揺れる心
目が覚めて、最初に右手を見た。
何も変わっていない。
いつもの手だ。傷と剣ダコだらけの、冒険者の手。
昨日の黒い光は、夢だったのかもしれない。
そう思おうとした。けれど指先に残る痺れが、夢ではないと告げていた。
フィルはまだ眠っている。
ガルドのベッドはすでに空だった。早朝から鍛冶道具の手入れをしているのだろう。
顔を洗い、階下に降りた。
* * *
食堂にはリーナが先に来ていた。
パンと干し肉を並べている途中で、俺に気づいて手が止まった。
「……おはよ」
「おはよう」
短いやり取り。
いつもなら「遅い」とか「寝癖ひどいよ」とか、一言余計なことを言ってくる。
今日は、それがない。
昨日の「なんでもない」が、まだ刺さっているのだ。
俺のせいだ。
リーナは心配してくれたのに、俺が突き放した。
理由を話せないから。話したら、余計に心配させるから。
「……リーナ」
「なに」
「昨日は、ごめん」
リーナの手が止まった。
干し肉を皿に並べる動きが、一瞬だけ。
「……別に。怒ってないよ」
声は平坦だった。
でも、眉間に薄くシワが寄っている。怒っている時の顔だ。
「嘘つくなよ」
「嘘じゃないし。あんたが話したくないなら、無理に聞かない」
リーナが皿を突き出した。
「はい、朝ごはん。食べな」
話は終わり、という顔だった。
受け取った。
パンを齧る。味がしない。
リーナは向かいの席に座り、自分のパンを千切りながら食べている。
ちらりとも俺を見ない。
怒ってないわけがない。
けれど、聞かないと決めてくれたのだ。
それが、余計に胸に刺さった。
* * *
午前中、ギルドに依頼を探しに行った。
掲示板の前でフィルが背伸びして依頼書を見ている。
「魔物退治……薬草採取……護衛……。どれも簡単すぎるな」
「六人パーティでD級依頼をこなし続けてるからね。そろそろC級を受けてもいいんじゃない?」
ベルが腕を組んだ。
「C級はまだ早いだろう」
ガルドが低い声で言った。
「何言ってるのさ。ガルドの実力ならC級なんて楽勝じゃないか」
「……俺じゃない。小僧とリーナのことだ」
「僕をバカにしてるのか!?」
フィルが振り返った。
「バカにはしてない。経験が足りんと言っている」
ガルドの鉄灰色の目がフィルを見下ろした。
威圧はない。ただ事実を述べている。
「……くっ」
フィルが唇を噛んだ。
悔しいが、反論できないのだ。
「ま、焦んなって。チビ助はまだ伸び盛りだよ」
ベルがフィルの頭を小突いた。
依頼を一つ受け、午前中に片づけた。
街道沿いの魔物駆除。六人でやるには物足りなかったが、身体を動かすのは気分転換になった。
右手のことは、考えないようにした。
考え始めると、指先の痺れが蘇ってくる。
* * *
昼過ぎ、宿に戻ると、ヴィーナが食堂で紅茶を淹れていた。
ノートを広げ、何かを読み返している。
俺に気づいて、にこりと微笑んだ。
「レインくん。午後、お時間ありますか?」
「何かありますか」
「あの遺跡の周辺をもう少し調べたいのです。入口の石柱の碑文を、もう一度精査したくて」
前回の遺跡だ。
レインがいないと中に入れない——あの遺跡。
「護衛が必要なら、全員で——」
「いえ、入口周辺だけですので。大人数は必要ありません。レインくんと二人で充分です」
ヴィーナの紫色の瞳が、穏やかだが意図を含んでいた。
調査だけが目的ではない。
それはわかっていた。
「……わかりました」
北東の森を歩いた。
前回は六人で賑やかだったこの道が、二人だと静かだ。
鳥の声と、木漏れ日の音だけが落ちてくる。
ヴィーナはノートを片手に、時折立ち止まっては木の根元の苔を観察していた。
「ふむ。この苔の分布、前回より広がっていますね。遺跡の魔力が地下水脈を通じて……」
森の奥に入るにつれ、空気が変わった。
木々の間に、うっすらと紫がかった霞が漂っている。
「瘴気ですわね。遺跡の魔力が地表に滲み出しているのでしょう」
ヴィーナが足を止めた。
「体に障りはありませんが、念のため——《ピュリファイ》」
ヴィーナの手から淡い光が広がった。
俺たち二人を包む柔らかな光。肺の中のわだかまりが、すっと消える。
光魔法の浄化技。洞窟で毒霧を浄化した時と同じ技だ。
「これで安心ですわ。効果はしばらく持続します」
何でもない顔で杖を収め、またノートに書き込み始めた。
この人にとっては、日常の一部なのだ。魔法は研究道具の延長でしかない。
「ヴィーナさん」
「はい?」
「昨日の話の続きを聞かせてください」
ヴィーナが立ち止まった。
紫色の目が、俺を真っ直ぐ見た。
「……いいですよ」
ゆっくりと歩きながら、ヴィーナが話し始めた。
「古代種族という存在がいたことは、一部の学者の間では知られています。ですが、文献が極端に少ない。遺跡にも入れない。研究が進まないのです」
「入れない?」
「ええ。あの遺跡で、ベルさんやフィルくんが弾かれたでしょう? 光種族が近づくと拒絶される。闇種族も同様です。どちらも排除される」
つまり、光でも闇でもない者だけが入れる。
「古代種族は、光と闇の両方を使えたと言われています。もし500年前に滅びたはずのその種族が——仮に、今も存在していたら」
