試しの迷宮
洞窟の入口は、ルーンヘイムから東に半日ほどの丘陵地帯にあった。
苔むした岩壁に、大人が三人並んで通れるほどの穴が開いている。
中から冷たい風が吹き出していた。湿った石と、かすかな魔力の匂い。
「前回の調査隊は第三層で撤退したらしい。全五層」
ベルが依頼書を確認しながら言った。
「戦闘力は問題なかったが、魔法の罠にやられたと。……さて、先生の出番だね」
ヴィーナがノートを胸に抱え、目を細めた。
「楽しみですわね」
「楽しんでる場合かよ」
フィルが呟いた。
ベルが先頭に立ち、洞窟に入った。
* * *
第一層は比較的穏やかだった。
ベルが壁や床を調べながら進む。
三つの落とし穴と、二つの矢の罠を見つけた。どれもベルが触れる前に気づき、無力化していく。
「物理罠はこんなもんさ。踏み板と糸を見れば——」
ベルが足を止めた。
通路の先に、何もない。
罠の気配もない。床も壁も異常なし。
「……おかしいね。ここだけ何もないのは不自然だ」
ベルの琥珀色の目が通路を走る。
けれど、見つからない。
ヴィーナが一歩前に出た。
手をかざし、目を閉じた。
「……ありますね。床に術式が組まれています。踏めば発動する——凍結の魔法陣。物理的な痕跡はありません」
目を開いた。
紫色の瞳に、淡い光が走った。
「壁の角に起点の紋章があります。あれを崩せば術式は解けますわ」
ヴィーナが指差した壁の角に、肉眼ではほとんど見えない小さな紋章が刻まれていた。
「……あたしの目じゃ見つけられないね、こいつは」
ベルが舌を巻いた。
ヴィーナが紋章に触れ、魔力を流し込んだ。
紋章がぱきりと砕け、床の術式が消えた。
「魔法の罠はあたしの領分じゃない。先生、これは頼りにさせてもらうよ」
「お任せください。物理の罠はベルさんに、魔法の罠は私に。よい役割分担ですわ」
ベルが小さく笑った。
それは認めた笑いだった。
* * *
第二層で、通路が三つに分かれた。
左、中央、右。
どの通路も同じように見える。暗く、湿っていて、奥が見えない。
「分岐か。どれが正解だ?」
俺が三つの通路を見比べた。
「ベル、わかるか?」
「風の流れはどれも似たようなもんだね。勘で言うなら左だけど、根拠はない」
ベルが首を振った。
「ちょっと待ってください」
ヴィーナが分岐点の壁を調べ始めた。
苔を払い、指で表面をなぞる。
「……ありました。碑文です」
かすれた文字が壁に刻まれていた。
俺の目には意味のわからない記号にしか見えない。
「古代語ですね。『水の声に従え。流れに逆らう者は石に還る』」
「水の声?」
フィルが首を傾げた。
ヴィーナが目を閉じた。
数秒の沈黙。
「……右の通路から、かすかに水音がします。地下水脈でしょう」
エルフの耳が捉えた、人間には聞こえない音。
「右だ。間違えれば崩落する仕掛けかもしれません。碑文の警告はそういう意味ですわ」
「知識がなきゃ勘で選ぶしかなかったね。前の調査隊が撤退したのも頷ける」
ベルが右の通路に足を踏み入れた。
正解だった。
通路は緩やかに下り、地下水脈の音が近づいてくる。
* * *
第三層に入った途端、空気が変わった。
紫がかった霧が、通路の奥から漂ってきている。
甘い匂い。だが嗅いだ瞬間、頭がくらりと揺れた。
「毒霧だ。吸うな!」
ベルが口元を布で覆った。
全員がそれに倣う。
「前の調査隊はここでやられたんだろうね。戦闘力があっても、これを突破する手段がなきゃ進めない」
霧は分厚く、通路を埋め尽くしている。
風がなければ、ここで引き返すしかない。
「《エアシールド》」
ヴィーナが手をかざした。
風の盾が展開した。
だが、普通の使い方ではなかった。
本来、エアシールドは術者の正面に固定する防御魔法だ。
ヴィーナはそれを前方に押し出しながら、盾の形を平たく変形させていた。
風の壁が通路を横断し、前進するたびに毒霧を左右へ押し退けていく。
中央に、人が歩ける幅の空間が開いた。
「……エアシールドで霧を押し退けてるのか? 防御魔法のはずなのに」
