嵐の前
翌朝のギルドは、昨日とは別の場所のようだった。
酒を片手にだべっていた冒険者たちが、地図を囲んで真剣な顔をしている。
ギルドマスターのオーゲンが広間の中央に立った。
「防衛線を三段に敷く。第一線は西門、第二線は中央広場、第三線は東門——最終退避ラインだ。各パーティの配置を伝える」
壁に張り出された配置図を見る。
「レインのパーティは西門の第一防衛線だ」
ざわめきが起きた。
第一線。最も敵に近い位置。
「お前たちは偵察隊と実際に交戦した唯一のパーティだ。敵の動き、編成、撤退のパターンを知っている。その経験は何物にも代えがたい」
他のパーティの視線が集まっていた。
期待と不安が混じっている。E級パーティが最前線——普通なら不安しかない。
だが、俺たちは闇種族と戦って勝っている。
それが、ここにいる理由だ。
「了解しました」
背筋を伸ばして答えた。
隣でベルが小さく頷いた。
* * *
午前中から、全員が動いた。
ガルドは西門の武器庫に籠もっていた。
「——刃が甘い。研ぎ直す」
俺の剣を手に取り、砥石を走らせる。
火花が散った。鍛冶師としてのガルドの手つきは、戦場での大斧とはまるで違う。繊細で、正確で、迷いがない。
「ガルドさん、自分の斧は?」
「自分のは最後だ」
フィルの杖の金具を締め直し、ベルのクロスボウの弦を張り替え、リーナの杖の先端を磨いた。
全員分。
一つの手抜きもなく。
ベルは西門の外に出ていた。
帰ってきた時、地図に書き込みが増えていた。
「西門から三百歩の地点に窪地がある。《シンクホール》と組み合わせれば、前衛の足止めに使えるよ。それから、街道の左手に岩場。クロスボウの射線が通る。あたしの狙撃位置はそこだね」
ベルの指が地図の上を走る。
斥候としての目が、地形を武器に変えていく。
フィルとヴィーナは宿の一室で打ち合わせていた。
「先生、闇魔法への対策は?」
「光属性の防御結界が有効です。《ルミナスシールド》を広範囲に展開できれば闇魔法の威力を削げますが——私の光魔法は7級。展開範囲に限界がありますわ」
「レインの光魔法は?」
「8級です。防御結界を張るには力不足。ですから、私が結界を張り、レインくんとフィルくんは結界の内側で攻撃に専念する形が現実的でしょう」
フィルが腕を組んだ。
「《ダークヴェイル》——昨日のあの闇の壁、もう一回来たら厄介だ。でも先生が言ってた通り、連続使用はできない。一発目を凌いで、二発目の前に畳み込む」
「ええ。フィルくんの《サイレントエッジ》は無音で飛ぶ分、回避が遅れます。二発目に使いましょう」
「了解」
フィルの目が真剣だった。
普段の強がりが消えている。戦いが近い時、この少年は黙って集中する。
俺も打ち合わせの後、西門の外で風魔法の精度を確かめていた。
《エアシールド》を張り、《ウィンドカッター》を放ち、また張る。
切り替えの速度を上げる。実戦では、一瞬の遅れが命取りになる。
何度も繰り返した。
風の流れが、前より手に馴染む。昨日の戦闘で闇種族の風使いを見たからか——身体が覚えている。
昨日上がったばかりの風6級。《サイレントエッジ》の精度を高めたかった。
フィルが前の戦闘で見せた無音の刃。同じ技が使えるようになったとはいえ、まだフィルほど自在には操れない。
「坊や、稽古かい?」
ベルが偵察から戻ってきたところだった。
「《サイレントエッジ》の練習。まだ精度が甘い」
「へえ。あんたの欲張りは相変わらずだね」
軽い口調だが、ベルの目は鋭いままだった。
リーナは街の薬師から治療用の水と薬草を買い集めていた。
「回復魔法だけじゃ足りないかもしれない。薬草の湿布があれば、魔力が切れた後も応急処置できる」
俺が手伝いに行くと、リーナは腕いっぱいの薬草の束を抱えていた。
「多くないか?」
