地下に眠るもの
翌朝、ギルドの掲示板に丁度いい依頼があった。
ルーンヘイム東の丘陵地帯に出没する毒蜘蛛の巣の駆除。E級の通常依頼。報酬は銀貨三枚。
「毒蜘蛛の巣か。楽な仕事だね」
ベルが依頼書を摘まみ上げた。
「楽でいいだろ。昨日の鍛錬で身体バキバキなんだ」
フィルが肩を回している。
ガルドの闘技指導がよほど堪えたらしい。
「あんたより坊やのほうがピンピンしてるじゃないか」
「うるせえ。僕はエルフだぞ。筋肉痛の治りが遅いんだよ」
「それ種族関係ある?」
リーナが笑った。
俺も笑った。
身体は正直、少しだるかった。昨日の闘技の鍛錬もそうだが——右手の、あの冷たさが、まだ微かに残っている。
気のせいだと思いたい。
「では参りましょう。良い天気ですし、散歩がてらですわ」
ヴィーナがノートを胸に抱え、すでに歩き出している。
マイペースなのはいつものことだ。
六人で東門を抜けた。
* * *
丘陵地帯に入ると、岩場の隙間に白い糸が張り巡らされていた。
「あたしが先行するよ。罠があるかもしれない」
ベルが身を低くして岩の合間を進む。
足音がほとんどしない。さすが斥候だ。
手信号。——三匹。奥に巣。
「ベルの合図だ。フィル、風で巣を散らせ。蜘蛛が出てきたところを叩く」
「了解」
フィルが手を掲げた。
「《ウィンドカッター》!」
風の刃が巣を切り裂いた。
白い糸が舞い散り、奥から焦げ茶色の蜘蛛が三匹、這い出してくる。
胴体は犬ほどの大きさ。牙から紫色の液が滴っていた。
「前に出る」
ガルドが大盾を構えた。
一匹目が跳びかかる。ガルドの《アイアンガード》が光り、盾ごと弾き返した。
蜘蛛が地面に転がる。
俺が踏み込んだ。
《スラッシュ》で胴を薙ぐ。甲殻が割れ、蜘蛛が動かなくなった。
二匹目がリーナに毒液を吐いた。
「《アクアシールド》!」
水の壁が毒液を弾く。
跳ね返った毒液が蜘蛛自身にかかり、悲鳴のような音を立てて丸まった。
「……自分の毒で?」
「毒蜘蛛の甲殻は自分の毒に弱いんだよ。知らなかったかい、坊や」
ベルが短剣でとどめを刺した。
三匹目は逃げようとしたが、ヴィーナの《ヘイスト》で加速したガルドの斧が追いついた。
あっけなく終わった。
「……素材を回収する」
ガルドが無言で蜘蛛の甲殻を剥ぎ始めた。
「六人がかりでE級依頼だからな。当たり前だぜ」
フィルが胸を張っている。
巣の残骸を《フレイムアロー》で焼き払い、依頼完了——のはずだった。
* * *
「ちょっと待ちな」
ベルが巣の奥を指した。
蜘蛛の糸で覆われていた岩壁の一部が、焼け落ちた糸の下から露わになっている。
岩壁に——文字が刻まれていた。
「これは……」
ヴィーナが息を呑んだ。
ノートを抱えていた手が震えている。
「古代語です。間違いありません」
岩壁をよく見ると、文字だけではなかった。
岩の合間に、人が一人やっと通れるほどの隙間がある。蜘蛛の糸に完全に覆われていたから気づかなかったのだ。
「穴蔵……いえ、保管庫でしょうか。蜘蛛の巣の裏に隠れていたようですね」
ヴィーナの目が学者の目になっていた。
紫色の瞳が、暗い隙間の奥を見つめている。
「入ってみるかい?」
ベルが軽く言った。
だが目は慎重だ。未知の空間に飛び込む斥候の目。
「ベルさん、まず入口だけ確認できますか」
「了解」
ベルが隙間に近づいた。
一歩、二歩——
「っ——」
足が止まった。
ベルが額を押さえている。
「……頭が痛い。嫌な感じだね」
「ベル?」
「入口に近づくと圧がかかる。あたしだけかい?」
フィルが一歩踏み出した。
「僕も——うっ、何だこれ。変な圧がある」
額を押さえて後ずさった。
エルフの魔力感度が高いのか、フィルの反応はベルより強い。
リーナが近づく。
「なんだか頭が重い……。ちょっと、これ普通じゃないよ」
ガルドが無言で一歩踏み出し——
「……頭に来る」
短く吐き捨てた。
怒っているのか頭痛なのか判断に困る言い方だった。
「ヴィーナさんは?」
「私も……軽い頭痛がしますわ」
ヴィーナが眉を寄せた。
だがその目は、苦痛よりも好奇心のほうが勝っていた。
「レインくん。あなたは——何も感じませんか?」
「え?」
俺は入口のすぐ横に立っていた。
みんなが額を押さえている中、何も感じない。頭痛もないし、圧も感じない。
「いや、別に……何ともないけど」
五人の視線が俺に集まった。
「なんで僕がダメでレインが平気なんだよ」
フィルが悔しそうだ。
「坊やだけ平気なのかい。変わった体質だねえ」
ベルが軽く流したが、目の奥は笑っていなかった。
ヴィーナが古代文字を見つめていた。
何か考えている——けれど、口に出さなかった。
