鍛錬と秘密
朝、宿の裏手でガルドの拳が空を切った。
重い一撃。
空気が裂ける音が、朝靄の中に響いた。
「これが《ストライク》だ。見たか」
「……もう一回お願いします」
フィルが食い入るように見つめている。
昨夜の「明日教えてやる」を、ガルドは律義に守った。
俺も横で見ていた。
ガルドの《ストライク》は、剣技とはまるで違った。
剣は腕で振る。拳は——全身で打つ。
足の裏から地面を踏みしめ、膝、腰、肩、肘、拳と力を伝えていく。
一瞬で全身の力が拳の一点に集まる。
「……フィル、お前からやれ」
「え、僕? 僕は魔法使いだぞ」
「魔法が使えない時にどうする。接近されたら死ぬぞ、小僧」
フィルが黙った。
痛いところを突かれたのだ。
フィルが拳を構えた。
華奢なエルフの腕。筋肉は少ない。
振り抜いた。
「……手首が折れる。力を入れるな。体重を乗せろ」
「力を入れないで体重を乗せるって、意味わかんないんだけど」
「考えるな。身体で覚えろ」
ガルドがフィルの拳の位置を、太い指で直した。
意外なほど丁寧な手つきだった。
「次、レイン」
「はい」
構えた。
ガルドの目が、じっと俺の姿勢を見ている。
「……お前はダークドワーフとの戦いで拳を使ったな」
「咄嗟にやっただけです」
「咄嗟が良い。頭で考えた拳は遅い」
ガルドが俺の前に立った。
「俺の腹を打て。全力で」
「え——」
「遠慮するな。ドワーフの腹は鎧より硬い」
言い切った。
仕方なく、腰を落とし、右拳を引いた。
踏み込む。
腰を回し、肩を押し出し、拳を突き出した。
ガルドの腹に当たった瞬間、手が痺れた。
「っ——硬い……!」
「悪くない」
ガルドが顎髭を撫でた。
「だが腰の回転が足りん。もう一度」
何度も打った。
十回、二十回。
汗が滴る。拳の皮が赤くなる。
「……ガルドさん、痛くないんですか」
「……少し効いた」
少しかよ。
「レインは筋がいいね。さすが闘技の級位持ちだ」
ベルが壁にもたれて見物していた。
「まだ9級だ。これからだ」
ガルドが短く言った。
フィルが横で自分の拳を見つめている。
悔しそうだった。
「フィル、お前も続けろ。魔力切れの時、この拳が命を救う」
「……わかったよ」
素直だった。
ガルドの言葉には、有無を言わせない重みがある。
昼近くまで打ち込んだ。
腕が上がらなくなった頃——視界の端が光った。
俺のステータスウィンドウが、勝手に開いている。
```
——世界システムより通知——
対象: レイン・アルシード
【闘技が8級に昇格しました】
【新技能を付与: スピンキック】
```
```
名前: レイン
種族: 人間
【技能】
剣技: 6級
闘技: 8級 ★UP
火魔法: 7級
水魔法: 8級
風魔法: 7級
土魔法: 8級
光魔法: 8級
闇魔法: ---
【使用可能技】
スラッシュ / スティング / ツインアーク / ソニックエッジ / ストライク / スピンキック / フレイム / フレイムアロー / フレイムウォール / アクアショット / アクアシールド / ウィンドカッター / ヘイスト / エアシールド / ロックショット / アースウォール / ライトボール / ルミナスシールド
```
「お、坊やの闘技が上がったね」
ベルが口笛を吹いた。
「《スピンキック》か。回転蹴り——まだ早いが、覚えておけ」
ガルドが短く言ったが、鉄灰色の目が少しだけ柔らかくなっていた。
「ちょっと——僕はまだ9級にもなってないのに!」
フィルが悔しそうに拳を握っている。
「お前は魔法を磨け。闘技は保険だ」
「……わかってるよ」
俺は通知を閉じた。
8級。《スピンキック》はまだ身体で試していないが——ガルドに教わった拳が、少しだけ身体に馴染んだ気がした。
* * *
午後、依頼を受けた。
南西の丘陵地帯に出没する大型の魔獣——ランドグリフ。