「足りないよりましでしょ。あんたは怪我しすぎなんだから」
「まだしてないだろ」
「する前提で準備してるの」
言い返せなかった。
* * *
夕方、宿の食堂に全員が集まった。
空気は重い。
明日、明後日——いつ来てもおかしくない。
食事が並んだ。肉の煮込みと硬いパン。いつもと同じ宿の飯だ。
「まあ、飯は食えるうちに食っときな。空腹で戦えるほど若くないんだよ、あたしは」
ベルが煮込みをすくった。
「おばさんは黙ってろよ」
「誰がおばさんだい、チビ助。あんたの三倍は場数踏んでるよ」
「それを自分で言うのがおばさんなんだって」
「……うるさい」
ベルがフィルの頭を小突いた。
フィルが「痛えよ」と笑った。
少しだけ、空気が和らいだ。
ガルドがテーブルの端で、黙って全員の武器を最終確認している。
一本ずつ、手に取り、刃を確かめ、元に戻す。
「ガルド、飯食えよ」
「……後でいい」
言葉は短かったが、手つきは丁寧だった。
食事が半分ほど終わった頃、リーナが隣に座った。
「ねえ、レイン」
「ん?」
「大丈夫?」
「大丈夫だよ。何がだよ」
「……最近のあんた、右手ばっかり見てるよ」
心臓が跳ねた。
リーナの目が、まっすぐ俺を見ている。
心配の色。怒りではない。
「……癖だよ。気にすんな」
笑った。
自分でも分かるほど、下手な笑顔だった。
リーナは何も言わなかった。
目を伏せて、煮込みの残りをすくった。
納得していない。
分かっている。
けれど、今は——言えない。
闇の力のことは。右手が冷たいことは。闇魔法に反応していることは。
仲間に言ったら、どうなる。
俺が——人間じゃないかもしれないなんて、言えるわけがない。
コロルが俺の膝の下から顔を出した。
テーブルの上の肉の欠片を狙っている。
「……お前は気楽でいいな」
コロルに肉をひとかけ分けてやった。
小さな口で夢中でかぶりついている。
リーナが、少しだけ笑った。
「その子、あんたに似てるよ。食い意地が」
「似てねえよ」
「似てる」
いつもの掛け合い。
けれど、リーナの目の奥には、まだ問いが残っていた。
* * *
夜。
部屋に一人。
右手を、開いたり閉じたりした。
冷たい。
昼間は気にならなかったが、静かになると感じる。指先から手首にかけて、微かに——冷たい。
闇の力の残響。
闇種族の闇魔法を受けた時、この手が反応した。
熱くなった。引き寄せられるように。
俺は、何なんだ。
コロルが膝の上から右手に移ってきた。
綿毛が手のひらを包むように寄り添った。
青銀の瞳が、微かに光った。
冷たさが——和らいだ。
「……お前がいると、楽だな」
コロルがキュウと小さく鳴いた。
俺の手の上で丸まって、目を閉じた。
温かい。
この温もりがある限り、まだ大丈夫だと思えた。
廊下に、足音があった。
ヴィーナは、レインの部屋の前で立ち止まっていた。
扉の隙間から灯りが漏れている。
まだ起きている。
伝えるべきだろうか。
レインくんが古代種族であること。コロルのノイズの意味。あの貯蔵庫にレインくんだけが入れた理由。
証拠は揃っている。120年の学識が、結論を導いている。
だが——戦いの前に。
あの少年に、自分が人間ではないかもしれないと告げることの重さ。
ヴィーナはペンダントを握った。
「……今ではない」
廊下を戻る足音は、誰にも聞こえなかった。
* * *
夜が明ける前だった。
叫び声が、街に響いた。
「——西方に火の手! 街道沿いの村が襲われている!」
飛び起きた。
窓を開ける。
西の空が——暗い赤に染まっていた。
火だ。
村が燃えている。
コロルが慌てて肩に飛び乗った。
キュウ、と怯えた声を上げている。
隣の部屋のドアが開く音。廊下を走る足音。
始まった。
俺は剣を掴み、部屋を飛び出した。




