空目
私は時々「空目」する。「空目」とは空耳の耳を目に適用した言葉である。普段見えていたはずのものが脱落し、見えなかったであろうものが見えるようになるのだ。何も目だけに限ったことではない。強いて言うならば「空目」というのが一番近しい。私からいったい何が抜け出ているのだろうか。いや、こんな風ではなかった。私を伝って、通じて何かが通り抜けたのだ。きっと妖精のいたずらに違いない。それとも、小人かもしれないが。とにかく、「空目」の内容がとか構造がとかをうんたらかんたらと言いたいのではない。私はそれに「空目」と名前を付けざるを得なかったということだ。このような表現でしか表すことのできないもの。用心せよ。愚かな鹿を追い落とす狩人のようになってはならない。ある秋の夕暮にばったりと出会うのだ。ひらひらと舞い落ちる赤い葉の軌跡を追っているうちに。
ベクトルの構成要素にばかり注視してはならない。もちろん始点と終点をじっくり眺めることも必要だが、くれぐれもそれが企図するものをそぎ落としてはならない。木を見て森を見ず。誰がが何かを指さしているのにもかかわらず、ある人は指さしている先を見るのではなく、指先をじっと見ていた。ずれているが故に面白くも虚しい。この場合はほんのちょぴりだけ。ではそれが複素平面上であったならば、球面上であったならば、何も指していないあるいは何かを指しているように「見えた」のならば、どうすればいいのだろうか。そうしたら一息入れて、耳を澄ましなさい。山でさえずる小鳥の鳴き声が、神社の麓を流れる小川のせせらぎが、すぐ脇のけたたましい車のクラクションが、太平洋に浮かぶ積乱雲の雷鳴が、それを教えてくれるでしょう。どこかでシチューのいい香りがする。きっと今日はおでんの日に違いない。晩ご飯が冷める前にはやく家に帰らなくちゃ。ハヤクイエニカエラナクチャ。イエニ、カエラナクチャ。結局のところマンモスにお願いするしかないのだ。五臓六腑に染み渡るあの血を浴びるように飲まなくちゃならない。そうでなくちゃ、我々は前後不覚で三日三晩洞窟の中で神聖なる火を囲んで踊り回るしかないのだ。