どこかの山の中
山の奥に、小さな灯りがある。
街道から外れ、地図にも載らない場所だ。
夜になっても、そこを目指して歩く者はいない。
それでも、灯りは毎晩ともる。
家は古く、扉はきしむ。
中には机がひとつ、椅子がひとつ、棚がひとつ。
棚には、空の瓶や木箱が並んでいる。
彼女は、毎日、夜を整えている。
山の夜は、そのままでは広すぎる。
音も、気配も、暗さも、すべてが一度に押し寄せてくる。
だから彼女は、灯りをともす。
灯りの届く、このわずかな範囲だけを、「今夜」として切り取るために。
風が笹を撫でる音。
遠くで獣が身じろぐ気配。
家の柱が、夜更けに鳴らす小さな軋み。
彼女は耳を澄まし、その夜にふさわしいものだけを選び取る。
すべては扱えない。
一晩に残せるのは、ひとつか、せいぜいふたつ。
風を残せば、獣の気配は手放す。
柱の音を選べば、山の奥のざわめきは夜に溶けていく。
それでいい、と彼女は思っている。
整えられた夜には、輪郭がある。
選ばれた音は、瓶にしまわれる。
瓶の中には、何も見えない。
重さも、形も、匂いもない。
それでも彼女には、それが「今夜」だとわかる。
整えずにいると、その日は最初からなかったような気がしてしまう。
夜が、ただ流れて消えただけのものになる。
灯りの外は静かだ。
ときどき獣の声が山に落ちるが、人の声はしない。
足音も、返事も、ない。
夜を整えても、それを知る者はいない。
灯りをともしても、誰にも気づかれない夜が続くと、彼女は時々、自分が透明になった気がした。
耳はここにある。
床を踏む音も、息の音も聞こえる。
それなのに、誰にも切り取られていない。
世界は、彼女の存在を、ひとつの夜として数えていないのではないか。
そんな不安が、静かに積もっていく。
それでも、灯りは消さない。
消してしまえば、今まで整えてきた夜も、最初からなかったことになる。
ある夜、ほんとうに偶然、旅人が通りかかる。
道に迷い、山を越え、疲れ切った足で、かすかな明かりを見つける。
旅人は立ち止まり、しばらく灯りを眺め、耳を澄ます。
扉を叩くことはしない。
中に入ることもない。
ただ、そこに「整えられた夜」があることを、感じ取る。
風の音が、割れずに届く。
足元の小石が、正しい場所で鳴る。
「妙に、夜が落ち着いているな」
それだけ思って、旅人はまた歩き出す。
山を下り、街へ戻っていく。
彼女は、そのことを知らない。
誰かが立ち止まったことも。
夜に触れたことも。
その夜も、誰の声も聞こえない。
けれど確かに一度、整えられた夜に、外からの気配が触れた。
それだけで、その夜は完成する。
たとえ誰にも知られなくても、その夜は、ここにある。
丁寧に選ばれ、並べられ。
形を与えられた夜が、ひとつ増えている。
だから。
今日も、彼女は灯りをともす。
耳を澄まし、夜を整える。
次のページは、この話の元になり、没にしたエッセイです。




