国境への道
出発の朝は、よく晴れていた。
街の西門をくぐると、街道が真っ直ぐ山の方へ伸びている。
空気が冷たくて澄んでいる。草原の向こうに、大山脈の稜線が霞んで見えた。
「いい天気だね」
リーナが深呼吸した。
荷物を背負ったまま伸びをする。
「天気がいいうちに距離を稼ぐよ。山に入ったら足場が悪くなる」
ベルが先頭に立った。
斥候が前を歩く。訓練で叩き込まれた陣形だ。
俺が中衛、リーナとフィルが後衛。
フィルは出発直後から落ち着かない。
きょろきょろと辺りを見回し、知らない草花を見つけるたびに足を止める。
「おい、フィル。隊列を崩すな」
「わかってるよ! でもこの草、エルフの里にはない種類で——」
「帰りに見ろ」
「……ちぇ」
ベルが小さく笑った。
「子守が増えたね、坊や」
「誰が子守だよ」
「否定しないんだ」
リーナがくすくす笑っている。
フィルだけが何の話かわからず首を傾げていた。
* * *
昼を過ぎると、街道が徐々に上り坂に変わった。
草原が疎らな林に変わり、岩肌が露出し始める。
風が冷たくなった。標高が上がっている。
日が傾く頃、ベルが「ここで野営だ」と道脇の平地を指した。
リーナが荷物から鍋と食材を取り出した。
「あたしが作るから、三人は火と水を頼むね」
俺とフィルで薪を集め、ベルが近くの沢で水を汲んだ。
火を起こすと、リーナが手際よく野菜と干し肉を刻み始めた。
「料理できるんだ」
フィルが感心したように覗き込む。
「冒険者は自炊できないと困るからね。里では誰かが作ってくれてたの?」
「……まあ、そうだけど」
フィルの声が少し小さくなった。
里の食事を思い出したのかもしれない。
煮込みが出来上がると、四人で火を囲んで食べた。
根菜と干し肉のスープ。
塩と少しの香草だけの味付けだが、外で食べると格別に美味い。
「美味い」
フィルが目を丸くした。
「お世辞じゃないぞ。本当に美味い」
「ありがと。フィルくんは素直だね、食べ物の時だけ」
「食べ物の時だけじゃない!」
「食べ物の時だけだよ」
ベルとリーナが同時に言った。
フィルが頬を膨らませる。
火が爆ぜる音。虫の声。風が木の葉を揺らす音。
夜の山道は、街よりずっと静かだった。
食事が終わり、フィルが不意に聞いた。
「レイン。お前、なんで冒険者になったんだ?」
火の粉が夜空に舞い上がった。
フィルの翠色の瞳が、炎に照らされてきらきらと光っている。
「強くなりたかったから」
「それだけ?」
「それだけじゃないな。……俺は捨て子なんだ」
フィルの目が見開かれた。
リーナは知っている話だ。黙ってスープの残りを啜っている。
「小さな里で拾われて育った。親の顔は知らない。里の人たちは優しかったけど、俺だけ違うっていう感覚はずっとあった」
薪が崩れて、炎が揺れた。
「冒険者になれば、自分が何者かわかるかもしれないと思った。それと——誰かの役に立てるなら、ここにいていい理由になるかなって」
しばらく、誰も喋らなかった。
フィルが膝を抱え直した。
「……ふーん。僕は里を飛び出した。退屈な授業と、僕の才能を認めない大人たちが嫌で」
火を見つめたまま、フィルが続けた。
「似たようなもんだな。居場所が欲しくて、外に出たってことは」
「そうかもな」
「そうだよ。——でも、今はちょっとだけ、見つかった気がする」
フィルの声が小さくなった。
最後の一言は、ほとんど呟きだった。
「僕も」
リーナがそっと言った。
ベルは何も言わなかった。
ただ火に薪をくべて、少しだけ長い息を吐いた。
それで充分だった。
* * *
翌朝、さらに山道を進んだ。
林が深くなり、道が狭まっていく。
岩と根が入り組んだ足場を、ベルが先行して確認しながら進む。
「この辺りから国境に近い。気を引き締めな」
ベルの声が低くなった。
遊びの色が消えている。
空気が変わり始めたのを、俺も感じていた。
微かに——本当に微かに、あの匂いがする。
腐った卵と錆びた金属。瘴気の匂いだ。
胸の奥がざわりと疼いた。
もう慣れてきた反応だが、慣れること自体が不気味だ。
「匂う……」
リーナが鼻を覆った。
「瘴気だね。まだ薄いけど」
フィルが眉を寄せる。
「こんな山の中に瘴気があるのかよ。街や村ならまだしも——」
「だからこそ調査しに来たんだ」
山道を登り続けた。
瘴気の匂いが少しずつ濃くなっていく。
木々の葉が端から黒ずみ、地面に苔が生えなくなった。
丘の上に出た時、全員の足が止まった。
眼下に、集落があった。
石造りの頑丈な家屋。鍛冶場の煙突。低い石壁。
ドワーフの集落だ。
けれど、煙突から出ているのは鍛冶の煙じゃない。
黒い煙が数ヶ所から上がっている。
家屋の壁が崩れ、石壁が薙ぎ倒されていた。
まだ煙が出ている。
つい最近——今朝か、昨夜か。
「襲撃されてる……」
リーナの声が震えた。
ベルの目が鋭く細まった。
耳を澄ませている。
風が山を渡った。
その風に乗って——金属音が聞こえた。
剣と剣がぶつかる音。
重い何かが地面を叩く音。
叫び声。
「誰かがまだ戦ってる」
ベルが言った。
全員が走り出していた。
山道を駆け下り、集落へ向かう。
煙の匂いと瘴気の臭気が混じり合い、喉を刺す。
剣戟の音が近づいてくる。
誰が戦っているのか。
まだ間に合うのか。
足を速めた。