フィルが目を見開いた。
「エアシールドの本質は、空気の壁を作ることです。防御にしか使えないのは、そう教わっているからですわ」
ヴィーナが風の盾を維持しながら答えた。
「盾の形を変え、移動させながら展開すれば——空気を押し出す道具になります。新しい魔法ではありません。既存の技の、使い方の工夫です」
「使い方の工夫……」
フィルが呟いた。翠色の瞳に、何かが灯っていた。
ヴィーナの額に汗が浮いている。
通常より遥かに複雑な制御。楽ではない。だが、維持し続けている。
「急ぎましょう。長くは持ちません」
六人が霧の回廊を駆け抜けた。
ヴィーナが最後尾で風を維持しながら走る。
通路の出口を抜けた。
「少し吸い込んだかもしれません。念のため——《ピュリファイ》」
ヴィーナの手から淡い光が広がり、六人を包んだ。
肺の奥にわだかまっていた重さが、すっと消えた。
光魔法の浄化技。毒や呪いを祓う回復魔法だ。
直後、ヴィーナが膝に手をついた。
息が荒い。エアシールドの応用に続いてピュリファイ。魔力を使いすぎたのだ。
「大丈夫ですか?」
リーナが駆け寄った。
「ええ……少し、やりすぎましたわ」
「ヴィーナさんもヒーリングストリーム使えますよね? でも今は魔力が——」
「お恥ずかしい限りです。お願いできますか」
リーナが手をかざした。
淡い水の光がヴィーナを包む。回復魔法の専門家はやはりリーナだ。
「……ありがとうございます、リーナさん」
疲労が和らいでいくのが、ヴィーナの表情でわかった。
* * *
第四層の奥に、広い空間があった。
中央に石の台座。
その周囲に、三体の石像が立っている。
遺跡の石像とは違う。もっと小さく、人の背丈ほど。
だが——目が光っている。赤い魔力の光。
「来る」
ガルドが大盾を構えた。
石像が動き出した。
三体同時に。
ガルドが先頭の一体を受け止めた。
大盾に石の拳がぶつかり、鈍い音が響く。
俺が二体目に斬りかかった。
《ツインアーク》——刃が石像の腕に当たる。
弾かれた。
「硬い……!」
「《ウィンドカッター》!」
フィルの風の刃も、表面を削るだけ。
「効かないぞ! 遺跡のやつと同じだ!」
三体目がリーナに向かって突進した。
「《エアシールド》!」
ヴィーナの風の盾が展開し、石像の突進を逸らした。
リーナが距離を取る。
「ありがとうございます!」
ヴィーナが石像をじっと見つめていた。
戦いながら——観察している。
「……見えました」
声が飛んだ。
「胸の紋章です! 三体とも胸に魔法の紋章がある。あれが動力源ですわ。紋章を壊せば魔法が解けます!」
「的が小さいな……!」
俺が石像の拳を躱しながら叫んだ。
「あたしに任せな」
ベルの声。
ガルドが石像の拳を大盾で弾いた瞬間、体勢が崩れた。
その胸元に——ベルの短剣が突き刺さった。
紋章が砕けた。
石像の目から赤い光が消え、ただの石に戻って崩れ落ちる。
「坊や、次!」
俺がガルドと挟み込む形で二体目の動きを止めた。
ベルが回り込み、胸の紋章を砕く。
残り一体。
フィルの《ウィンドカッター》が足元を抉り、バランスを崩させた。
俺が踏み込んだ。
紋章の位置は——わかる。ヴィーナが教えてくれた。
《スティング》で胸を貫いた。
紋章が砕け、三体目が崩壊した。
静寂。
六人が荒い息をついている。
ベルが短剣の刃を確認しながら、口笛を吹いた。
「場数がないのは認める。けど、魔物の前でも研究室と同じ目をしてたよ、先生は。石像が暴れてる最中に紋章を読み解くなんて、パニックじゃできない」
ベルが肩をすくめた。
「あたしらだけじゃ前の調査隊と同じだった。それだけで充分さ」
「……予測できん動きをすると言ったが、撤回する」
ガルドが大盾を下ろした。
鉄灰色の目がヴィーナを見ている。さっきまでの険しさはなかった。
「あの石像の前で動じなかった。指示も的確だった。……見誤った」
フィルが腕を組んでいる。
何か言いたそうだが、口を開いては閉じてを繰り返している。