「レインくん。奥を見てきてもらえますか。無理はしないでください。崩落の危険もあります」
「わかった」
「あんた一人で大丈夫なの?」
リーナが俺の袖を掴んだ。
目が心配そうだ。
「大丈夫だよ。すぐ戻る」
袖を離してもらい、隙間に身体を滑り込ませた。
* * *
暗かった。
だが、壁に埋め込まれた石が淡い光を放っていて、完全な闇ではない。
古代の照明術だろうか。
隙間を抜けると、小さな空間が広がっていた。
大人が五、六人立てる程度。天井は低く、岩壁には古代文字がびっしりと刻まれている。
空気が違う。
外の土と草の匂いではなく、古い石と、微かに甘い匂い。長い時間、閉じ込められていた空気だ。
部屋の中央に、台座のようなものがあった。
その上に——壊れた容器が転がっている。
硝子に似た素材だが、硝子ではない。内側から何かが破って出たように、破片が散乱していた。
そして、台座の影に。
灰白色の綿毛。
手のひらに乗るほどの大きさ。
丸まって動かない。
死んでいるのか——いや。
微かに、綿毛が上下していた。
息をしている。
俺はしゃがみ込んだ。
「おい……大丈夫か」
触れた。
綿毛は冷たかった。体温がほとんどない。
弱っている。
この容器の中にいたのか。どれだけの間、ここにいたんだ。
ガラス玉のような瞳が、薄く開いた。
青銀色。
暗闇の中で、宝石のように光っている。
その瞳が、俺を見た。
ぷるぷると、小さな身体が震えた。
寒いのか。怯えているのか。
放っておけなかった。
両手で包み込むように持ち上げた。
軽い。あまりにも軽い。
「……あったかくしてやるから。待ってろ」
胸元に寄せた。
その瞬間——
綿毛が、微かに光った。
青銀の瞳と同じ色の、淡い光。
綿毛全体がぼんやりと輝いて、すぐに消えた。
そして——
右手が、温かかった。
昨日からずっと残っていた冷たさ。
闇の力の残響。仲間にも言えない、あの嫌な感覚。
それが——消えていた。
綿毛の温もりが、掌から腕を伝って、指先まで届いている。
「……温かい」
声が、思わず漏れた。
綿毛が、俺の親指にすり寄った。
弱々しいが——確かに、生きている。
「……連れて帰るぞ」
綿毛を胸に抱えたまま、隙間を戻った。
* * *
外に出ると、五人が待っていた。
「レイン!大丈夫?」
リーナが駆け寄った。
「ああ。中に小さな部屋があった。壊れた容器と——こいつがいた」
胸元の綿毛を見せた。
「……何これ。生き物?」
「かなり弱ってる。容器の中にいたみたいだ」
「魔獣か?」
ガルドが目を細めた。
「……敵意はない」
自分で言って、確信があった。この綿毛に害意がないことは、触れた瞬間にわかった。
「ふむ……」
ヴィーナが綿毛を覗き込んだ。
紫色の瞳が真剣だ。
「文献の記述に似ています。ですが、断定はできません。保存容器に入っていたということは、誰かが意図的にこの子を封じていた——あるいは、守っていた」
「守っていた?」
「外界から隔離して生き延びさせるための保存術は、古代文献に記述があります。ただ、実物は見たことがありません。もし本物なら……」
ヴィーナが言葉を切った。
続きを飲み込んだようだった。
「先生、正体がわかるのかい?」
「……まだ何とも。宿に戻って文献と照合してみないと」
ベルの問いに、ヴィーナは首を横に振った。
学者としての誠実さが、安易な断定を許さないのだろう。
「とりあえず、弱ってるんだ。連れて帰っていいか?」
「ええ。むしろ、お願いしますわ。この子をこのまま放置するわけにはいきません」
綿毛が俺の胸元で丸まっている。
さっきより少しだけ、温かくなった気がする。
「それと——レインくん」
ヴィーナが隙間の入口に向き直った。
「少しだけ、壁の文字を写させてください」
頭痛をこらえながら、ヴィーナが入口ぎりぎりまで近づいた。
崩れかけた岩壁の古代文字を、ノートに丁寧に写し取っていく。
フィルが心配そうに見ている。
「先生、無理すんなよ」
「あと少し……あと少しだけ……」
数分後、ヴィーナが離れた。
額に汗が浮かんでいる。
「……ありがとうございます。これで十分ですわ」
ノートに目を落とした。
紫色の瞳が、見開かれた。
「この文字が正しければ、ここは——」
息を呑む音が聞こえた。
「500年前に封じられた場所です」
誰も、すぐには言葉を返せなかった。
500年。
光種族と闇種族の戦いが始まったのと、同じ時代。
風が吹いた。
丘陵地帯の草が揺れる。
俺の胸元で、綿毛が小さく身じろぎした。
弱々しい——けれど、確かに生きている温もり。
右手は、まだ温かかった。




