夜襲
ギルドに着いた時、中はもう騒然としていた。
冒険者たちが武器を手に集まり、衛兵が早足で出入りしている。
松明の光が壁を揺らし、人々の影が不安げに蠢いていた。
受付カウンターの奥から、ギルドマスターのヨルグが姿を現した。
白髪交じりの顎髭。鋭い目。
いつもの飄々とした空気が消えて、声に緊張が滲んでいる。
「全員聞け。街の南壁から約一キロの地点に、魔物の群れが接近中だ。斥候の報告では三十体以上。通常の野生種じゃない——瘴気に汚染された異常個体だ」
ざわめきが広がった。
「瘴気汚染……?」
「カーラの村と同じやつかよ」
ヨルグが手を上げて静まらせた。
「冒険者はEランク以上、全員出動だ。衛兵隊と連携して南壁の防衛に当たる。壁の上から迎撃し、突破されたら近接で仕留めろ。——いいか、深追いするな。夜の平野で散開したら死ぬぞ」
俺はベルを見た。
ベルの目はもう戦闘の色をしている。
「行くよ」
「ああ」
リーナが杖を握り直した。
教本で覚えた《アクアシールド》、使えるか試すのは今夜になりそうだ。
ギルドを出ようとした時、フィルが入口に立っていた。
大きすぎるローブの裾を踏みそうになりながら、翠色の瞳を見開いている。
「僕だって戦える!」
「お前、実戦は初めてだろ」
「初めてだけど、魔法の威力なら——」
「威力の問題じゃない」
フィルの言葉を遮った。
「さっきの勝負を思い出せ。お前は周りが見えなくなる。群れ相手にそれをやったら死ぬ」
フィルの顔が強張った。
唇を噛む。反論を探しているが、見つからないのだろう。
「……でも」
「来るなとは言ってない。壁の上からリーナと一緒に撃て。絶対に壁から降りるな」
フィルの目が光った。
「わかった!」
「嬢ちゃん、このチビ助の面倒頼むよ」
ベルが走りながらリーナに言った。
「チビ助言うな!」
「了解。フィルくん、あたしの横にいてね」
四人で夜の街を駆ける。
冒険者と衛兵の足音が、石畳に重なっていた。
* * *
南壁に上ると、平野の向こうに黒い影の群れが見えた。
月明かりの下で蠢く、獣たちの輪郭。
犬型、猪型、蜥蜴型——種類はバラバラだ。
共通しているのは、身体から立ち昇る黒い霧。
瘴気だ。
カーラの村の暴牛と同じ匂いが、風に乗って届いた。
腐った卵と錆びた金属。
あの不快な臭気に、胸の奥がまたざわりと反応する。
「レイン?」
リーナが俺の顔を覗き込んだ。
「大丈夫か」
「……ああ。問題ない」
嘘だ。
瘴気に触れるたびに身体の奥底で何かが応えるこの感覚は、前より強くなっている。
だが今は、それどころじゃない。
「来るよ」
ベルの声が鋭い。
魔物の群れが速度を上げた。
三十——いや、もっといる。暗闇の中で正確な数は掴めない。
「弓兵、構え!」
衛兵の隊長が叫んだ。
壁の上に並んだ弓兵が一斉に矢をつがえる。
「放て!」
矢の雨が夜空を飛んだ。
先頭の数体に突き刺さるが、瘴気に汚染された獣は止まらない。
矢が刺さったまま走り続ける。
「普通じゃないね。痛覚が麻痺してるんだ」
ベルがクロスボウに鉄矢を装填した。
「急所を狙わないと止まらない。坊や、壁際に来た奴は任せたよ」
「わかった」
壁の端に立ち、下を見下ろす。
高さは四メートルほど。石造りの壁は頑丈だが、数で押されたら持つかどうか。
最初の一体が壁に激突した。
猪型の魔獣。
赤黒い目が狂気に燃えている。
壁にぶつかっても怯まず、頭を叩きつけて突破しようとする。
「《アクアショット》!」
リーナの水球が猪の頭を打ち抜いた。
怯んだ隙に、隣の弓兵が喉元に矢を射込む。
倒れた。
だが、次が来る。
その次も。
壁の下に魔物が群がり始めた。
犬型が壁に爪を立てて登ろうとしている。
「登ってくるぞ!」
「させるか——《ウィンドカッター》!」
フィルが壁の縁から身を乗り出し、風の刃を撃ち下ろした。
三体の犬型が同時に吹き飛ぶ。
「すげえ……」
隣の衛兵が呟いた。
フィルが胸を張る。
「どうだ! 僕の魔法にかかれば——」
「フィルくん、後ろ!」
リーナの声。
壁の反対側から、蜥蜴型の魔物が這い上がっていた。
壁を登れる爪。
誰も気づかなかった方角から、二体。
フィルが振り返った時にはもう遅い。
蜥蜴の顎が開き、牙がフィルに向かって突き出される。
身体が動いた。