「……魔法の構造を見抜くのは、まあ……すごいと思った。ちょっとだけ」
耳の先端が真っ赤だ。
リーナが微笑んだ。
「ヴィーナさん、毒霧の時も石像の時も守ってくれましたよね。ありがとうございます」
「皆さんあっての私ですわ。罠を見つけるのはベルさん、壁になるのはガルドさん、攻撃はレインくんとフィルくん、回復はリーナさん。私一人では何もできません」
ヴィーナが微笑んだ。
謙遜ではなかった。
この人は、本気でそう思っている。
全員の視線が俺に集まった。
俺は一つ、息を吸った。
「俺からもお願いしたい」
ヴィーナを見た。
「ヴィーナさん。俺にも、あなたが必要です」
遺跡で感じた既視感。球体の記憶。自分が何者なのか、わからない。
「あの遺跡は俺を知っていた。でも、俺には何もわからなかった。碑文を読めるのはヴィーナさんだけだ。俺が何者なのか——一緒に調べてほしい」
ヴィーナの紫色の瞳が、わずかに揺れた。
人差し指が唇に触れかけて——止まった。
「……ええ。喜んで」
静かな声だった。
ベルが手を叩いた。
「じゃ、決まりだ。六人パーティ結成。……大所帯だねえ」
* * *
宿に戻り、六人で夕食を囲んだ。
ダンジョンの興奮が残っていて、いつもより賑やかだった。
ヴィーナは紅茶を自分で淹れている。宿の主人に茶葉を借り、温度を丁寧に調整していた。
「面倒な人だなあ」
フィルが小声で呟いた。
「聞こえていますよ、フィルくん」
フィルが口をつぐんだ。
ベルが六人を見渡した。
「前衛にガルドと坊や、遊撃にあたし、後衛にチビ助と先生と嬢ちゃん。……悪くないね」
ひと月前まで里で一人だった俺が、六人で飯を食っている。
それが、少し嬉しかった。
* * *
夜。
宿の廊下を歩いていると、明かりの漏れる部屋があった。
ヴィーナの部屋だ。
扉が薄く開いていて、中からペンが紙を走る音が聞こえる。
通り過ぎようとして——別の気配に気づいた。
廊下の角に、小さな影が座っている。
フィルだ。
壁に寄りかかり、ヴィーナの部屋から漏れる明かりの中で、一冊の本を膝に開いている。
ヴィーナの魔法書だった。
「……フィル」
「っ!」
フィルが本を背中に隠した。
「ち、違うからな! これはたまたま落ちてたのを拾っただけで——」
「ヴィーナさんの本だろ、それ」
「……拾っただけだって言ってるだろ」
顔が真っ赤だ。
さっき「ちょっとだけすごいと思った」と言ったばかりなのに、素直に教えを乞えないのだろう。
「読みたいなら、直接頼めばいいのに」
「うるさい。僕は別に……ちょっと気になっただけだ」
「そっか」
それ以上は言わなかった。
フィルは俺が通り過ぎるのを待って、また本に目を落とした。
小さな指が、ページをめくる音がした。
ヴィーナの部屋から、かすかな声が聞こえた。
「……フィルくん。読み終わったら返してくださいね」
フィルが凍りついた。
「——聞こえてたのかよ!」
「エルフの耳は良いですから。お互いに」
くすりと笑う声がした。
フィルが真っ赤な顔で部屋に逃げていった。
本は——しっかり持ったままだった。
一人になった廊下で、ヴィーナの部屋の扉がまだ薄く開いているのが目に入った。
覗くつもりはなかった。
だが——机の上に広げられたノートが視界に入ってしまった。
ヴィーナの細い字が、ページを埋めている。
全文は読めない。
だが、見えた一行があった。
『——遺跡の扉が反応した魔力パターン。古代種族の記録と一致——』
古代種族。
あの壁画の。
あの光の球体の。
そして——その下に、俺の名前が書かれていた。
足音を殺して、その場を離れた。
部屋に戻ると、フィルが毛布に包まって寝息を立てていた。
ガルドの静かな呼吸。
ベッドに横になり、天井を見つめる。
古代種族と、俺。
ヴィーナは、何を確信しているのか。
あの遺跡で感じた既視感。
球体に触れた時の光。
石像を倒した時、光の中に混じった黒い筋。
全部、繋がっている気がする。
けれど、その先が見えない。
窓の外で、月が静かに光っていた。




