です。ガルドさんと交代しながらでしたし」
「そうですか。無理はしないでくださいね」
ヴィーナの紫色の瞳が、一瞬だけ俺の右手を見た。
すぐに視線を外した。
気づいているのか。
いや——気づいていないはずだ。昨夜の黒い光は、誰にも見られていない。
右手は、もう震えていなかった。
朝になって、熱も引いている。
大丈夫だ。もう大丈夫。
そう思った。
* * *
街道から三百歩ほど外れた林の中で、ベルが足を止めた。
「……二体。残党だね。魔人兵」
コロルの青銀の瞳が光った。
「闘技8級と7級。闇魔法も使えるみたいです」
ヴィーナがコロルの読取を中継した。
普段なら余裕の相手だ。
「ガルドとレインが前衛。僕は後ろから撃つ」
フィルが杖を構えた。
「行くぞ」
林の中に踏み込む。
二体の魔人兵が、木の陰に身を潜めていた。
昨夜の戦闘で逃げ遅れたのだろう。鎧が傷だらけで、片方は腕を負傷している。
こちらに気づいた瞬間、魔人兵が動いた。
負傷した方が闇の弾を撃ち、もう一体が拳を振り上げて突進してきた。
「《ルミナスシールド》!」
ヴィーナの光の盾が闇の弾を弾く。
ガルドが突進を大盾で受け止め、反撃の大斧を振るった。
俺は側面から回り込み、突進してきた魔人兵の脇腹に《ソニックエッジ》を叩き込んだ。
手応えがある。傷だらけの鎧が裂け、魔人兵がよろめいた。
「《ウィンドカッター》!」
フィルの風の刃が、負傷した魔人兵の足を薙いだ。
ベルのクロスボウが追い打ちをかける。
「リーナ、後ろを頼む!」
「わかってる!」
リーナが《アクアシールド》を展開し、後方を警戒した。
普通なら、ここで終わる。
傷だらけの残党二体。俺たちなら一分で片付く。
だが——
負傷した魔人兵が、最後の力を振り絞った。
闇の弾が——至近距離で放たれた。
俺の右手に、直撃した。
「——っ!」
熱い。
違う。熱いなんてものじゃない。
右手の内側で、何かが弾けた。
押さえ込んでいた蓋が——吹き飛んだ。
「あ——」
右手が、黒い光に包まれた。
俺の意志じゃない。
止められない。
手の甲から指先まで、闇とも違う深い黒が脈打つように広がっていく。握りしめた剣の柄が黒く染まり、刀身に闇の紋様が這い上がった。
空気が変わった。
周囲の気温が下がったような、重くなったような——闇の気配が、俺の右手から溢れている。
魔人兵が硬直した。
攻撃を当てた側の魔人兵が、目を見開いて後退った。
——怯えている。
闇種族の兵士が、俺の右手を見て、怯えている。
「今だ」
ガルドが動いた。
硬直した魔人兵に大斧の《ブリッツ》を叩き込む。一撃で沈んだ。
フィルの《サイレントエッジ》が、もう一体の胸を貫いた。
二体とも倒れた。
戦闘は終わった。
だが——
俺の右手は、まだ光っていた。
黒い光が脈打っている。消えない。消そうとしているのに、消えない。
指を開いたり閉じたりした。力を込めた。意志で押し込もうとした。
ゆっくりと——光が薄れていく。
手の甲の黒い紋様が、滲むように消えた。
剣の柄から闇が引いていく。
刀身が元の銀色に戻った。
消えた。
右手を見つめた。
もう光っていない。熱もない。
何事もなかったかのように——だが、さっき起きたことは消せない。
顔を上げた。
全員が、俺を見ていた。
ガルドが大斧を下ろしたまま、鉄灰色の目で俺を見ている。
表情は読めない。
ベルが腕を組んで立っていた。
いつもの飄々とした色が消えている。目だけが鋭い。
フィルが杖を握ったまま固まっていた。
耳の先端が震えている。
ヴィーナが紫色の瞳を伏せていた。
驚きではなかった。もっと静かな——覚悟のような色。
リーナが。
リーナの目が、俺の右手を見ていた。
あの夜から——いや、もっと前から。
気づいていたのだ。ずっと。
驚きはなかった。
代わりにあったのは——悲しみ、だった。
「レイン——」
リーナが口を開きかけた。
コロルが、俺の肩で震えていた。
だが——離れなかった。震えながら、俺の首元に顔を押しつけている。
誰も、口を開かなかった。
林の中に風が吹いた。
木漏れ日が地面に揺れている。
穏やかな朝だった。
穏やかな朝の中で——俺は仲間の前に立っていた。
右手の闇を、見られた。
何を言えばいい。
何を言っても、さっきの光は消せない。
沈黙が、重い。
俺の右手は——もう、震えていなかった。
震えるまでもなかった。
見られた。
全員に。




