点検運転
「別に、何かするわけじゃないんだよ」
老人は笑いながら、そう言った。
月に一度、決まって第一土曜日の午後三時。
彼は自宅のガレージにあるタイムマシンを起動させる。
見た目はレトロなキャンピングカーのようだが、ナンバーもないし、車検も通っていない。
というより、それはこの世の時間軸に属していない乗り物だった。
「動かさないと、バッテリーが上がるからね。……理由は、それだけ」
周囲の人間は、誰も本気にしていない。
また変わり者の老人が何かやってるくらいの扱いだ。
でも、老人は確かに毎月過去へ行っていた。
彼が訪れるのは、「何かが起きた日」ではない。
歴史的事件も、人生の分岐点も、関係ない。
タイムマシンが静かに風景を巻き戻していくと、止まるのはいつも、
「一九八二年五月の晴れた日」
「一九九七年の冬の夜」
「二〇〇五年の春先、街角のパン屋」
どれも彼にとって「ただの日」だった。
過去の世界で、老人は誰にも声をかけない。
窓越しに人々を眺めて、ただ、コーヒーを飲んで帰ってくる。
「観光ってわけでもないんだよな」
老人は誰にでもなくつぶやく。
「……まあ、エンジン回すだけって感じだ」
タイムマシンには制限があった。
「未来へは行けないんだ」
誰かが老人に尋ねたことがあった。何故未来には行かないのかと。
「未来はまだ記録されてないから。未完成のテープみたいなもんさ」
ならばと、ひとりの若者が老人に尋ねた。
「過去に行って、何か変えたりしないんですか?」
「変えたくなるときもあるさ。でもね、もし変えちゃったら、その日が“知らない日”になってしまうだろ?」
若者は首を傾げた。
「俺は、“あの日のまま”に会いに行ってるんだ」
それは、言い換えれば、記憶を上書きしないための旅だった。
その日は、一九九八年の秋に設定されていた。
老人は静かに運転席に座り、ダイヤルを合わせる。
「十月十日。曇り。風、少し強め。……あの公園」
タイムマシンが滑るように時を遡る。
変化はゆっくりで、時間の粒が空気中でふるえるようにして溶けていく。
数秒後、世界は過去に戻っていた。
車窓の向こう。
ブランコに乗っている、小さな女の子。
それを見守る若い女性。
老人は窓越しにそっと目を細める。
「……久しぶりだな、遥」
彼の娘は、この数年後に事故で亡くなった。
老人にはわかっていた。
ドアを開けて声をかければ、もう一度“娘”に触れられることを。
でも、それはしなかった。
なぜなら、
「あの子は、“あの日のまま”でいてほしいからな」
老人は愛おしげに笑った。
「俺の記憶と、世界の記録が、ちゃんと重なってるっていう確認。それが……このタイムマシンのいちばんの使い方なんだよ」
彼は缶コーヒーを開けて、一口すすった。
手元の時計が、午後三時四十四分を指していた。
「さて。もう戻る時間か」
エンジンをかけ直し、時流を元に戻す。
帰り道も、誰にも気づかれない。
町の人は知らない。
あの古いガレージの中で、毎月一度、静かに時間が巻き戻されていることを。
老人は、誰かの過去を変えるために旅するのではない。
何かをやり直すためでもない。
ただ、バッテリーが上がらないように。
そして、「思い出がそのままであること」を確かめるために。
その行動に、明確な意味はない。
でも、意味のないことが、いちばん大事だったりもする。
今月も、タイムマシンは軽くエンジンを鳴らす。
まだちゃんと動く。
あの日と、変わらずに。