card2:開かずの扉
希望を忘れた旧校舎。
絶望に沈んだ旧校舎。
しかし今夜は客人がやって来る。
“希望”の名を継いだ『アイリス』がやって来る。
お茶の準備は出来たかい。
踊り子は呼んだかい。
後は笑顔も忘れちゃいけないよ。
準備が出来たら――
音楽を流して――
華やかに――
爽やかに――
君を出迎えよう――
△ ▼ △
――深夜午前二時。
周囲はどっぷりと闇に浸り、星々の輝きも黒い雲に隠れてしまっている。
その中、闇に沈んでも尚建ち続けている旧校舎。
生温い風と虫達の歌声を背負い、何十年も建ち続けている旧校舎。
そして弱々しい校舎を守るかのように建築された石垣の前――数年ぶりの“客人達”が出陣の時を見計らっていた。
「おらぁッいよいよ旧校舎に殴り込みだコラァァ!」
「私、真夜中に出かけたの初めてだよォ」
真夜中だと言うのに大声で叫ぶ加奈りんに対し、ぱたぱたとはしゃぐ神楽。
二人の声は深夜の街にキーキーと響き渡り、少し距離を置いて立つ菖蒲ですらやかましく思う。
加えて言えば、何十年と使用されていない廃屋と言っても近くには清城高等学校がある。
つまり騒げば騒ぐほど誰かに見つかる可能性が高くなるのだ。
――近くに警官や補導員がいたらと言う危機感はないらしいね。
補導の事も何も考えていない脳天気な二人に対し、菖蒲は大きなため息を吐くしかない。
そう。菖蒲達は昼間話題になった旧校舎の『開かずの扉』とやらを探しにやって来たのだ。
無論、半ば強制。菖蒲の良心はことごとく彼女達に無視された。
――私、ホントにこういうの嫌いなのに……
面倒な事に巻き込まれなければいいが、と思うが加奈りんが提案した『暇つぶし』で何も起こらなかった事はない。
必ず警官に見つかったり、近所のおばさんに怒られたり、先生に怒鳴られたり、その他もろもろ。
そして決まって謝るのは、事柄の被害者とも言えるはずの菖蒲と神楽。 本人曰く、加奈りんは他人に謝るのが一番大嫌いだと自慢気に語っていた。
言い換えれば自分の非は意地でも認めない最悪な性格の持ち主だと思う。
――今日は何も起こりませんように。
菖蒲は諦めるように目をつむり、ぱんッと手を合わせ今日の無事を祈った。
「おぉい菖蒲ぇ。旧校舎侵入に備えて作戦会議しようぜ」
「菖蒲も円陣組もうよッ」
旧校舎の入口で、加奈りんと神楽が手をぶんぶん振りながら叫んでいる。
――いやいや。
――旧校舎侵入に作戦会議も何もないんじゃないの。
――しかも円陣組むって意味が分からんよ。
半分呆れ顔の菖蒲だが、苦笑しながら二人の元へ駆けて行く。
もう言い出したら止まらないのがクレイジーコンビ。
ならば――。菖蒲のするべき事は一つ。
旧校舎の入口まで行くと、既に肩を組んでいる加奈りんと神楽の間に割り込み、自分も肩を組む。
未だに円陣を組む意味が分からないが、これはこれで赴き(?)があるのかもしれない。
「来んのが遅ぇよ」
「いやぁ開き直るまでに時間がかかってさ」
「菖蒲は最後まで反対してたもんね」
いや、それは上手い具合に神楽が加奈りんに丸め込まれただけだ。
そうツッコミを入れたくなるが、また騒ぎになるのでやめておく。
三人はニヤリッと笑い、夜の空の下――限界まで声を張り上げた。
「いいか菖蒲、神楽。絶対油断すんな」
「「おうッ」」
「何が起きても、扉は開けて帰るぞ」
「「おう」」
「そして忘れんな」
「「おう」」
『どの部屋に入る前にも必ずノックを』
「「お、おう!?」」
『しかも2回だ』
――いちいち細けぇッ!