ヴィーナの声が静かになった。
「世界は、変わるかもしれません」
足が止まった。
ヴィーナが俺を見ている。
学者としての好奇心と、それとは別の——温かいような、心配するような目。
「……俺のことを言ってるんですか」
「仮説です。確証はありません」
「昨日、ヴィーナさんは言いましたよね。俺の中にあるものは、いずれ隠し通せなくなるって。——それは、どういう意味ですか」
ヴィーナの足が止まった。
紫色の瞳が、ほんの一瞬だけ揺れた。
「レインくん。仮に、あなたの中に普通とは違う力があったとして——それはあなた自身を否定するものではありません」
風が吹いた。
木の葉が揺れ、木漏れ日が二人の間を流れた。
「あなたの剣も、仲間を想う気持ちも、全てあなた自身のものです。それだけは忘れないでください」
答えられなかった。
けれど、胸の奥にあった重さが、ほんの少しだけ軽くなった気がした。
遺跡の入口で、ヴィーナは碑文のスケッチを取り直した。
俺が近づくと文字が光り、離れると消える。
何度やっても同じだった。
「やはり、あなたにしか反応しない。ふむ……興味深い」
ヴィーナが嬉しそうにノートに書き込んでいる。
学者の顔に戻っていた。
さっきの真剣な空気が嘘のように。
この人は、こういう人なのだ。
真剣な話の後でも、知識欲の前では子供のように目を輝かせる。
不思議と、安心した。
* * *
帰り道、陽が傾き始めていた。
「少し急ぎましょうか。《ヘイスト》」
ヴィーナが手をかざすと、風が足元を包んだ。
歩幅が自然と広くなる。身体が軽い。
「戦闘以外でも使えるんですね」
「補助魔法は生活魔法でもありますから。荷物が重い日は重宝しますわよ」
くすりと笑った。
120年の研究者生活で培った、実用的な魔法の使い方。
宿に着く頃には、夕暮れの光が街を染めていた。
* * *
六人で卓を囲む。
昨日とは違い、いつもの賑やかさが戻りつつあった。
ベルが酒場で拾った噂話を披露し、フィルがガルドに闘技の話を聞いている。
「ストライクってどうやるんだ。拳に力を込めるだけじゃないのか」
「……違う。体重を拳に乗せるんだ。全身の力を、一点に」
「一点に?」
「明日、教えてやる」
フィルの目が輝いた。
闘技に興味があるらしい。ガルドも、言葉は少ないが教えること自体は嫌がっていない。
ヴィーナは紅茶を淹れながら、ノートに何かを書いている。
リーナが煮込みを全員の皿に盛った。
俺の皿だけ、少し量が多い気がした。
「……ありがとう」
「別に。余っただけ」
素っ気ない声。
けれど、量を間違えるリーナではない。
食事が終わり、片付けを手伝っていた時。
リーナが俺の横に並んだ。
しばらく無言で皿を拭いている。
「ねえ、レイン」
「ん?」
「最近のあんた、少し変だよ」
手が止まった。
「何かあったなら聞かないけどさ。でも——変だよ。表情が」
リーナの緑色の瞳が、俺の顔を覗き込んだ。
「笑ってるけど、目が笑ってない」
返す言葉が見つからなかった。
リーナは待たなかった。
皿を拭き終え、立ち上がる。
「無理に話せとは言わない。でもさ——一人で抱え込むなよ」
振り返らずに、食堂を出ていった。
一人残された。
濡れた皿を手に、立ち尽くしている。
一人で抱え込むな。
俺だってそうしたい。
けれど、俺の中にあるものが、仲間を危険に晒すかもしれないのだ。
あの黒い光が。
闇の力が。
話したら、どうなる。
闇の力を持つ冒険者なんて、聞いたことがない。
光種族が闇魔法に反応するなんて、あり得ないはずだ。
バレたら——冒険者を続けられなくなるかもしれない。
仲間が、巻き添えを食うかもしれない。
だから、言えない。
* * *
夜。
宿の屋根に上がった。
フィルとガルドが寝静まった後、窓から屋根に出た。
冷たい夜風が頬を撫でる。
星空。
ルーンヘイムの夜空は、里と同じくらい星が多い。
街明かりが少ないこの辺境では、天の川がはっきり見えた。
右手を開いた。
星明かりに照らされた、何の変哲もない手。
この手から、闇の力が溢れた。
俺は——何なんだ。
人間じゃないのか。
古代種族の、生き残りなのか。
わからない。
ヴィーナの仮説は、まだ仮説だ。
けれど、遺跡は俺にだけ反応した。
闇の力は、俺の中から湧き出した。
答えはいずれ出る。
避けられない。
だから——
拳を握った。
俺の中に何があろうと、仲間は守る。
それだけは変わらない。
里を出た時に決めたことだ。
冒険者になって、強くなって、大切な人を守る。
闇の力があっても。
人間じゃなくても。
ここにいる理由は、変わらない。
星空を見上げた。
冷たい風が、熱くなった目元を冷ましていく。
屋根の縁から降りようとした時、下の窓からかすかな明かりが漏れているのが見えた。
ヴィーナの部屋だ。
まだノートに向かっている。
かすかに声が聞こえた。
「……彼には、いずれ伝えなければ」
独り言だった。
けれどエルフほどの耳がなくても、夜の静寂には聞こえた。
伝えなければ、何を。
答えは聞こえなかった。
ペンが紙を走る音だけが、夜に溶けていった。




