古代の記憶
壁画の前で、ヴィーナが動かなくなった。
ノートに書き写す手が止まらない。
淡い紫色の瞳が、壁面の隅々を走っている。
「ここに書かれている古代語を、読みますね」
ヴィーナが壁画の下の碑文に指を這わせた。
「『光と闇は元は一つだった。古代種族がそれを統べていた』」
声が静かに響いた。
「『しかし裏切りが起き、種族は滅び、世界は二つに裂かれた』」
裏切り。
滅び。
世界が二つに裂かれた。
「500年前の話ってことか」
ベルが腕を組んだ。
「古代種族が滅びて、光と闇が分かれた——今の世界の始まりだね」
「そうです。ですが、重要なのはここです」
ヴィーナが壁画の中央を指した。
光と闇の両方をまとった人物。
「この壁画が正しいなら、古代種族は光と闇の両方を使えた。今の世界では、光魔法は光種族のみ、闇魔法は闇種族のみ——この分断は、古代種族の滅亡後に起きたということになります」
「つまり、元々は誰でも全部使えたってこと?」
フィルが首を傾げた。
「全員ではないでしょう。おそらく古代種族だけが両方を操れた。他の種族は最初から片方だったのかもしれません。ふむ……これは仮説ですが」
ヴィーナが人差し指を唇に当てた。
考え込む仕草。
「興味深いですね。ええ、非常に」
学者の目が燃えている。
この人は今、間違いなく幸福だろう。
* * *
壁画の部屋を調べ終えた後、さらに奥への通路が見つかった。
「進みましょう」
「ヴィーナさん、危険かもしれません。俺たちが先に——」
「ええ、お願いします。ですが、壁の碑文を見落としたくないので、近くを歩かせてくださいね」
ベルが先行し、俺とガルドが前衛、フィルとリーナが後衛。
ヴィーナは俺のすぐ後ろを歩きながら、壁の文字をノートに書き写している。
通路を進むにつれ、不思議な感覚が強まっていった。
既視感。
この場所に来たことがある——わけがない。
生まれてからずっと里にいて、冒険者になってからまだ半月ほどだ。
なのに、通路の曲がり角を予測できる。
次の部屋の広さがなんとなくわかる。
「レイン? 顔色悪いよ」
リーナが心配そうに覗き込んだ。
「大丈夫。ちょっと変な感じがするだけだ」
「変な感じ?」
「この場所を知ってる気がする。来たことないのに」
リーナの目が揺れた。
何か言いたそうな顔をしたが、口を閉じた。
ヴィーナだけが俺の言葉に反応した。
ノートに何かを書き込みながら、淡い紫色の目が一瞬こちらを見た。
通路の奥に、もう一つの部屋があった。
壁画の部屋より小さい。
中央に石の台座があり、その上に何かが浮かんでいる。
光る球体。
拳ほどの大きさで、白い光と黒い光が混ざり合っている。
「あれは……」
ヴィーナが息を呑んだ。
「古代種族の遺物です。記録媒体——いえ、もしかすると……」
俺は球体に引き寄せられるように歩いていた。
足が勝手に動く。
胸の奥の疼きが、導いている。
手を伸ばした。
「レインくん、待って——!」
指先が球体に触れた瞬間——
頭の中に、何かが流れ込んできた。
映像ではない。音でもない。
けれど確かに、知らない記憶の断片が脳裏を駆け抜けていく。
誰かが泣いている。
誰かが、何かを叫んでいる。
声は聞き取れない。言葉にならない。
——守れなかった。
その一言だけが、はっきりと聞こえた。
俺の声ではない。知らない誰かの、悲痛な叫び。
「——っ!」
手が弾かれるように球体から離れた。
身体が震えている。
額に冷たい汗が浮かんでいた。
「レイン! お前、今——」
フィルの声が裏返っていた。
「光ってたぞ。全身が。白い光に包まれて——」
「それだけじゃない」
ベルの声が鋭い。
琥珀色の目が、俺を射抜くように見ている。
「白い光の中に、黒い筋が走ってた。一瞬だけ。あたしの目が正しければ——闇の色だよ、あれは」
闇。
俺の身体から、闇の光が。
リーナが手で口を覆っている。
緑色の瞳が大きく揺れていた。
ガルドは無言だが、鉄灰色の目が険しい。
腕を組み、俺をじっと見ている。
「レインくん」
ヴィーナの声だけが、静かだった。
驚いていない。
「球体に触れて、何か見えましたか。聞こえましたか」
「……声が、聞こえた。知らない人の声で——『守れなかった』って」
ヴィーナの目が光った。
ノートを取り出し、猛烈な速度で書き始める。
「やはり……記録媒体ではなく、記憶媒体。古代種族の記憶が封じられている」
顔を上げた。
紫色の瞳に、驚きはなかった。
確認だ。
この人は、最初からこうなると予想していたのだ。
その時、部屋が揺れた。
壁の石が動き、通路の奥から巨大な石像が這い出してきた。
人の形をした石の守護者。翡翠のゴーレムと似ているが、もっと精巧で、もっと禍々しい。
石像の目が赤く光った。
「侵入者ヲ排除スル」
石の口から、古代語に似た声が響く。
「来る!」
ベルが叫んだ。
石像が腕を振り上げた。
ガルドが前に出た。
大盾を構え、石像の拳を真正面から受け止める。
鈍い衝撃音が部屋を揺るがした。
「っ……重いな」
ガルドの足が石畳にめり込む。
けれど——止めた。