「そして万が一、宙に浮く半透明な未確認生命体YUREI及び未確認生物OBAKEを発見した場合の話だが――」
「「……おう」」
――いや、普通に“幽霊”と“お化け”って言いなよ。
『捕まえて思い切り人間流パシリ地獄を味わせてやろうぜッ!』
「貴様いっぺん地獄に堕ちろォォ!」
「あ、菖蒲落ち着いてッ」
この時は知らなかったんだ。
不良の加奈りん。
優等生の神楽。
ずっと一緒で。
ずっと仲良しで。
ずっと笑い合って。
でも、今日で終わる。
この関係も。
この笑顔も。
全てが終わるから――……。
△ ▼ △
旧校舎内部は表以上に老朽化が進んでいた。歩くたびに床が軋み、酷い場合は床が抜けて足がはまってしまう。
まぁ加奈りんが先頭を歩いていたので、ほとんどの危険部位を制覇してくれた。
おかげで菖蒲と神楽は無傷で廊下を歩く事が出来た訳だが、犠牲として加奈りんの足は青痣だらけになっていたりする。
「ちくしょ……全部終わったら旧校舎を火の海にしてやる」
――いや、ソレは流石にフォロー出来ないから。
よっぽど痛かったのか、加奈りんが涙目で呟く。
菖蒲は仕方がないので加奈りんの頭をポンッと撫でてやった。
こういう所は子供ぽいっと言うか、なんと言うか。
しかも加奈りんは見取図も何も持って来ずに、初めて来た旧校舎の音楽室へ向かおうとしているのだから驚きである。
無論、菖蒲が見取図をなんで持って来なかったのかと尋ねると――……。
『あたしは我が道を行くッ!“道”は自分の手で、自分の目で、自分の足で見つけるからこそソレ相当の価値があるのだぁ』
……と、意味が分からない論弁を述べ、すたすたと廊下を歩いていってしまった。
本人はかっこいい事を言ったと思っているが、実際は行き止まりになったり、大量の鼠軍団に襲われたりとむしろかっこ悪い。
こんな調子で本当に音楽室に辿りつけるのか、菖蒲は再びため息をついた。
「菖蒲菖蒲ぇ」
すると神楽がにこにこしながら、菖蒲の服を引っ張る。
朝までに帰れるか分からない状況で良く笑ってられるなぁと、ある意味感心してしまった。
「なんか、『初めて加奈りんに会った日』を思い出すよね」
「初めて……加奈りんに? ――あぁ、そっか」
そこで神楽の笑っている理由が分かり、菖蒲もつられて微笑んだ。
――そうそう。
――小学生のとき、加奈りんと初めて出会った場所もこんな風に暗くてじめじめしてて……。
ずんずんと先を歩く加奈りんの背中を眺めながら、ゆっくりと昔の記憶を思い出していく。
……小学生の時、菖蒲は神楽を引き連れて良く『秘密の場所』へ行って遊んでいた。
誰も知らない。
誰にも知られない。
菖蒲と神楽だけの“秘密の場所”――だったはずなのに。
ある日、“先客”が来ていたのだから。
『ここはあたしが見つけた。ここがあたしの居場所だ。分かったら消え失せろ』
ボスッ。突然立ち止まった加奈りんの背中に菖蒲の鼻が埋まった。
その衝撃で記憶の中の加奈りんがすっと消えていく。
「加奈りん……急に止まらないでよぉ」
「悪ぃ。でも菖蒲、アレ……」
加奈りんがそっと白い人差し指を、自分の視線の先に添える。
菖蒲も鼻を押さえながら、神楽も菖蒲の背中に隠れながら、その指の先を見つめた。
――アレは……。
三人の視線の先――深い闇に包まれた廊下の突き当たり。
そこには金色の二つの光が、床より少し上を浮いている。
「ひゃッおおお化け!」
後ろに居た神楽が、奇声を上げて身体を震わせた。
しかも菖蒲の脇腹を持ちながら顔を伏せるので皮が引っ張られ少し痛い。
しかも加奈りんは加奈りんで。
「――シャァァァッ上等じゃねぇか!」