フィルの前に割り込み、《スラッシュ》で蜥蜴の首を薙いだ。
返す刀で二体目の顎を叩き斬る。
黒い血が飛び散った。
「《アクアシールド》!」
リーナの声と同時に、薄い水の膜が俺とフィルの前に展開された。
瘴気を含んだ血飛沫が水膜に弾かれ、じゅう、と音を立てて蒸発する。
「水の壁……!?」
フィルが目を見開いた。
「8級で付与された防御魔法。教本で練習しといてよかった」
リーナが息を切らしながら笑った。
水膜を抜けた数滴が腕に触れ、じりりと焼けるような痛みが走る。
「っ——」
「レイン!」
フィルの声が震えていた。
翠色の瞳が見開かれ、顔が青白い。
「お前、攻撃力はすげえけど、周り見えてないぞ」
「……っ」
「壁から降りるなって言っただろ。リーナの横にいろ」
フィルが唇を噛んだ。
悔しさと、恐怖と——それから、助けられたことへの戸惑いだろうか。
「……わかった」
フィルがリーナの隣に戻った。
それからは壁の縁から身を乗り出さず、リーナの指示を聞きながら撃っていた。
リーナの判断が的確だ。
「フィルくん、左の群れ! あたしが右を止めるから!」
「了解!」
フィルの《ウィンドカッター》とリーナの《アクアショット》が交互に飛ぶ。
後衛二人の連携が、壁を登ろうとする魔物を次々に叩き落とした。
* * *
戦いは夜通し続いた。
剣だけでは追いつかない。
壁に群がる魔物に《フレイム》を叩き込み、壁をよじ登る大型種に《ウィンドカッター》を撃ち下ろした。
魔法と剣を切り替えながら戦ううちに、属性の扱いが少しずつ滑らかになっていく。
月が傾き、空の端が白み始めた頃、ようやく魔物の数が減り始めた。
最後の数体を衛兵が仕留め、平野に静寂が戻った。
視界の端に、淡い光が明滅した。
```
——世界システムより通知——
【火魔法が8級に昇格しました】
【新技能を付与: フレイムアロー】
【風魔法が8級に昇格しました】
【新技能を付与: ヘイスト】
```
二つ同時か。
だが今は、それどころじゃなかった。通知を閉じる。
壁の上に座り込む。
全身が汗と血と泥にまみれている。
腕が上がらない。剣を握る指が痺れている。
リーナがふらつきながら歩いてきた。
魔力を使い果たしたのだろう。顔が白い。
けれど、あの《アクアシールド》で何度も仲間を守り抜いた。たいした奴だ。
「……生きてるね」
「ああ」
ベルが壁に背中を預けて息をついた。
鉄矢を使い切ったらしい。空のクロスボウを膝に置いている。
「死者はいないそうだよ。怪我人は多いけど、全員助かった」
「よかった……」
リーナの声が掠れた。
フィルが俺の横に来て、黙って立っていた。
しばらく何も言わなかった。
朝焼けが平野を染め始めた頃、フィルが口を開いた。
「……助けてくれて、ありがとう」
小さな声だった。
あの自信満々の少年とは別人みたいに、肩が縮こまっている。
「気にするな」
「気にする。僕は、あの時——何もできなかった」
フィルの拳が震えていた。
「魔法の威力は自信があった。誰にも負けないって思ってた。でも、実際に戦ったら——周りが見えなくて、足がすくんで、あんたに助けられた」
声が途切れた。
「僕は、エルフの里にいるのが嫌で飛び出したんだ」
ぽつりと、零れるように。
「退屈な授業。才能があるのに認めてくれない大人たち。僕ならもっとやれるって、思ってた」
フィルが空を見上げた。
朝焼けの光が、銀髪を淡く染めている。
「でも一人じゃ何もできないってわかった。今夜、それがわかった」
俺はフィルの頭に手を置いた。
「何もできなかったわけじゃないだろ。お前の《ウィンドカッター》で何体落とした?」
「……七体」
「リーナと二人で壁の上を守り切ったんだ。充分だろ」
フィルが顔を上げた。
翠色の瞳が、朝の光を映して揺れている。
「お前に足りないのは才能じゃない。経験だ。それは戦えば身につく」
「……ふん。偉そうに」
口調は強がりだったが、声は震えていなかった。
リーナが微笑んで、フィルの肩にそっと手を添えた。
ベルが欠伸をしながら立ち上がった。
「さあて、片付けを手伝ったら飯にしようか。あたしは腹が減ったよ」
「僕も……腹が減った」
「素直でよろしい。チビ助」
「チビ助言うな!」
四人の声が、朝焼けの壁の上に響いた。