「坊や、行け!」
ベルの声。
ガルドが押さえている隙に、横から斬り込んだ。
《ツインアーク》を叩き込んだ。
刃が石の表面を削るが、浅い。翡翠のゴーレムの時より硬い。
「関節は?」
「ない。この石像は一枚岩だ!」
ベルが叫ぶ。
「《ウィンドカッター》!」
フィルの風の刃が石像の胴に当たった。
傷がつかない。
「《アクアショット》!」
リーナの水球も弾かれた。
「効かない……! どうすれば——」
ヴィーナの声が、戦闘の轟音の中で響いた。
「この石像は特定の魔法にしか反応しません! 光属性です! 光の力を!」
光属性。
俺のステータスに、光魔法がある。
8級。使ったことは——一度もない。
けれど、技は付与されている。
身体が、知っている。
石像の拳が振り下ろされる。
転がって避けた。床が割れる。
手を伸ばした。
光を——
掌から、白い光が弾けた。
《ライトボール》——名前が、頭に浮かんだ。
照明用の技だ。
敵を照らすための、淡い光の塊。攻撃力なんてない——はずだった。
白い光球が石像の胸に吸い込まれた。
——その光の中に、黒い筋が走った。
白と黒が交差した瞬間、轟音が響いた。
石像の胸から亀裂が全身に広がり、崩れ落ちる。
石の破片が飛び散った。
照明用の技一発で、あの石像が——砕けた。
「《ライトボール》で石像を……!?」
リーナの声が裏返っていた。
おかしい。俺にもわかる。
9級の照明術だ。光の粒を飛ばすだけの技で、石を砕くような威力があるわけがない。
なのに、石像は跡形もなく崩壊した。
あの黒い筋——白い光の中を貫いた、闇の色。あれが何かを変えた。
静寂。
石の破片が床に散らばっている。
埃が舞い上がり、白い光に照らされて宙を漂っていた。
* * *
全員が荒い息をついていた。
ガルドが大盾を下ろす。
盾の表面にひびが入っている。
「……硬かった」
ガルドにしては饒舌だった。
フィルが座り込んでいる。
魔法が効かなかったショックが大きいのだろう。翠色の瞳が沈んでいた。
「レイン、あんた……光魔法使えたの?」
リーナが俺を見ていた。
「ステータスにはあった。使ったのは初めてだけど」
「初めてであれって……」
リーナの声が震えていた。
心配——あの夕食の時に見せた、あの顔だ。
ヴィーナが石像の残骸を凝視していた。
崩れた石を指で触れ、何度も首を傾げている。
「……おかしい」
呟きが漏れた。
「《ライトボール》は9級の照明術です。光の粒を飛ばすだけの技で、攻撃力はほぼありません。それが石像を崩壊させた——これは技の威力ではない」
紫色の瞳が俺を捉えた。
「レインくん。あなたの光に、何か別のものが混じっていました。あなた自身は、気づきましたか」
黒い筋。
あの、光の中を走った闇の色。
「……わかりません」
嘘ではなかった。
気づいたが、理解はできていない。
ヴィーナが俺の前に立った。
淡い紫色の瞳が、真っ直ぐ俺を見ている。
「レインくん。あなたに聞きたいことがあります」
静かな声だった。
学者の冷静さと、それとは別の何かが混じっている。
「あなたの両親は? 出自は?」
「……俺は捨て子だ。何も知らない」
ヴィーナの目が揺れた。
人差し指が唇に触れかけて——止まった。
「……そう、ですか」
何かを確信したような。
けれど、言葉にするのを躊躇うような。
ヴィーナはそれ以上何も聞かなかった。
ノートを閉じ、静かに壁画の方を振り返った。
光と闇をまとった人物の壁画。
そして——さっき、同じ色の光を放った俺。
「帰りましょう。今日はここまでです」
ヴィーナの声は穏やかだったが、ノートを握る手が微かに震えていた。
遺跡を出ると、夕暮れの森が広がっていた。
木漏れ日が金色に輝いている。
帰り道。
ベルが先頭を歩き、ガルドとフィルが続く。リーナが薬草を拾いながらその後ろを歩いていた。
ヴィーナが俺の隣に並んだ。
「レインくん」
静かな声だった。
「古代種族の遺跡は、おそらくこの一つだけではありません。各地に眠っているはずです」
ノートを抱える腕に、少し力がこもっていた。
「そして——どの遺跡も、おそらくあなたにしか開けない。あの扉はあなたの魔力に反応しました。碑文を読めるのは、今のところ私だけです」
紫色の瞳が、真っ直ぐ俺を見た。
「もし一緒に巡ることができたら、あなたの中にあるものが何なのか……答えに近づけるかもしれません」
俺の中にあるもの。
球体に触れた時に流れ込んだ、知らない記憶。
光の中に混じった、闇の色。
返事が、出なかった。
何と言えばいいのかわからなかった。
ヴィーナはそれ以上何も言わず、微笑んだだけだった。
前を歩くリーナが振り返った。
「二人とも、何の話?」
「遺跡の碑文のことですわ。解読が楽しみで、つい」
ヴィーナがさらりと答えた。
リーナは少しだけ目を細めたが、それ以上は聞かなかった。
俺は自分の手を見下ろした。
さっき光を放った手。
何者でもないはずの、捨て子の手。
なのに——この遺跡は、俺を知っていた。
胸の奥の疼きだけが、答えのない問いを繰り返している。