今にでも“光”を捕まえようと走りだす勢いなので冷静も何もない。
菖蒲は両腕を使い、二人の襟首を掴んだ。
「二人とも落ち着いてッ」
菖蒲の威厳ある怒声に、神楽と加奈りんがピタリと固まった。
そして、もう一度二つの光を見つめる。
――アレは、お化けなんかじゃない。
そう。菖蒲は初めから気付いていた。
神楽と加奈りんも、びくびくと光を見つめる。
良く見れば金色の光は少しずつ近付いて来る。
“鈴の音”を伴い、近付いて来る。
一歩ずつ、ゆっくりと。
雲に隠れていた月がゆっくりと出てくる。
割れたガラス窓から光が差し込む。
『んにゃー』
首輪に付けられた鈴をりんと鳴らしながら、“赤毛の猫”が闇の切れ目から現れた。
三人は改めて深いため息を吐く。
「なぁんだ猫かよ」
「でも赤毛の猫って珍しいよねッ」
さっきまで震えていたくせに、神楽は気にする事なくしゃがみ込み猫を呼んでいる。
加奈りんも苦笑しながらその隣に座った。
――とりあえず良かった。
――これで野犬だったらヤバい事になってたし。
まぁその時は加奈りんが拳でなんとかしてくれるだろうが。
だが、菖蒲はふと視線を感じて辺りを見渡す。
無論、加奈りんと神楽以外誰もいない。
おかしいなぁ、と首を傾げつつ前を見て気付いた。
あの赤毛の猫が、じっと菖蒲を見ている。
何故だかは分からない。しかしその金色の瞳に吸い込まれてしまう。
二人の話声が水に潜っているかのように遠くに聞こえ、その猫しか視界に入らない。
――『君の探している扉はこっちにあるよ』
透き通るような少年の声。
その言葉で、再び菖蒲は現実に引き戻される。
猫は、すっと菖蒲から視線を外した。
そして尻尾を悠々と降りかざし闇の中に戻っていく。
菖蒲は何が起きたのか分からぬまま、立ち尽くしていた。
――今の声は……。
「おい菖蒲ッ何ぼけぇとしてんだよ」
「置いて行っちゃうよぉ」
加奈りんと神楽が、少し先で叫んでいる。
「なぁ。あの猫捕まえて、あたしらの下僕に――」
「それは動物虐待ッッ」
神楽が加奈りんに珍しくツッコミを入れた。
しかし菖蒲は反応できない。
ずっと“あの声”が頭の中から離れない。
――あの声は……。
――夢で見た声と、同じだった。
あの猫が何者なのか。
あの声は何者なのか。
“扉”とは何か。
菖蒲はなんとなく分かっているのかもしれない。
自分が踏み込んではいけない領域に。
狂った運命の狭間に。
もしくは決められた運命に。
誘われるまま、引き寄せられるまま、流れのまま。
近付いている事を……。
△ ▼ △
――ギィィィ……。
菖蒲達が、ゆっくりと音楽室の扉を開けた。
結局加奈りんの提案で赤毛の猫の後を追うことになり、今に至る。
もちろん赤毛の猫は素早しっこく、追いかけても追いかけても追い付く事はなかった。
だが加奈りんは持ち前の瞬足で廊下の端に猫を追い詰め、とうとう王手をかけた――と思ったが、そこは流石の猫である。
加奈りんが両手を上げた瞬間、さっと床下へと逃げ込んだのだ。
もはや猫捕獲の為、くねくねと廊下を曲がったので戻ろうにもどこが昇降口なのかも分からない。
意地になって廊下を更に進んだ加奈りんだったが、偶然にも“音楽室”に辿り着いてしまった。
――何だか……。
――凄く嫌な予感がする。
菖蒲は不安を隠すかのように拳をぎゅっと握り閉める。
やはり何もかもがおかしい。昨日の夢と言い、旧校舎の扉の話と言い、赤毛の猫だって――……。
まるでずっと昔から菖蒲が旧校舎に来る事を決められていたかのように、事が進み過ぎている。
――こうなったらさっさと“扉”を開けて帰ろう。
――面倒な事に巻き込まれる前に早く……。
菖蒲は決意を固め、加奈りんの後ろに着いて行った。