翼があるが飛べない。代わりに脚力が凄まじく、馬より速く走る。
D級上位の依頼だ。
「ランドグリフは素早い。囲い込みが必要だね」
ベルが地図を広げた。
「ガルドとレインが前衛で壁を作り、フィルとヴィーナが左右から魔法で退路を塞ぐ。リーナは回復待機。あたしが背後に回り込む」
「僕とヴィーナで挟むのか」
「そう。チビ助は《ウィンドカッター》で退路を塞いで。先生は——」
ベルがヴィーナに向いた。
「接敵前に前衛に《ヘイスト》をかけて。馬より速い相手だ、初速が命だよ。あとは風の盾で獣の突進を逸らす仕事。先生の《エアシールド》は形を変えて方向を誘導できるんだろ?」
「ええ。お任せください」
ヴィーナが頷いた。
「もう一つ。接敵前に《サイレントエッジ》で音を消せるかい? ランドグリフは聴覚が鋭い。足音で逃げられたら追いつけない」
「《サイレントエッジ》は本来、真空の刃を飛ばす攻撃技ですが——術の本質は空気の振動を断つこと。応用すれば、一定範囲の音を吸収できますわ」
ベルが口角を上げた。
「頼りにしてるよ、先生」
丘陵地帯に着くと、ベルが痕跡を辿った。
「爪痕と羽根が散乱してる。巣が近い」
ヴィーナが右手を軽く振った。
「《サイレントエッジ》——広域展開」
音が消えた。
六人の足音も、風に揺れる草の音も、全てが沈黙に呑まれた。
フィルの目が見開かれている。攻撃技をこう使うのかと驚いたのだ。
ベルが無音の中を進む。
手信号で指示を出す。
茂みの向こうに、灰色の毛皮が見えた。
鷲のような頭部に、獅子の身体。退化した翼。
まだ気づいていない。
ベルの手信号。——展開。
ヴィーナが音の消去を解き、即座に詠唱した。
「《ヘイスト》」
風がガルドと俺を包んだ。
身体が軽くなる。足の裏から加速が始まる。
ランドグリフが顔を上げた。
「今だ——!」
ガルドが大盾を構えて突進した。
《ヘイスト》の加速が乗った重戦士の突進。地面が揺れる。
ランドグリフが本能的に横に跳んだ。
速い。馬以上の速度で地面を蹴り、逃走を図る。
「逃がさないよ——フィル!」
「《ウィンドカッター》!」
フィルの風の刃が、逃走方向の地面を抉った。
ランドグリフが足を止め、方向を変える。
反対側からヴィーナが動いた。
「《エアシールド》」
風の盾が展開された。
だが普通の使い方ではない。盾の形を斜めに変形させ、壁のように立ちはだかる。
ランドグリフが風の壁に突っ込んだ。
弾かれはしない。だが進路が逸れた——ガルドの正面に誘導されていく。
「……止める」
大盾と突進が正面からぶつかった。
衝撃で土煙が上がる。
ガルドの足が後退する——が、三歩で止めた。
「《アイアンガード》!」
全身が硬化し、ランドグリフの爪を弾いた。
俺が横から斬り込む。
《ヘイスト》の余韻が残っている。いつもより半歩速い踏み込み。
《ツインアーク》で首筋を狙った。
硬い。
毛皮の下に鎧のような筋肉がある。
ランドグリフが首を振り、俺を弾き飛ばそうとした。
その瞬間——
身体が勝手に動いた。
ランドグリフの首が右に振れる。
それが、見える前にわかった。
半歩引いて回避し、無防備になった脇腹に《ソニックエッジ》を叩き込んだ。
剣圧が毛皮を裂き、血が飛んだ。
「ナイス回避!」
ベルの声が聞こえた。
けれど、俺の中で冷たいものが走っていた。
今の——何だ。
闇の力で、敵の動きが読めた。
あの森でダークエルフの闇魔法の軌道が読めたのと、同じ感覚。
魔獣に闇の力はない。なのに、動きの「流れ」が見えた。
胸の奥が、微かに疼いている。
「レイン! ぼーっとするな!」
フィルの声で我に返った。
ランドグリフが体勢を立て直し、再び走り出そうとした。
「《エアシールド》!」
ヴィーナが再び風の壁を張った。
今度は獣の正面——退路を完全に塞ぐ配置。
風に押し戻されたランドグリフの背後に、ベルが回り込んでいた。
短剣が後脚の腱を斬る。