視界に飛び込んで来た音楽室の内部は、想像以上に過去の原型を止めていなかった。
音楽室の要であるピアノの脚は折れ、椅子は綿が見えて黒ずんでいる。
生徒用の椅子も机も埃を被り、至る所に転がっていた。
一見、老朽化によりボロボロになったように見えるがこの状態は少し違うように見えた。
そう。
それはまるで、『何者』かが、第三者が、部屋を荒らしたかのような――。
「加奈りん、菖蒲。アレ見て見てッ」
神楽が机の下に転がっている白い欠片を指差した。
菖蒲は座り込みそっと欠片を手に取る。
その少し上には同じ素材の取っ手が落ちていた。
「マグカップの、破片かな……」
しかも破片に重なるように液体が放射線状に広がっている。
しかもまだ濡れていて、蒸発していない。
――ついさっきまで。
――誰かがいたの?
薄気味悪さを覚え、菖蒲は欠片を床に戻す。
加奈りんもピアノの残骸部分で、何かを発見し菖蒲達に手招きしてきた。
「見ろよ、コレ」
加奈りんの冷たい声。
それはピアノの残骸を囲うように散らばる花。
色とりどりの美しい花。
しかしそれが今、踏み潰され、泥で汚れ、弱々しく床に散っている。
「ひどいッ」
神楽は思わず手で顔を覆った。
加奈りんは眉間に皺を寄せながら、花びらの一枚を手にとった。
「……まだ摘まれてからそんなに経ってない」
「ねぇやっぱりおかしいよッ。誰もいないはずなのにお茶がこぼれてたり、花が散ってたり、それにあの猫だって!」
「あぁ確かにおかしい。あたしらはここに来る途中誰ともすれ違っていない。それなのに何で、何で荒らされた跡が新しいんだ!」
加奈りんの拳がピアノに命中する。
ぐわんっと歪んだ音を発てて、ピアノの鍵盤が弾け飛んだ。
神楽は菖蒲の後ろに隠れながら、目を伏せる。
――そうだ。
――加奈りんは、花が荒らされるの凄く嫌いなんだ。
小学校の時――男子が花壇に悪戯して遊んでいたのを見た加奈りんが、再起不能になるまでボコボコに殴り大騒ぎになった事もあった。
しかし何でそんなに“花”にこだわるのか、加奈りんは言わない。聞いても、何も言ってくれない。
「許さねぇ……。菖蒲、神楽ッ今すぐ旧校舎中をローラー作戦だ!」
「無茶苦茶だよッ見取図もないのにどうやって!」
「しらみ潰しに探せばなんとかなるッ」
「無理に決まってるでしょうがッ馬鹿言わないでさっさと帰ろ――……」
『早く逃げて』
小さな小さな女の子の声。
複数の声が重なり、音楽室中に響いてくる――否、菖蒲の脳内に直接響いているのだ。
『貴方は狙われてる』
『アナタは殺される』
『だから逃げて』
『あなたは死んではいけない』
『“希望”の名を継いだ貴方は死んではいけない』
――何、コレ……。
菖蒲は耳を押さえ周囲を見渡す。
しかし誰もいない。
加奈りんも神楽も、落ち着きの無い菖蒲を戸惑うように見つめるばかりだ。
『早く早く』
『奴らが来ちゃうよ』
『“絶望”の手下達がすぐそこに―――』
――ガシャアァァァァ
耳を裂くような音を発てて、窓が一斉に割れた。
加奈りんは直ぐ様二人の前に立ち、身構える。
「――えっ」
菖蒲は、思わず目を疑った。
闇のように黒い身体。
頭と手だけに填められた鎧兜。
鋭い鉄鋼の爪。
闇夜に輝く、赤い瞳。
“刺客共”は、音楽室にひらりと舞い降りる。
菖蒲の顔が、極限にこわばった。
「逃げてッ」
言葉は自然と口から滑り落ちた。
加奈りんも相手が未知の生物と分かって、退却するしかない。
「――ッんだよあいつら!」
だが“刺客”は一斉に三人へ飛びかかる。
喧騒の中、化け物の一体が菖蒲を襲いかかって来た。だが菖蒲は手元にあった椅子を振り上げ殴り倒す。
どうやら黒い身体はすり抜けてしまうが、鎧の部分には打撃技が通じるらしい。
加奈りんも気付いたらしく得意の鉄拳で“奴ら”を撃退していた。
「きゃあぁッ」
突然響いた神楽の悲鳴に、菖蒲と加奈りんは振り向いた。
“刺客”の一体が、床に伏せる神楽に鋭い爪を振り上げる。
――神楽ッ
間に合うか分からない。しかし、菖蒲は自分の首に下げていたカメラをそいつに投げた。
カメラはくるくる回りながら豪速で神楽の方へ飛んでいく。
そして見事“刺客”に命中し、神楽から何とか引き離す。
――逃げるなら今しか……!
「神楽、菖蒲ッ早く!」
加奈りんが、二人の手を引いた。
他の“刺客”は不気味に身体を揺らしながら起き上がる。
いずれ追い付かれると思ったが、とりあえず逃げるしかない。
菖蒲は加奈りんに手を引かれるまま、引き戸を開けて音楽室を出た。
“音楽室を出た”はずだった。
しかし、そこに廊下はない。
薄暗く狭い部屋にあるのは大小様々な楽器ケースと、『扉』。
息を切らしながら、加奈りんは硬直している。
「おい……。な、んで教室から出てねぇんだ」
何故教室を出ていないのか。
しかし、そのからくりにいち早く気付いたのは神楽だった。
「もしかして、加奈ちゃん……入り口間違えた?」
暫しの沈黙。
確か『開かずの扉』がある楽器庫は音楽室とつながっていると言っていた。
つまり恐怖による焦りから加奈りんも少なからずプレッシャーを感じていたとしたら……。
――まさか。
――加奈りんは、音楽室入口のドアと。
――『楽器庫のドア』を勘違いした?
三人の血の気が一斉に引く。
同時に楽器庫の扉を激しく叩かれた。
“奴ら”だ。
“奴ら”が追って来たのだ。
菖蒲は逃げ道がないか周囲を確認するが窓も換気口もない。
完全なる袋の鼠だ。
「加奈りんどうするのッ」
「あたしに聞くなッ」
菖蒲と加奈りんが口論している間にも、扉がぎしぎしと軋む。
すると神楽は楽器ケースを楽器庫の扉の前に積みながら二人を見た。
「『開かずの扉』を、開けるしか……ない」
逃げ道がないなら、自分で確保するしかない。
だが菖蒲は固まる。
薄々気付いていたのかもしれない。
“出口がない”、その時からもう避けられないと……。
――でも……。
菖蒲には『開かず扉』を開ける気にはなれなかった。
『扉』を開けたら、もう何もかもが手遅れになる気がして、開ける決心がつかない。
だが、加奈りんは動き出していた。
取っ手のない、中央から左右に開く型の『扉』。
その『扉』を、ある力全てを送り込み押し出す。
「菖蒲ッ手伝え!」
「加奈りん……」
「早くッ」
腕力自慢の加奈りんですら『開かず扉』は開かない。
足はずりずりと後ろに下がり、しまいには床に伏せてしまった。
菖蒲は、黙って目を反らす。
――わ、私は……。
「菖蒲ぇッ」
神楽が楽器庫の入口を押さえながら叫ぶ。
どんっと一定の速さで叩かれる度に、入口の前に置いた楽器ケースが少しずつずれていく。
突破されるのは時間の問題だ。
「あ、やめッ!」
加奈りんが『開かずの扉』を押しながら、菖蒲を呼ぶ。
張り詰めた空気。
二人の声が、夢の中の声が、菖蒲の中で混濁する。
『君にしか出来ないんだ』
「―――っ!」
菖蒲は『開かずの扉』に飛びかかった。
助かる為には『扉』に賭けるしかない。
何かが起きたら、三人で乗り切ればいい。
「ひ、開けぇぇッ」
だが、加奈りんと二人がかりで押しても扉は開かない。
むしろ神楽の押さえている準備室の入口の方が開きかかっている。
――なんだよッ。
――私が押したって……。
――私を呼んだくせに……。
――『扉』なんか開かないじゃないかッ!