ランドグリフが体勢を崩した。
「今だ!」
ガルドの戦斧と俺の剣が、同時に首と胴を打った。
ランドグリフが崩れ落ちる。
静寂。
「……やったか」
フィルが息を切らしている。
「いい仕事だったよ、チビ助。先生も」
ベルがフィルとヴィーナの肩を叩いた。
「先生の《サイレントエッジ》、あれは使えるねえ。接敵前に音を消せるのは斥候としちゃ夢みたいだよ」
「お役に立てたなら嬉しいですわ。ふむ、攻撃技の補助運用はまだまだ研究の余地がありますね……」
ヴィーナがノートを取り出しかけて、思い直したように胸に戻した。
「《エアシールド》で獣の進路を操るのも、昨日のヴィーナさんの風の使い方ですよね。直接攻撃するんじゃなくて、相手の動きを操る」
リーナが感心していた。
「力で勝てない相手には、頭で勝つのです。120年の知識があっても、体力ではガルドさんの足元にも及びませんから」
ヴィーナが微笑んだ。
ガルドが鼻を鳴らした。
否定ではなかった。
俺は右手を見下ろしていた。
さっきの感覚。
闇の力とは関係ない——はずだ。ただの勘かもしれない。
けれど、あまりにも鮮明だった。
敵の動きが、まるで予告されたかのように見えた。
「レイン、どうした」
ガルドが俺を見ていた。
「……何でもないです。ちょっと集中しすぎただけで」
「……そうか」
ガルドの鉄灰色の目が、一瞬だけ鋭くなった。
けれどそれ以上は聞かなかった。
嘘をついている自覚があった。
仲間に嘘をつくのは、胸が痛い。
けれど、本当のことはもっと言えない。
* * *
帰り道、ヴィーナがフィルの隣を歩いていた。
「フィルくん。さっきの《ウィンドカッター》ですが——」
「何だよ」
「風の収束を、もう少し遅らせてみてください。刃を形成してから射出するのではなく、射出しながら形成する」
「射出しながら? そんなことしたらバラバラにならないか」
「なりません。風は空気の流れです。流れに逆らわず、流れの中で刃を作る。そうすれば——」
ヴィーナが右手を軽く振った。
かすかな風が吹いた。
木の葉が三枚、綺麗に切れて落ちた。
「——速度と精度が、同時に上がります」
フィルの目が見開かれた。
「……やってみる」
素直だった。
初めて、ヴィーナの助言を正面から受け入れた。
ヴィーナが微笑んだ。
嬉しそうだった。
「それから、もう一つ。私の研究で面白い記録が見つかりました」
ヴィーナが全員に聞こえるように声を上げた。
「古代文献に、属性の境界を超えた融合術の記録があるのです」
「融合術?」
「ええ。異なる属性の魔法を同時に発動し、一つの術として融合させる技術です。ただし、融合する属性の全てに適性がなければ制御できず暴走する——とあります」
「つまり、火と風を融合させたかったら、火と風の両方に適性が必要ってこと?」
フィルが首を傾げた。
「その通りです。属性の数が増えるほど制御は難しくなります。三属性以上の融合は、文献上も成功例がほとんどありません」
三属性以上の融合。
俺は全属性に適性がある。火も、水も、風も、土も、光も——
「僕だって火と風の二属性持ちだ。融合術、やってみたいな」
フィルの目が光った。
「お、チビ助やる気じゃないか。坊やも火と風持ってるし、二人で試してみたら?」
ベルが軽く言った。
「理論上は可能ですが、無闇に試すのは危険ですわ。まずは属性ごとの制御精度を上げてから」
ヴィーナが釘を刺した。
けれどその紫色の瞳が、一瞬だけ俺を見た。
さりげなく——けれど確実に。
二属性なら他にもいる。だが全属性に適性を持つ者は——。
この人は、その先を知っている。
「もっとも、融合術の実践記録は一つも残っていません。理論だけです。興味深い理論ですが」
ヴィーナがノートを閉じた。
夕暮れの光が、六人の影を長く引いている。
仲間と歩く帰り道は、いつだって温かい。
けれど俺の右手だけが、微かに冷たかった。