涙すらこぼれそうだった。
手は爪が剥げはじめ、激痛を伴いながら血が流れている。
それでも諦める訳にはいかない。
自分に出来る事はこれしかない。
しかし、限界はすぐそこまで来ていた。
緊迫する準備室。
弾け飛ぶ楽器ケース。
入口に食い込む鋭い爪。
その切れ目から覗く、赤い瞳。
――早く早くッ!
菖蒲は涙目になりながら、尚も『開かずの扉』を押し続けた。
手の平でにじんだ血が『扉』に滴っていく。
血がゆっくりと錆びた溝を通り、下へ下へと流れていく。
その過程で、神楽が楽器ケースごと入口から弾き飛ばされた。
加奈りんの手の骨が軋んだ。
涙なのか汗なのか分からない雫が、菖蒲の頬を伝う。
それでも信じるしかない。
菖蒲達は祈るしかない。
“奇跡”を、願うしか……。
――お願い、開いて……。
菖蒲の血が、『開かずの扉』の中央にある小さな窪みに入った。
『血液認証。ほぼ同成分と判断。“アイリス”の血液と承認します』
機械的な声。
菖蒲の顔を照らす優しい光。
『開かずの扉』が、輝きだす。
「と、扉が――」
『ゲートポイント。Κ19・ホーリタウン。アイリスと同伴一名、合計二名の通行確認』
隣に立つ加奈りんも戸惑いを隠せず、訳の分からない言葉を聞くばかり。
『緊急事態時、緊急用В32・ゲートポイントを使用。侵入者の場合令状9条に基づきゲート爆破処置作動、爆破レベル“テラ”。設定変更なし。整備不良なし―――ゲートを開きます』
何が起きたのか分からなかった。
菖蒲の身体がゆっくりと前に傾く。
その視界の中で、『開かずの扉』が左右に開いていくのが分かった。
「菖蒲ぇぇッ」
冬の陽射しのような優しい光。
扉が開くにつれて光が楽器庫いっぱいに輝く。
「―――アッ」
呼ばれて気付いた。
菖蒲の身体は『扉の中』へ落ちていく。
菖蒲は首を後ろへねじる。
加奈りんが必死に手を伸ばす。
一瞬の出来事なのに、二人にはとても長く感じた。
菖蒲は手を伸ばす。
友人に手を伸ばす。
加奈りんも扉の中に手を入れようと更に伸ばす。
後数センチ。
後数秒。
後一呼吸。
しかし次の瞬間、加奈りんの手が見えない何かに弾かれた。
――加奈りんッ
二人の手が、再び離れていく。
菖蒲の身体が、光へ落ちていく。
加奈りんが叫ぶ。
その後ろには、“奴ら”がいる。
戻れない。
帰れない。
二人が、危ない。
何で私だけが。
「神楽ぁッ加奈ぁぁぁぁ!」
光の中。
菖蒲の涙ながらの咆吼が。
長年閉ざされていた『扉』を揺らす――……。